10 東の森
一行はバーチナイトを目指し、目的地である東の森へ馬を走らせる。
ジラウドの巨大馬に二人乗りを強いられたエレインだが、それでも薬師としての職務を忘れてはいなかった。
毒や薬は植物から採取されるものが圧倒的に多いが、それだけではない。
いつぞやのマダラメドクガエルのような生き物の他、鉱石、湧き水、時には特定の場所の空気ですら人体に影響を与える。
そんなわけでエレインは今、馬上で旗を掲げるがごとく、虫取り網を構えていた。
馬を走らせながらこうしていれば、一匹くらいは飛んでいる虫が捕まえられるだろう。
馬を操るジラウドの邪魔にはならないよう気をつけているのだが、背後からの視線は痛いほど感じている。
「あっ、入った!」
虫取り網を構える右手に、ぽす、と小さな感覚があった。
いそいそと網を下ろして中を確認する。しかし、そこに入っていたのは大きな木の葉だった。枯れて風に煽られていたところを、エレインの網に引っかかったらしい。
網から木の葉を取り除きながらしょんぼりしていると、背後から気遣わしげな声がかけられる。
「冬に虫は取れないんじゃないか?」
「えっ、あっ……そういえば……」
言われてみればそうだった。
夏なら嫌なほど出てくる虫もこの季節は越冬中だろう。寒空の草原を飛んでいるはずがなかった。
「うっかりしてました。せっかくの遠出だから、いっぱい採取しようと思って」
「……ふはっ」
「っ!」
呆れたため息でも返ってくるかと思えば、ジラウドは我慢しきれないかのように吹き出した。その瞬間、吐息がエレインの首筋をかすめる。
身体が勝手に震えて、馬上で平衡感覚を失った。
(あ、――落ちる)
そう思った時には、エレインの身体は重力と反対の方向に引き寄せられていた。
「危ない」
ジラウドだ。重心を崩して落馬しそうになったエレインを瞬時に引き寄せ、腕の中にその身体を閉じ込めるように支える。
馬は何事もなかったかのように走り続ける。きっと周囲を走る仲間たちも、エレインが落馬しそうになったことなど気付いてもいないだろう。それほど素早く抱きしめられたおかげで助かったのだが、しかし。
(し、し、心臓の、音が)
エレインの背中越しに、鼓動が響いていた。
まるで背後から抱きしめられているような感覚。早鐘を打つ心音は混ざり合い、どちらのものなのか分からなくなってくる。
「あの、ありがとうございます。もう、大丈夫、です」
「……ああ」
舌を噛みそうになりながら言えば、たくましいジラウドの腕がそっと離れた。今度こそ、背後からため息が聞こえてくる。
それみたことか、とでも言って呆れられるかと思ったのだが。
「無事で良かった」
小さな声は、風を切って走る音に紛れて聞こえなかったふりをした。
*
その後、一度の休憩を挟みながら移動を続け、昼前には森の入り口に到着した。
さっそくフェルナンの先導に従い森の中を歩きはじめる。
「なぁ、本当に行くのか薬師殿」
「行きますよ。そのためにここまで来たんですから」
「でも、毒なんだろう……」
どうやら毒と分かっていながらバーチナイトの元に向かうのが嫌なようだ。
「大丈夫ですって。実際にフェルナン様もバーチナイトを摘んで無事に戻ってきたじゃないですか」
「それはそうなんだが……」
「万が一フェルナン様がバーチナイトの側で眠ってしまっても、ちゃんと連れ帰って診て差し上げますから」
「本当だろうな?」
後ろを歩くジラウドの視線がチクチクするので、おっかなびっくりへっぴり腰なフェルナンを励まして前に進んでもらう。
しばらく鬱蒼とした獣道を歩いていると、突然ぱっと開けたところに出た。
「いったん止まってくれ。段差になっている」
フェルナンの指示で後ろを歩いていた全員が足を止めた。
藪で分かりにくいものの、足下は確かに切り立っている。そしてその下には一面に広がる青の絨毯――バーチナイトの花園があった。
「わぁ……!」
思わず感嘆の声が出た。
冷たい風がそよぐたびにバーチナイトが揺れる。青い絨毯が波打ち、さわさわと心地よい音を立てた。
毒草だと知らずに摘んできてしまうフェルナンの気持ちもよく分かる。
「さっそく採取してきます! 皆さんはここで待機して、万が一私の意識がなくなったら……」
言い終わる前に、最後尾を歩いていたはずのジラウドがエレインを追い越した。滑るようにしながら危なげなく崖下に降り立ってしまう。
「あっ、ちょっと」
エレインも慌てて追いかけた。切り立った斜面に生える草を頼りに、大きな段差なのかちょっとした崖なのか分からない斜面を慎重に下る。
「――失礼」
「……っ!?」
地面に足を付けるまでもうひと踏ん張りというところで、ジラウドに両脇を抱えられるようにしてひょいと抱えられた。
ぎょっとして声もなく息を詰まらせるエレインをよそに、ジラウドはさっさと手を離しその身体を地面に下ろす。何事もなかったかのように上に向かって声を上げた。
「誰か上からかごを投げてくれ。その後はその場で待機し、周囲を警戒」
「はい」
落ちてきたかごを難なく受け止めてから、ジラウドは呆れたようにエレインを見下ろした。
「まさか、一人でバーチナイト群生地のど真ん中に入るつもりだったのか」
「一人と申しますか、他に五人もいるじゃないですか」
「……はぁ。かゆみ弾の時と言い、こんなに跳ねっ返りで向こう見ずだとはな」
「なっ!?」
ジラウドはかごを持ったままバーチナイトの花園に足を踏み入れていく。何やら聞き捨てならないことを言われたような気がしたエレインも、再び男の背中を追いかけた。
適当なところで腰を落とす。茎の根本を親指と人差し指でつまんで、真上に持ち上げるようにして引っこ抜く。そうすると抵抗なく根まで綺麗に抜くことができる。
バーチナイトの入眠成分は花粉より根に多く含まれているので、根ごと採取していた。
同じようにして作業していたジラウドが、ぽつりと言った。
「……好きな食べ物は?」
「はい?」
「俺は、チーズが好きだ」
「あ」
(甘いものじゃないんだ)
思わず口に出そうになって、エレインは唇をきゅっと噛みしめた。
前世の夫は無類の甘い物好きだった。けれど男であり武人でもあった夫は、大勢の部下たちの手前、甘党であることは隠していた。
夫の本当の好みを知るのは、夫に近しい数人だけ。結婚してしばらく後、偶然とはいえその数人の中に入れてもらえたことをかつてのエレインは喜んだ。
忙しい夫と月に何度かゆっくり過ごせる日は、必ずテーブルを埋め尽くすほどの甘いお菓子を用意した。美味しいお茶と、それに合う砂糖とミルク、ジャムなんかもたっぷりと。
貧乏貴族の娘が結婚した途端に夫のお金で贅沢をしている、なんて言われていたことは知っている。実際に、当時あれほどの甘味を用意することは贅沢だった。
けれどエレインにとっては、あれが、あれだけが、生涯において唯一の贅沢だったのだ。優しい夫と過ごせる、あの時間だけが。
ぷつ、と小さな音がした。見れば、引き抜いていたバーチナイトの根が途中で折れてしまっている。
(ええと、何だったっけ? ジラウド・シャリエがチーズ好きなんだっけ)
ぼんやりしていたことに気がついて、慌てて採取を再開させた。
「あ、あの。急に何なんでしょうか?」
「何か話していたら眠くならないだろう」
「そんなことは……」
たった今、前世に意識を飛ばしかけていた身としては「そんなことはないと思う」とも言えなかった。
「……あるかもしれないですね」
「それで、好きな食べ物は?」
「あ、甘いもの……とか?」
「なぜ疑問形なんだ」
「なぜでしょう。軍医殿はお好きですか? 甘いもの」
「甘い物は……そうだな、好きだ」
今世でも甘いもの好きは変わらないようだ。
「このことは秘密にしていてくれ。誰にも言ったことがない」
「誰にも?」
「ああ。実家の親子兄弟、友人や同僚、使用人の誰一人にも」
「重大な機密事項ですね」
「そうでもない。この顔で俺が甘党などと誰も思わないさ」
今世では前世以上に徹底的に隠しているらしい。エレインは秘密を守り抜くことを誓って頷いた。
ジラウドが次の質問を投げてくる。
「好きな色は?」
「無難に緑ですね。私の目の色なので合わせやすくて」
「俺も緑が好きだ。春の若葉のような」
好きな場所。好きな花。好きな本。好きな文房具。
とりとめもない質問を投げられては、答えていく。静かな会話だが、それでも確かに、話していると眠気はやってこなかった。
口と手を動かしていると持参したかごはあっという間に一杯になった。バーチナイトはまだまだたくさん生えている。かごに入れた分は一度取り出して紐でくくり上に投げて、もう一かご分採取することにした。
その間も、二人の静かな会話は続いていた。
*
昼前にはバーチナイトの採取を終えた。
下ろしてもらった縄で段差をよじ登り、全員で森の入り口へ戻る。火を焚き、風よけに張ったテントの側に座ったエレインは、たくさん採れたバーチナイトをほくほく顔で見つめていた。
ちなみに、フェルナンはバーチナイトから一番離れたところに腰を下ろしていた。
「昼休憩とする。皆、しっかり休め」
「はい」
ジラウドの指示で、畑兵が手早く昼食を布の上に広げていく。
第三駐屯地の食堂が用意してくれた昼食はハムのサンドイッチに、畑で採れた根菜のピクルス、干し果物が少し。ポットには熱々のお茶が入っている。
サンドイッチをたき火であぶっている間、エレインは顔を上げて周囲に視線を巡らせた。
澄み切った青い空に、黄色や茶色が混ざる緑の森。どこからか聞こえてくる鳥の鳴き声。
(戦争じゃなければ、平和なピクニックなんだけどなぁ)
そんなことをのんきに考えてた時だった。森を震わせるほどの咆哮が轟いたのは。