00 殺し殺された前世
エレイン・ベルジュは前世を覚えている。
夫に毒を盛った報復として、瀕死の夫に刺し殺されて死んだ。そんな前世を。
生まれ変わってもまた会いたいなんて、一度も考えたことはない。
だから、今世で再会するなんて夢にも思っていなかった。
しかも。
「君がいるから、ここに来た」
「また会えないか? 君の都合に合わせるから。本当に、いつでもいいんだ」
「こんなに美しい君を誰にも見せたくない」
(あなたを殺したのは私だって、そう思って私を殺したくせに?)
生まれ変わった夫が、前世を忘れて迫ってくるなんて――!
*
晴れた空の下、中庭にメイドたちの声が響く。
『見てよ、あのお菓子の量。相変わらず贅沢だねぇ』
『落ちぶれていてもいいご身分だこと』
『旦那様と結婚した途端、調子に乗っちゃって』
隠すつもりもない声はあっという間に遠ざかる。
ケーキを持った家政婦長が、エレインの横で深々と頭を下げた。
『……すみません、奥様。後でしっかり叱っておきますんで』
『いいのよ。気にしてないわ』
今のエレインは平民だが、夢で見る前世のエレインは貴族の令嬢だ。
貴族とはいえ、持っているのは古い歴史ばかりで家計は火の車。なかなか縁談がまとまらず、やや行き遅れとなった頃、お金と引き換えに成り上がりの平民と結婚した。
相手は先の戦争で手柄を上げ、異例の大出世を遂げた傭兵上がりの軍人だった。
実力にふさわしい名誉や爵位は当然のこと、報奨金や領地を得て財産は十二分。英雄とも呼ばれる彼にないのは青い血だけだったのだ。
お金と、貴族の血。お互いに足りないものを補うための政略結婚。
片や野蛮な元平民と夫を罵り、片や高飛車な年増と妻を嫌った。
しかし、夫婦の不仲は周りが勝手に言っていること。
当の二人といえば、上手くやっていこうとお互いに歩み寄っていた。
『ソフィ、お湯を持って来てくれる? そろそろあの人が来ると思うの。もうお茶を蒸らしておかなくちゃ』
『かしこまりました』
『ジョゼはそのケーキを切ってここに並べてちょうだい。クッキーももう少し出せる?』
『はいはい、ただいま』
使用人に呆れられるほどのお菓子だって、実は夫婦円満の秘訣である。
だから実家から連れてきた唯一の侍女のソフィも、嫁ぎ先のブロンデル城で家政婦長を務めるジョゼも、エレインをいさめることなくお茶の支度を手伝ってくれている。
やがて、お茶の支度を整えた中庭に夫がやって来た。
『遅れてすみません』
『ちょうど準備ができたところです。お忙しいのに来てくださってありがとうございます』
夫の従者たちは少し離れたところに下がらせて、テーブルに着くのは夫婦二人だけ。ソフィとジョゼが給仕を務める。
今日も色とりどりのお菓子が並ぶテーブルを嬉しそうに眺めた夫だったが、手をお菓子ではなく、懐へと伸ばした。
出てきた小箱を差し出される。反射で受け取ったエレインは、促されるままに小箱を開いた。
『……きれい』
エレインはうっとりと息を吐いた。
天鵞絨に鎮座するのは、まるで星の瞬く夜空を閉じ込めたような大粒の宝石。濃紺に淡い遊色がきらめくこの石の名を星光石という。
ややぶっきらぼうに小箱を差し出した夫は顔を逸らしているが、髪に隠れた耳が赤いのをエレインは見逃さなかった。
『もし気に入らなければ、売ってもらってもかまいません』
『まぁ。これほど見事な星光石は初めて見ました。売るだなんてとんでもない。ペンダントに加工するのがいいかしら……大切にしますわ』
『そうですか』
夫なのだからもっと偉そうにしてもいいのに、とエレインは思う。
平民の生まれで少し年下の夫は、何をするにも遠慮がちだ。元々の立場が違いすぎて距離感を図りかねているのだろうか。
『星光石は深い海の底に沈んでいると聞いたことがあります。海の底からどうやって、地上の私たちの元までやってくるのかしら』
『海……』
夫は紅茶にふたつ、みっつと砂糖を落としながら何やら思案し始める。
少しして、意を決したように言った。
『今度、星海を見に行きませんか』
『星海って……星光石が沈んでいると言われる、あの?』
『はい。季節の変わり目になるとこのブロンデルの西の海でも星海――星空のように光る海が見られるのです。丘から見える海以外は宿も何もないので、夜は野宿になりますが……いや、あなたに野宿させるなんてだめですね、やっぱり』
距離感が分からないのはエレインも一緒だった。けれど、政略結婚とはいえ妻を尊重しようとする夫をエレインは好ましく思っている。
今のくすぐったいような関係も悪くはないが、いつか自然に寄り添える夫婦になりたかった。
『すみません。今の話は忘れてください』
『いいえ、行きたいです』
『野宿ですよ? 時期を選んだとしても風は強いし、寒いですよ』
『楽しみです。野宿も、海を見るのも初めて。温かい服を用意しておきますから、絶対に連れて行ってくださいね。約束ですよ?』
『……必ず、お連れします』
そう言って夫は笑った。お茶を一口飲んで『あなたの淹れたお茶が好きです』と照れながら教えてくれる。エレインも嬉しくて微笑む。
上手くやっていた。祝福された結婚とは言い難かったけれど、きっと幸せになれる。
『お菓子もどうぞ。あれこれと食べきれないほど用意してしまったんです。だからあなたにたくさん食べていただけると、とっても助かります』
『ありがと、う……。……?』
少なくとも、エレインはそのつもりだった。
この日、この時までは。
『どうかされました?』
『……っ、……が、はっ』
夫が、血を吐いて倒れた。
それからはあっという間だった。
夫はエレインが淹れたお茶を飲んで倒れた。同じお茶を飲んでいたはずのエレインはなんともなかったから、エレインが犯人だと断定された。
医者は言う。夫は強い毒を飲まされた。もう助からない。間もなく訪れる死を待つことしかできない、と。
だからエレインは、毒を盛って夫を殺した罪で、夫より先に死ぬことになったのだ。
――悪女!
――毒婦!
――英雄殺し!
領民の怒号は夢の中ですら空気を震わせて、「違う、私じゃない!」と叫ぶエレインの声をかき消した。
処刑台を目にした途端、足が竦む。
領民や夫の部下に石と呪詛を投げつけられながら、執行人の持つ斧で首を切られて死ぬのだ。
無実の罪で。怖くないわけがない。
文字通り引きずられながら処刑台へ向かっていると、ふっと周囲の音が消えた。
『あなた……?』
顔を上げたエレインの視界に、夫の姿が映り込む。毒のせいで皮膚という皮膚が焼けただれた姿で、剣を杖にふらつく身体を支えて。
最期の力を振り絞っているだけだと、素人のエレインにも分かった。
固まるエレインに夫がゆっくり近づいて、やがてその距離がゼロになる。
抱きしめられている。そう気づいた次の瞬間――エレインは、赤く濡れる地面に崩れ落ちた。
『え?』
燃えるように熱い胸を押さえようと思った。けれど腕が上がらない。手も足も、指先一本すら動かせない。
どうやら胸を刺されたらしい。夫に。
『な、んで……』
急速にかすれゆく視界に、夫の口の動きだけが映っていた。
勝ち鬨のように上がる怒号と耳鳴りがひどくて、夫が何を言っているのか、まったく分からない。
少ししてエレインの目が何も映さなくなった頃に、もう一度、重い衝撃があった。きっと、とどめを刺されて絶命したのだ。
もう間もなくの処刑も待てないほど。
瀕死の身体に鞭打ってまで殺したいほど。
毒を盛ったのは妻ではない他の誰かだと、少しも疑わないほど。
それほどまでに、エレインは夫に嫌われていた。