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第287話 『生麦事件交渉-2-証拠なき主張』

 文久二年八月十二日(1862年9月5日) 横浜 イギリス公使館


「発砲した二人は上海に向かったそうですね」





 なに? 上海だと? そんな事は私も初耳だぞ。この男はどこまで知っているんだ? 二人がイギリス人であることか? こちらが意図的に仕組んだ事件だと?


 いやいや、10日そこらでそこまで調べ上げられるはずがない。私だって生麦の報を聞き、被害者の安否と日本への対応を考えるので精一杯だったのだ。


 後になってその二人の行方を追ったが、いまだ見つかっていない。オールコック公使はそこまで周到に行動したのだ。この男が言っている事が本当なら、恐らく日本にはもういないだろう……。


 仮に上海に逃げていたとすれば、もはや日本に為す術はない。自由な海外渡航は許されていないし、この国の慣例上、それを許可するにも議論に議論を重ねなければならないだろう。


 万が一上海に行ったとして、何ができるだろうか?


 租界の中の領事館に逃げ込んだならばなおさらだ。治外法権があり、日本の警察が踏み込もうとしても、門前払いになるだろう。つまりどうあがいても、我が国の関与が露見する事はない。


 もしかすると公使はすでに二人を……。


 いや、それは考えまい。





 ニールは凍てつくような沈黙の後、重々しく口を開いた。


「Mr.オオタワ、上海とは随分突飛な憶測ですね。何か確たる証拠がおありなのでしょうか?」


 次郎は静かに首を振る。


「いいえ、公使殿。証拠と呼べるものはありません。今はまだ、仮説の段階です」





 そう、仮説だ。


 今の段階では仮説でしかない。確かに調査員の報告だと、怪しげな欧米人二人組が横浜の上海行きの船に乗り込んだ、という事までしか判明していない。


 ・怪しげな欧米人が横浜で上海行きの船に乗った。

 ・なんらかの理由で早めに出港した。明確な理由は『定員に達した』から。

 ・日本人のみに聞き込みをしたが、外国人に聞き込みしていたとしても、口止めをされている可能性大。過激な調査は不可能。


 さて、このニールに揺さぶりをかけて、何か引き出せるか? 謝罪と賠償は仕方ないとしても、時間を引き延ばせる。最悪の結果、死んだ訳じゃないから戦争にはならないだろう。


 時間がかかればイギリスも賠償金ほしさに協力、いや、なんらかの落とし所を探すかもしれない。とにかく、時間をかけよう。





「また、仮説……ですか?」


 ニールは疑わしそうに繰り返す。


「では、一体なぜ、犯人が上海に向かったと考えるのですか?」


「この事件には、あまりにも不可解な点が多すぎます。発砲した二人がなぜ逃亡したのか。なぜその場で事情を説明しなかったのか。もし本当に偶発的な事故であれば、その場で説明するのが自然なはずです。しかし、彼らはそうしませんでした。彼らは明確な目的を持って行動し、逃亡を図った。だとすれば、彼らの目的は何だったのか?」


 次郎は間を置き、言葉を続けた。


「私はあらゆる可能性を考えました。そして彼らが意図的に事件を起こし、その後逃亡を図ったと仮定した場合、最も可能性の高い行き先は上海だと結論づけました。その仮説は、それらしき外国人二名が横浜で上海行きの船に乗船した事で、より現実味を帯びたのです」


「上海……ですか?」


「はい。上海は極東における貿易の中心地であり、様々な国籍の人間が出入りしています。身を隠すには最適な場所です。また、上海には租界があり、治外法権が適用されます。日本の当局が容易に捜査の手を伸ばせない場所です」


 ニールは腕を組み、考え込んだ。





 良くわかっているじゃないか。


 そうだ。もう誰も手出しが出来ないところまで来ているんだ。死んでいないとはいえ、日本の武士が、しかも白昼堂々、大領主の管理下で起こした事件だ。


 謝罪はもちろんの事、十分な賠償金を払って貰おうじゃないか。もし、単なる仮定の話でごまかしたり、時間を稼ごうなどとすれば、たちまち列強の信頼を失うだろう。


 ロシアはもちろん、アメリカやフランス、そして親日であろうオランダでさえ、今回は批判をするかもしれない。国際世論は間違いなく我が国に味方する。


 どうする? ありもしない(立証できるはずのない)仮説を根拠に、何をしようというのだ? 


 もしこのまま要求をのまないなら、戦争の可能性も考えなくてはならないぞ。





「それでMr.オオタワ、あなたは一体どうしたいのですか?」


 ニールは静かに、しかし鋭い視線で次郎を見据えた。その言葉の裏には明確な警告が込められている。無謀な行動に出れば、その代償は高くつくぞ、と。


「私は、この事件の真相を究明したい。そして、真犯人を捕まえたい。そのために、貴国のご協力が必要なのです」


 次郎はニールの挑発に乗らず、落ち着いた口調で答えた。


「協力……ですか。具体的に何をすれば良いのでしょう?」


「まず、上海租界における捜査へのご協力をお願いします。犯人が上海に逃亡した可能性が高い以上、租界内での捜査は不可欠です」





 しばらくの沈黙の後に、皮肉を込めた笑みを浮かべてニールは答える。


「租界内での捜査……ですか。Mr.オオタワ、あなたは国際法を理解されているのでしょうか?」


 知っているはずだ。その国際法を逆手にとって、条約をほぼ列強同士と同じようなものとし、サハリンでのロシアとの衝突や、対馬事件を解決に導いた。


 なんの為に治外法権があるのか? それは十分にわかっているはずだ。


「租界には治外法権があり、日本の当局が自由に捜査を行うことはできません。それはあなたもご存知のはずです」


 次郎は静かにうなずく。


「承知しております。しかし、だからこそ貴国のご協力が必要なのです。貴国領事館が捜査に協力すれば、租界内でも速やかに捜査を進めることができるはずです。これは、貴国にとっても利益になるはずです」


「利益……ですか?」


 ニールは眉をひそめた。


「一体、どのような利益があるというのですか?」


 まあいい、少し聞いてやろう。ニールはそう思い、次郎に次を促した。


「もし、この事件が本当に第三国による陰謀だとしたら……そして、その陰謀を貴国と協力して解明することができたとしたら、貴国の名誉は回復され、日英関係も改善されるでしょう。さらに、陰謀を企てた国を特定し、国際社会にその事実を公表することで、貴国は国際社会における指導的立場をより強固なものにできるはずです」


「名誉が回復ですと? いつ我が国の名誉が失墜したのですか?」


「失礼。失墜とは申し上げておりません。しかし、現状では不幸な事件が発生し、お互いの立場が微妙になっていることは事実です。この事態を、むしろ両国の関係を深める機会としたいのです」


 次郎は慎重に言葉を選びながら続けた。


「私が申し上げたいのは、この事件を単なる賠償と謝罪で済ませてしまうのは、両国にとって損失ではないかということです。もし本当に第三者の策略があったとすれば、それを明らかにしないまま終わらせることは、将来に禍根を残すことになりかねません」


「確かに、あなたの言う通り、将来に禍根を残す可能性はあります」


 ニールはゆっくりとうなずいた。


「しかし、Mr.オオタワ。陰謀など存在しない可能性も高い。いや、むしろそれが事実に近いでしょう。もし私があなたの言葉を信じて行動を起こし、租界の中、はては領事館内の捜査を許可したとしましょう。そのような権限は私にはありませんが、本国が許可するとも思えない。それにそういった前例を作ってしまえば、他国がどう思うか……」


 ニールはそこで息をつき、しばらく考えて、続けた。


「私はね、Mr.オオタワ、事実に基づいて粛々と協議を進めるのが外交官だと考えています。ありもしない事、いや、現時点で事実認定ができない事案を規準に話し合いなど、できないと言う事です。謝罪はどうするのです? 賠償は? どうしても事実関係の究明がしたいのなら、その後なさればいい。租界内の調査に関しては、『()()()()()』考慮しましょう」





 話が進まない。両者は一歩も譲らないまま、交渉は翌日に持ち越した。





 次回予告 第288話 『薩摩藩邸とイギリス公使館』

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