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第273話 『日露交渉初日、強硬? 穏健?』

 文久二年二月十八日(3/18) 箱館 駐日ロシア領事館


「問題が起きた時だけでなく、前向きな話し合いの時にお会いしたいものですね」


 次郎たち3人は、ゴシケーヴィチが差し伸べた手を握ることなく右手で遮って言う。


「シェイクハンドはすべて円満に終わってからにいたしましょう」


 顔は笑っているが、その笑いは明らかに作り笑いだ。


「無駄話も世間話も結構です。領事、貴殿は全権だと伺いました。ここに外務大臣がいないのがロシア政府の意向だとも取れますが、まあいいでしょう。貴国は如何(いかが)なさるおつもりですか?」


 次郎は無表情で単刀直入に言った。この期に及んで是々非々などどうでもいいのだ。ロシアの対応はどうなのか? それを確認したい。


「……承知しました。では、本国政府の正式見解を申し上げます」


 ゴシケーヴィチは自国の立場が弱いことをわかっていた。理屈で考えれば、正当性などまったくないのだ。これまで列強が当たり前のようにやってきたことが、日本には通じなかった。


 なぜだ?


 彼我の能力を見誤った、としか現時点では言えないだろう。


 ゆっくりと、言葉を選びながら答え始めた。


「本国政府の意向として、謝罪と賠償の用意がございます」


 次郎は表情を変えずに問い返す。どうやらロシアは穏健な方向でいくようだ。


「具体的には?」


「まず、事案の重大性を鑑み、正式な謝罪文を差し上げます。そして、対馬での我が国軍艦の違法行為により生じた被害に対する賠償金として……」


「話がずれていますよ、領事」


 次郎は冷たく言葉を遮った。川路と竹内が、わずかに身を乗り出す。


「対馬での違法行為だけでなく、警備兵殺害に対する賠償は当然のことです。そして何より日露領土主権条約違反に対する賠償です。それから今後、貴国がわが国の領土主権を完全に尊重するという保証はどのように担保するのですか」


 ゴシケーヴィチの表情が強張る。


「賠償と謝罪については、本国も了解しております。ただし具体的な金額については……」


 領事、と次郎は言う。


「貴殿は全権ではないのですか? 全権とはその名の通り、全ての権限をお持ちのはず。本国からもいくらまでなら賠償金として払って良いと、上限を決められたのではありませんか? その上でなるべく安く済ませろと」


 ゴシケーヴィチは息をのんだ。


 まさにその通りだった。本国からの指示は可能な限り低額で抑えろ、というものだ。しかし、それを見抜かれては交渉の余地がない。


「いいえ、金額については一定の裁量を与えられております」


「では、まずは賠償金の金額をお聞かせください」


 次郎の表情は相変わらず無表情だ。録音機は回り続けている。


「それは……交渉の余地があるものとして」


「ではこちらの希望額を申し上げます。米ドルで100万ドルを要求します」


「な、何と! ?」


 ゴシケーヴィチは思わず立ち上がりかけた。


「法外な!」


「法外? 何をもって法というのですか? 清国はアヘン戦争で600万ドルをイギリスに支払い、アロー戦争では400万両(清国での1両=約1.12ドル米ドル換算452万ドル)を支払っています。それよりも少ない。戦争や紛争といった大規模な武力衝突ではないが、貴国は先の樺太の件から締結した日露領土主権条約を破り、わが国の主権を侵し、なおかつさまざまな違反行為とわが国民の殺害まで行った」


 ここで次郎は少しだけ間を取り、続けた。


「さて、何が法外でしょうか? 教えてください」


 ゴシケーヴィチは言葉を失った。次郎が挙げた事例は、まさに列強が他国に要求してきた賠償の実例だ。それを逆に突きつけられ、反論の余地がない。


「太田和殿、その……確かにご指摘の通りかもしれませんが、状況が異なります。清国の場合は戦争の結果として」


「なるほど」


 次郎は冷静に遮った。


「確かにこの場合は戦争による死亡ではありません。残念ながら日本でもアメリカ人が襲われ、危うく殺されるという事がありました。その際、不慮の事故ではなく、明らかに意図的に狙ったものとして罪人は処罰され、わが国はアメリカに謝罪を行い、上5千ドルの賠償金を支払いました。ですが今回は貴国が一方的に条約を破り、他国の領土で測量を行い、あまつさえ上陸して基地の設営を行ったのです」


 ゴシケーヴィチは冷や汗を浮かべていた。


「私としても、今回の事態の重大性は十分に認識しております」


 ゴシケーヴィチは外交官として冷静さを取り戻そうと努めた。確かに日本側の主張は正当だ。しかし、この金額は本国が決して受け入れないだろう。


「ただし太田和殿、一つ申し上げたい。このような高額の賠償金は、わが国の威信に関わる問題となります。そして威信の問題は、往々にして両国の関係をさらに悪化させる結果を招くものです」


「この期に及んで貴国の威信など……傍若無人な振る舞いをする国の威信ですか?」


「お言葉ですが」


 ゴシケーヴィチは慎重に言葉を選ぶ。


「わが国もまた、一つの主権国家として、ある程度の体面は保たねばなりません。現実的な解決策を見い出すためにも……」


「領事」


 次郎は静かに、しかし冷厳な声で遮った。


「体面とおっしゃいましたが、わが国の領土に無断で侵入し、測量を行い、建物を建て、土地まで要求し、警備兵を殺害したのは貴国です。その上で、賠償金の額を理由に『体面』を持ち出すのですか?」


 ゴシケーヴィチは息をのむ。


「この事案を列強各国の調停に委ねた場合、貴国の『体面』はどうなるとお考えですか? 録音記録とともに、各国領事に事実を伝えれば……」


「それは……」


 ゴシケーヴィチは言葉を失いかけたが、外交官としての経験から、最後の一手を試みる。


「しかし他国の介入は、結果的に事態をさらに複雑にするだけではないでしょうか。我が国としては、日本との二国間で……」


「ではいくらですか? 貴殿がここで決められなければ、いたずらに時が過ぎ、結果として他国の干渉を受けることになるでしょう。いくらなら貴殿の立場も保たれ、貴国の威信とやらも保たれるのですか?」


 ゴシケーヴィチは唇を噛む。次郎の読みは完璧だった。クリミア戦争後のロシアにとって、イギリスの介入は何としても避けたい。しかし、その弱みを完全に握られている。


「30万ドルまでなら……」


 ゴシケーヴィチは観念したように答えた。本国から示された上限である。これ以上の金額であれば、必ず本国に確認が必要となる。


「30万ドル、ですか」


 次郎は腕を組んで考え込むそぶりを見せた。金額としては当初の要求額の三分の一だが、それでも相当な額である。


「そうですか。では保証の方法については?」


「保証とは、具体的にどのような……」


「例えば、今後同様の事態が発生した場合は、賠償金を倍額とする。さらに樺太における権益の一部を放棄するといった条項を入れるのです」


 ゴシケーヴィチの顔が青ざめる。


「それは! そのような事は今決められません。私はあくまで対馬の賠償の全権です」





「なるほど、そうですか……では樺太の件はいかがですか?」


 次郎はポツリといった。





 次回 第280話 (仮)『名を取るか、実を取るか。あるいはその両方か』

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