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第266話 『イギリスの思惑』

 ~文久元年十月十九日(1861/11/21) ロシア サンクト・ペテルブルク 王宮


 外務大臣のアレクサンドル・ゴルチャコフは昼夜を問わず業務に追われていた。


 日本への対応、そして関係各国への対応である。


「至急、箱館領事館へ全権委任状を」


 深夜の執務室で、ゴルチャコフは秘書官に指示を出した。明かりの下、疲れた表情で文書を確認する。


「まず捕虜の身柄引き取り、これが最優先だ。日本側の人道的な対応への謝意も忘れるな」



 


 机の上には各国大使からの報告書が積み上がっている。特にイギリスとフランスからの反応は気になるところだ。


 イギリス大使は早速、事情説明を求めてきているな。なに、心配することはない。むしろ好都合だ。日本側の対応が正当で人道的だったことは、我々にとってありがたい。


 介入の口実を与えないためにも、この事実を強調しよう。


 秘書官が新たな報告書を持ってきた。駐仏大使からの電信である。


 フランスも動きだしたか。だが、我々に非があることは明白。潔く認めることで、かえって事態を終息させられる。我が国の威信は多少傷つこうとも、これ以上の混乱は避けねばならん。


 今のロシアに、極東での新たな紛争など対処できる余裕はない。





 執務室の扉が開き、皇帝の側近が入ってきた。


「陛下がお呼びです。明日の国家評議会に向けて、対応方針の説明を」


「わかった」


 ゴルチャコフは文書を整理し始める。側近が静かに手伝いながら、尋ねる。


「説明の要点は?」


「明快だ」


 ゴルチャコフは言葉をつなぎ、顔を上げた。


「この件で欧州列強が極東に介入する口実を与えてはならん。日本との間で速やかに解決を図る。それが我が国の威信を最小限の損失で守る唯一の道だ」





「外務大臣よ、説明を聞こう」

 

 アレクサンドル2世は深夜の執務室で、ゴルチャコフを見据えた。


「陛下、まず対馬での事件の詳細と、我が国の対応方針を申し上げます」


 ゴルチャコフは恭しく頭を下げ、説明を始めた。海軍大臣のコンスタンチンは、深い疲れを浮かべた表情で黙って座っている。


「我が艦隊の違法行為は明白です。日本側は正当な警告を行い、やむを得ず軍事行動に至りました。しかし、その後の対応は極めて人道的です。生存者の救助、負傷者の治療、捕虜の適切な処遇。これは文明国としての対応と言えましょう」


「ほう」


 アレクサンドルの顔は険しい。


「さらに、英仏両国は早くも動き始めております。特にイギリスは、この件に介入する機会を探っているようです」


 コンスタンチンは沈痛な面持ちで床を見つめたまま、わずかに肩を震わせた。自身の判断の誤りが、帝国をこのような事態に追い込んだのだ。


「我が方の提案は、日本との二国間での迅速な解決です。違法行為を認め、適切な謝罪と賠償を行う。これにより列強に介入の口実を与えません」


「承知した。その線で進めよ」


 アレクサンドルは深くうなずいた。





 ■翌日


「大臣、イギリス大使のストラトフォード・カニング閣下がお見えです」


 秘書官の声に、ゴルチャコフは小さくうなずいた。最初の訪問者は予想通りだった。ストラトフォード・カニングはクリミア戦争の立役者であり、先帝ニコライ1世は着任を拒否していた。


 クリミア戦争中に没した父に代わり即位したアレクサンドル2世であったが、敗戦にともない欧州での協調路線にあわせるべく、ストラトフォードを着任させていたのだ。


「通してくれ」


 入室してきたストラトフォードの表情には、普段の強さとは違う、どこか余裕のような色が見えた。


「大臣閣下、お忙しいところ恐縮です」


 着席しながらストラトフォードはさりげなく切り出す。


「日本からの報告について、お話を伺えればと」


「ほう、早耳ですな」


 ゴルチャコフは給仕に飲み物の準備をさせながら、相手の様子を観察した。


「我が艦隊の不始末のことですか」


「ええ。貴国の軍艦が日本の軍艦によって撃沈された、と」


 ストラトフォードは意図的にゆっくりと続けた。


「しかも、正当な警告を無視した末の出来事と聞いております」


 ゴルチャコフの眉が動く。その情報は箱館からの報告にしか含まれていないはずだ。となると……。


「貴国の駐日公使から、詳しい報告でも?」


「ええ、まあ」


 ゴルチャコフが探りを入れると、ストラトフォードは満足げな表情を見せる。

 

「我々としても、極東の平和維持には責任がありますので。日本政府とは緊密に連絡を取り合っております」


「なるほど」


 ゴルチャコフは相手の言葉の真意を測る。イギリスは明らかに日本側と接触を深めている。おそらく、この事件を機に何かを得ようとしているのだろう。


「我が方の違法行為は認めます。日本側の対応は正当でした。これは日露両国間で解決を図るべき問題かと」


 ゴルチャコフは率直に答えた。


「そうでしょうか」


 ストラトフォードは身を乗り出してきた。


「これは単なる局地的な事件ではありません。極東全体の安定に関わる問題です。我が国としても、仲介の労を取る用意が……」


「お気遣い、恐縮です。しかし、日本側は極めて理性的な対応を示しております。捕虜の処遇も人道的です。これ以上の混乱は避けられるでしょう」

 

 ゴルチャコフは穏やかに、しかし確固たる口調で遮った。


「閣下」


 ストラトフォードは声のトーンを変える。


「我々の情報では、日本側はかなり強硬な姿勢です。賠償額も相当な規模になるかと」


「ほう」


 ゴルチャコフは心の中で冷笑した。イギリスは明らかに問題を大きくしようとしている。日本側と結託して、ロシアに譲歩を迫るつもりなのだろう。


「我々としては、事態の悪化を防ぐために、両国の間に立って……」


「すでに箱館領事館に全権を委任しております」


 ゴルチャコフは静かに、しかし決然と告げた。


「日本側の正当な要求には、誠実に対応するつもりです。第三国の介入は、かえって事態を複雑にするのではないでしょうか」


 ストラトフォードの表情が一瞬、強張った。ゴルチャコフの言外の意味は明らかだった。


「そうですか……」


 諦めたように立ち上がる。


「では、進展がありましたら、お知らせください」





「やはり、動き始めていたか……」


 ストラトフォードが去った後、ゴルチャコフは深いため息をついた。


 窓の外を見ながら、ゴルチャコフは考えを巡らせる。極東では、すでに新たな外交戦が始まっているのだ。イギリスは日本を取り込み、ロシアの影響力を排除しようとしている。


「箱館への指示を急がねば」

 

 ゴルチャコフは机に向かった。イギリスに介入の機会を与える前に、日本との直接交渉をまとめる必要がある。そして何より、日本側がイギリスの思惑に乗らないことを願うばかりだった。


 しかし、その願いが叶う保証はない。





 ■江戸 イギリス公使館


「オールコック殿、先日の5か国会談での結論を踏まえ、こうして直接会談をしているわけですが……。単刀直入に、貴国はロシアにどう対処なさいますか?」


 次郎は尋ねた。


「まあ、そう慌てずとも……。コーヒーがいいですか、紅茶がいいですかな」


 オールコックは穏やかな微笑を浮かべながら次郎に飲み物を勧め、次郎はコーヒーを選んだ。


「我が国としては、貴国の立場を全面的に支持いたします。ロシアの行為は明らかな国際法違反です」


 一呼吸置いて、オールコックは続ける。


「しかし、このまま単なる二国間の問題として処理するのは、得策ではありませんな」


 次郎は黙って相手の言葉に耳を傾ける。


「先日太田和殿が仰った通り、ロシアの南下政策は我が国としても懸念材料です。今回の事件は、ロシアの野心を抑え込む絶好の機会かと」


 オールコックは言い回しに気を配りながら、話を進めていく。


「我々が仲介に入ることで、より大きな賠償を引き出せる。そして何より、ロシアの極東進出に歯止めをかけられる」


「なるほど」


 そううなずいて次郎は続ける。イギリスにとっては日本が云々(うんぬん)というより、自国の権益ファーストだ。


「ロシアが強気に出てくる可能性はありませんか? 戦争も辞さず、と。もちろん、貴国の意向には関係なくです」


「ハッ」


 オールコックは小さく笑った。


「それは、まずありますまい」


 次郎が眉を上げると、オールコックはコーヒーに砂糖を加えながら説明を始めた。

 

「ロシアは今、そのような余裕はないのです。クリミア戦争での敗北から立ち直れていない。ましてや、極東での戦争など……」


 オールコックは一呼吸置き、続ける。


「しかも今回は、貴国に正当な理由がある。ロシアがこれを機に戦争を仕掛けてくれば、それこそ我が国はもちろんの事……フランスも、黙っていないでしょうな」


「それは……本気で介入されるということですか?」


「もちろんです」


 オールコックの声音に力が入る。


「我々にとって、ロシアの南下は何としても阻止せねばならない。現に、極東での影響力拡大を図ろうとするロシアの動きは、我が国にとって看過できない問題なのです」

 

「ほう」


 次郎は興味を示した。


「具体的には?」


「我々にとって、ロシアの東アジアでの動きは気がかりです。アイグン条約、北京条約で清国から大きな譲歩を引き出し、今度は対馬まで狙ってきた」


 オールコックの声音に力が入る。


 まったく、イギリスにしたって対馬の占領を考えていたんだろうに。次郎はそう思うがおくびにも出さない。


「清国における我が国の権益を守るためには、ロシアが清国へ及ぼす影響力をこれ以上強めさせるわけにはいきません。対馬は、まさに清国と日本の間に位置する戦略的な要衝です」


 次郎は冷静に相手を見据えながら、含み笑いを浮かべた。


「なるほど。……ではロシアが強硬な態度を示さず、他国の仲介も必要とせずに、譲歩を覚悟で二国間交渉を打ち出してきたならば?」


 オールコックは一瞬、表情を強張らせた。日露間での直接交渉は、イギリスにとって最も避けたいシナリオだった。


「それは……避けるべきでしょう」


 オールコックは入念に言葉を選ぶ。


「ロシアの譲歩的態度こそ、何か企みがあると見るべきです。表向きは柔軟な姿勢を見せながら、実は……」


「実は?」


 次郎は相手の言葉を遮るように問い返した。


「ロシアという国は、一時的な譲歩の後に、必ずや再び領土的野心を見せてくるものです。清国での彼らの行動を見れば明らかです」


 オールコックは説得するように語る。

 

「なるほど。なるほど……なるほど。ロシアは……ですか。ロシアは……」


 次郎は静かにうなずく。まったく、イギリスとフランスとも、似たような事を清国でやったろうに。しかしおくびにも出さない。


「ですが仮にロシアが今回、クリミア戦争後の立場を考慮して、素直に譲歩してきた場合はどうされます? 貴国の分析では、彼らには極東で新たな紛争を起こす余裕はないとの事でしたが」


「それでも、我々としては……」


「オールコック殿。こうしませんか? いずれにしてもロシアの正式回答まであと数ヶ月待たなければならないのです。貴国は自国が介入した方が、我が国に有利な条件で調停できるとおっしゃった。ならばまずはロシアの出方を待ち、もし強硬な手段をとるのであれば、調停をお願いする、これでいかがかな?」


 オールコックは言葉に詰まった。次郎の提案は、表面上はまったく合理的だ。むしろ、イギリスの主張に沿った形での提案とも言える。しかし……。

 

「ロシアの回答を待つ、と?」


「はい。そもそも我が国の要望はロシアの正式な謝罪と賠償でした。おそらくロシアが強硬な態度をとり、簡単には認めないだろうとの予想から、4か国に協力をお願いしたのです。しかしロシアが素直に交渉の席につき、譲歩してくれれば何の問題もありません。ですからもし、そうならずに態度を硬化させるようであれば、調停をお願いしたい。いかがでしょうか。詳細はその際につめるということで」


「なるほど……」


 オールコックは眉間にしわを寄せる。


「確かに、貴国の言い分はもっともです。しかし……」


「しかし?」


「仮にロシアが表面上は穏当な態度を示したとして、それを信用してよいものでしょうか」


 次郎は軽く微笑んだ。

 

「なに、心配は要りません。信用するもしないも、約束を破った時の事を考えておけばよいのです。例えば、そうですね。もし約定を破れば、ロシアのアムール川以北、以東(沿海州)の権益を手放すとでもしておきましょうか」


 しばらく間を置いて、さらに続ける。

 

「破ったならば清国に協力してロシアが撤退するように軍事的援助をすればよいのです。ロシアもさすがにそれが明記されていれば、おいそれと破棄はできないでしょう。破ったら清国に感謝され、ウラジオストクという不凍港を手放す事になるのでやらないでしょうが」


 オールコックは息をのんだ。


「それは……」


「たとえばの話で、いま私が考えた事です。我が国と貴国はそうなった場合の……最悪の場合の対応を考えておくだけでよいのではないでしょうか」


 次郎は笑顔で軽い調子で言う。嘘だ、そんなことあるはずがない。オールコックは表情の下でそう考える。

 

「しかし、内容はともかく、こういった条項を入れておけば、ロシアも簡単には約定を破れないでしょう。そして貴国には、清国でのロシアの権益を弱体化させ、かわりに自国の権益と影響力をさらに高める絶好の機会となる。むしろ、ロシアが約定を破ってくれた方が……いや、この先はやめておきましょう」


 清国にとってはどちらにしても状況は変わらないが、次郎も自国ファーストなのだ。


 オールコックは複雑な表情を浮かべる。次郎の提案は、イギリスにとってある意味では魅力的な内容を含んでいた。しかしそれは、同時に大きな賭けでもある。


「ですが、そこまでの条件をロシアが受け入れるとは……」


「条件は例えばの話です。それに、受け入れなければ貴国に調停をお願いする。これが我が国の条件です」


 次郎は淡々と告げる。


「ロシアにとって、どちらが得策でしょうか。イギリスの調停を受けるか、それとも……」


 イギリスとしては当然調停に入ってこの問題に介入したい。その上でロシアの影響力を削ぎ、日本側からなんらかの代償を得たいというのが本音である。


 オールコックはようやく理解した。これは単なる調停案件ではない。より大きな外交戦の一手なのだ。


「分かりました。貴国がそうお考えならば、これ以上は我が国としては何も言う事はありません。しかし努努(ゆめゆめ)油断してはなりませんぞ」


「ご忠告、痛み入ります」





 こうして対ロシア交渉の日本のスタンスは決まった。


 あとはロシアがどう出てくるかである。





 次回 第267話 (仮)『幕府と次郎と大村藩』

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― 新着の感想 ―
ブリカスが親切心で動く事は天地がひっくり返っても絶対に有り得ないという日露双方の共通認識 コイツラに間に入らせたら、対馬は我々が責任を持って管理しようとか言い出すやろ
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