12 浮かれている
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「海沢くん、浮かれているねえ。なんかいいことでもあった?」
「そんな風に見えますか?」
見える、見える。と、田代さんは自分事のように嬉しそうに笑う。
月曜日。一日バイトが入っていたこともあり、朝から田代さんに宜しくお願いしますと言って作業に取り掛かる。その最中も、幸が帰ってくる四時が楽しみで、時計ばかりを気にしていた。それを軽く指摘されつつも、顔に出ていたのか田代さんにそんなことを言われてしまった。
「もしかして、あの子のことかい?」
「ええ、まあ」
「この間のデートはうまくいったのかな?」
と、質問攻めにあいながら、僕はこの間のデートのことを話した。
朝早く出かけて、映画を並んでみて、それから食事を……という時に、幸の同級生の子がきて、幸はその子に連れていかれてしまって。と、そこまで振り返ると、デートが成功したのかと言われれば、成功していないんじゃないかとも思った。あの時は、幸が楽しかった、と言ってくれたから、ああ、よかった。と思ったけれど、デートが途中で中断されている時点で、いいデートとは言えないのかもしれない。
田代さんは、苦笑いを浮かべていて「それは災難だったね」と僕の肩をたたいた。
「そうでもなかったですよ。初めて見る恋愛映画は新鮮でしたし、デートってこんな感じなんだって思いました」
「それは良かった。いい人生経験になったね」
そう田代さんは言うとカウンターに戻っていく。
田代さんに障られたほうじゃない方の肩がズキンと痛んだ。肩こりからくる頭痛のようなものがし、ただの疲れかと流せればよかったのだが、きっとあの症状だと僕は思った。今のは、確かに幸せな時間を誰かに聞いてもらえる幸せ、に繋がる気がして、症状が出るのも納得できた。本当に本人の意思とは関係なく蝕むひどい病だと思う。
この奇病に向き合っていくと決めてから、大きな幸せを感じたことはなかったが、小さな幸せの積み重ねで、身体がボロボロになり始めていることはわかっていた。もしかしたら長く生きられないかもしれないことも、分かっていた。それでも、下を向いて生きることは死ぬより辛いことなんじゃないかと、生きる意味って何なのかと哲学みたいなことを考え出してしまうことにもなるので、あまり考えないようにしている。それでも何で? とは言わない。奇病は、感染病や癌のように移ったり、出来たりというものではなく、自分の弱さが引き起こす病だからだ。自分のトラウマを恐怖を乗り越えたとしても、一度感じたものがなくなるわけではない。過去にとらわれ続け、それを背負って生きていくことになる。それが、奇病だった。
(だから、言えないよな……)
鼻歌を歌いながら、コーヒー豆をいる田代さんを見ながら、いつか奇病のことを離そうと、前から思っていることを今日は何故か強く思った。田代さんなら受け入れてくれるはずだと、そう期待している。
「そんな、じっとみて、どうしたの。海沢くん」
「あっ、いえ。今日も機嫌がいいなと思いまして」
「そりゃあ、今日も海沢くんの顔が見えたからね。少ないバイトの子を見るとテンションも上がるよ」
「僕なんてそんな」
卑下しない。と刺されつつも、田代さんは嬉しそうだった。
田代さんは、奥さんを失った悲しみを背負いながら生きている。だから、奥さんと守ったこのお店を守っていきたいという意思も、そのお店で働いてくれる従業員の人にも感謝の心を持っているのだと。僕もそんな田代さんみたいになりたいと思った。つながりの中で生きていくことの大切さと温かさを、田代さんから学んだ気がする。
「……げほ、ごほ」
「海沢くん大丈夫?」
突如、吐き気がこみあげてき、壁に手をつき、もう片方の手で口元を押さえた。たらりと鼻から赤いものが流れ出す。田代さんは「ティッシュ、今持ってくるからね」と急いでカウンターから出ると、バックヤードからティッシュを取りに行って戻ってきた。
「あ、ありがとうございます」
「本当に大丈夫?流行病とかも出てきてるし、まあ、鼻血が出るなんて症状はなかったけど」
と、僕の背中をさすってくれる田代さん。
間違ってはいない。これは症状だ。
僕はもらったティッシュで鼻を押さえて下を向いた。ぽた、ぽたりと二滴ほど床に落ちてしまったため、もらったティッシュでそれらをふき取った。床に赤い線がしゃーと引かれる。
(少し、羽目を外しすぎたかもしれない)
幸とのデート、いい職場、いい関係。それら全て幸せだった。下向きに生きていた人生に一縷の光が差し込んだような、束の間の幸せに僕は舞い上がっていたのかもしれない。それがあだとなって、今自分に降り注いでいる。自業自得だ。
この奇病と診断されたときに、恋なんてしちゃだめだ、恋人を創っちゃいけないと忠告されたことを思い出した。その忠告を無視したのは僕だった。
すべては自分が招いたことだった。
(痛いなあ……全身)
心は満たされているのに、身体が言うことを聞かなかった。そのどうしようもなさに、丸めたティッシュを鼻に突っ込みながらひしひしと実感し、絶望した。




