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かちむし

作者: お針箱

東京下町の六畳一間で


貧乏なアパート暮らしをしていた


当時の俺は二十代


悲愴感はなかった


金はなくとも 若さがあった




小さな冷蔵庫の中には


賞味期限が切れた


海苔の佃煮の瓶詰と


パンの耳が少々




その冷蔵庫のドレン水が漏れて


気付いた時には


畳が一枚腐ってた




大家のばあさんに事情を話すと


腐った畳一枚だけじゃなく


六畳間の畳全部を取り換えろ


と要求してきた




因業大家め


パンの耳喰って生きてる俺に


畳六枚分の金があると思うか




しかし若い俺には


大家と要領よく交渉する知恵もなく


考えあぐねた末


隣の部屋に住むおっさんに


相談することにした




おっさんとは


特に親しかったわけじゃない


見かけたら軽く会釈する程度の


付き合いだった


だから 彼が何者なのか


知らなかった




歳は六十前後といったところか


あまり出歩く様子はなく


訪ねてくる人もいなかった


どうやって生計を立てているのか


謎だった


それでも


俺より長く


このアパートに住んでる


俺より長く 人間やってる


だから 何かいい解決策を


見つけてくれるのではないか と


淡い期待を抱いたわけだ




ある晩 一升瓶を抱えて


おっさんの部屋を訪ねた




酒を買う金を


どうやって工面したのか


今となっては これも謎だ




とにかく 一升瓶を抱えてた


相談ごとをするのに


手ぶらじゃ行けないから




部屋に一歩入ると


ぷうんと古道具屋のような


においがした


カビ のにおいだろうか




小さなちゃぶ台とせんべい布団


早い話が


俺の部屋と大差なかった


ただひとつ違っていたのは


本棚があった




ガラスの扉越しに見える背表紙には


この部屋の住人には


およそ似つかわしくない


小難しい文字が並んでいた




謎は深まる




二人で酒を酌み交わすうち


おっさんがポツリポツリと


語り始めた




「東南アジアのある国から


棺桶を輸入する商売をしてたんだ


でもちょっと焦げ付かしちゃってね


借金抱えちゃって


ほとぼりが冷めるまで ここで


こうして身を隠してるってわけさ


いずれまたやるつもりだ


面白いよぉ 」




二つの目はギラギラしていた




「よかったら お前


紹介してやってもいいよ


ちょっと危ない橋を


渡ることもあるけどな 」




当時 俺は転職を考えていた


しかし 


危ない橋を渡る度胸はなかった




曖昧な薄ら笑いを浮かべる俺をみて


おっさんは


「ふんっ」 と 馬鹿にしたように


鼻先で笑った




「簡単すぎる人生に


生きる価値などなぁい 」




本をたくさん読む人は


言うことが違うな




難しい本の持ち主は


少し酔いが回ってきたようだ


目が据わって


声がデカくなってきた




「簡単に実現できるような


そんなちっぽけな夢ばっかり


持ち歩いてんじゃねぇぞ 」




そして


そのままハイペースで飲み続け


酔いは佳境に入り




「おいっ 青年!


前へ進めっ 後戻りするなっ 」




そして急に小声で呟いた




「人生は短かい … 」




おっさんは 


しばらく黙ったままだった


その沈黙は 若い俺には重すぎた




ギラギラした目は 充血していた


酒のせいだろうか 


それとも




「そぉだ お前にいい物やろう 」




本棚の扉を開けると


ブローチのような物を取り出した


えっ トンボ?




「トンボじゃない “かちむし”だ


お守り代わりに持ってろ 」




目の前の酔っ払いは


いよいよ最終段階へ突入した


真っ赤な顔で




「悔いなき人生を!」




ひや酒の入ったグラスを掲げて叫び


ついに ちゃぶ台に突っ伏した


肩が微かに震えていた




結局


解決策は見つからなかった




腐れ畳の件は


その後 大家と喧嘩して


アパートを出てしまったので


どうなったか 知らない




おっさんとは あれきり


会っていない




“かちむし” のお守りは


今も大事に持っている




『簡単すぎる人生に


生きる価値などない。』




これがソクラテスの言葉だと


知ったのは


それからずっと後のことだった



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― 新着の感想 ―
[一言] まさしく一期一会。 おじさんが主人公君にかちむしのお守りをくれたのは、まだ若い主人公君の未来に、少しでも希望が差し込むようにと願いをこめてでしょうかねぇ。 しみじみとした趣のある作品でした…
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