不愉快
三題噺もどき―にひゃくさんじゅう。
彼女はその日、不愉快にとりつかれていた。
「……」
朝からずっと。
起きた瞬間から、一秒足らずとも。
不愉快で不愉快で、不愉快だった。
「……」
愉快だったことなど、それまでの人生で一度もなかった彼女だが。
それでも不愉快になるほどの事もなかったのだ。
何もかもがなぁなぁで、適当でほどほどで。愉快でも不愉快でも。悲劇でも喜劇でもなかった。
「……」
しかし、その日は。
「……」
一日中、ずっと。
不愉快で、どこか悲劇的で。
この日の為に、それまでの人生何もなかったのかと、思いたくなってしまう程に。
劇的なまでに不愉快にとりつかれていた。
「……」
夢の中では、訳の分からない何かに追われ。獣のようなそれに追われ。ひたすらに逃げていたが、最後には腕をつかまれ、飲み込まれ―そこで目が覚めた。
「……」
もちろん、汗まみれ。
起きたばかりなのに、呼吸は荒い。心臓はうるさい。喉はカラカラで、身体が変に震えていた。
「……」
だから、落ち着かせようと。ついでに、喉をうるおそうと。
身体を起こし、立ち上がり、キッチンに向かおうとしたら。
―なんの拍子か知らないが、スマホが足の甲の上に落ちてきて。痛みに耐えかね、思わず体を縮こませると、今度は机に頭を打ち。
「……」
まさに踏んだり蹴ったりで。
ただでさえ悪かった寝起きが、更に悪く不愉快になった。
それでもまぁ、水を飲もうとしたのだ。きっとぼうっとしているのが悪いのだろうと、半分はよくわからない意地みたいになって。
「……」
そのせいで、お気に入りのマグカップを落としたとしても。だ。
ジクジクと、やけに痛むその打撲跡に、気を取られすぎたのだ。
水を入れようと、手にしたカップは、するりと落ちていった。
見事にそれは、割れ、破片をあたりにまき散らした。
「……」
破裂した音で、はっきりと起きた頭は、どうしたものかとめぐり始める。
とりあえず、片付けようと動いたのだが。
しかしやはり、ついていないのが今日の彼女だ。
よけたつもりで踏み出した先に、小さな破片が転がっていた。それを思いきり踏んだ彼女は、足の裏に大層な傷を作った。
「……」
朝からこれだけ、不幸が重なれば、もう何もかも投げ出してしまいそうなものだが。今日は何もせずに、一日家にこもろうと、全てを放り出そうと。普通なら、そう、しそうなものだけど。
「……」
だから彼女は、意地を張るのだ。
他人と同じようにはなりたくないから。普通は嫌だから。
「……」
なんとか。
もう半分以上、意地と根性で散らばった破片を直した彼女。もうそれはここに示しきれないほどの、踏んだり蹴ったりを繰り返しながら。
「……」
それからどうしたか。
家に大人しくしていればいいものの。
彼女はあろうことか外出した。
「……」
今日にしては珍しく、休日で、家にいることができるのに。
気分転換だと自分に言い聞かせ、意気揚々と。
不愉快を抱えたままに、外出した。
「……」
それからのまぁ、何とも悲劇的なこと。
「……」
一歩歩けば、石に躓き、段差につまずき、何もないところで躓き、盛大に転がり。
更に歩けば、鳥にフンを落とされ、気に入りの服を汚される。持参のちり紙で拭おうとしたら、ボロボロのそれが出てきて。何とかしようと、近くにあった公衆トイレに駆け込めば、もうすべての紙がなかった。
「……」
もういっそと、水で流した彼女だが。おかげで水浸し。タオルも持ってきていない。
天気が良かったのが、少しの救いだった。
「……」
もうそれからは、何も考えずに歩いていた。
ひたすらに降りかかる、不愉快と共に。
「……」
「………」
「……あれ」
そんなことをして。そんな状態で。歩いていたから。
彼女は気づけば見知らぬ場所にいた。
―正確には、知っていたが、記憶の底から引き出さないと、彼女は思いだせない。
「……」
不愉快まみれの今日にしては、珍しくいいものを見たと、彼女は。
ふっ―と、息を吐いた。
気を抜いた。
それまで張り詰めていた緊張を、解いた。
「……?」
彼女は、今日は。今日だけは。
常に気を張り、神経をとがらせ、何に対しても攻撃的でいないと、いけなかった。
だから、朝から不愉快に襲われ続けていたのに。
―そうでなければ、彼女は消えてしまうから。
「……犬……?」
しかし、もう意味はなかった。
目の前に広がるのは、色とりどりの花畑。
赤に黄色に紫に青。桃色に橙に紫に青。どこまでも続く一面の花畑。
その中に、1つ。
「……いや、あれは…」
―おおかみ?
他に1つとしてないその色は。灰のような、白のような、銀のような、黒のような。得も言われぬ美しさを持った獣の色だった。
「……?」
何をするでもなく。ただ静かに。
その獣はそこにいて、じっと彼女を見つめる。
「……?」
金色の瞳が、ねめつけるように。
―しかしどこか、優しさを滲ませて、彼女をひたすらに見ていた。
「……あれは…」
その獣に何もせずに。ただ、眺めるだけで済ませてしまえば、それはそれでよかったのだ。
だが、彼女は出来ないから。興味を引かれ、惹かれてしまうから。それ以上の不愉快を与えていたのに。
―もう、何もかもが手遅れだ。
『―――まってたよ』
「――!?」
ゆっくりと、その獣は口を開き、彼女にそう語り掛ける。
ギラリとその瞳が、太陽に照らされ、より強く輝き―瞬間、彼女の目の前に、その獣は居た。美しい毛並みをたたえた、狼は牙をのぞかせる。
「―――」
『ずっと、この時を』
スリとその身を彼女に寄せる。
ふわりとした毛が、彼女の肌を、ぞわりと、撫ぜる。
「―――」
『お誕生び、おめでとう』
今日は彼女の生まれた日。
生まれてから、時を経て、大人になった。
特別な誕生日。
『やっと、一緒に、』
「―――」
ざぁと、一際強く風が吹く。
その後には、ただの花畑が広がっていた。
それから、彼女を見た人は居ない。
そも、彼女は、誰の中からも消えた。
両親の記憶からも、兄弟の記憶からも、友達の記憶からも。
幼い頃に、神に隠された少女は。
時が経ち、大人になり、娶られていった。
お題:不愉快・狼・色