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ノア  作者: 柏木椎菜
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六話

 机で事務作業をするリベカさんを横目に、あたしは事務所内の掃除をする。近頃リベカさんは机に向かってる時間が多い。

「出かける仕事、最近はないんですか?」

「うん。全部済ませちゃってね。あとは報告書まとめるだけ。今は新たな依頼待ち」

「じゃあ、ちょっと休めますね」

「まあ、そうだけど、休む時間があるなら仕事して稼いでるほうがいいかな。便利屋なんていつ潰れるかわかんないし、暇だと不安なんだよね」

 首をほぐしながらリベカさんは言った。ここは裏社会の人しか受け付けないから、普通の便利屋より依頼数は少ないのかもしれない。そうだとすると不安なのもちょっとわかる気がする。

 その時、入り口の扉が開いて誰かが入って来た。気付いたリベカさんはすぐに立って迎えに出る。

「おい、誰かいるか」

「はいはい、ここにいま――グリオンさん!」

 そう呼ばれた初老の男性は、リベカさんを見て微笑んだ。白髪混じりの髪は綺麗に撫で付けられ、眼光鋭い目はリベカさんとその後ろにいるあたしを見てくる。長いコートの下には高級そうな上着とシャツ、ズボンが見える。裾からのぞく革靴もピカピカだ。そんな身なりだけでこの人がどういう人なのか、何となくわかる。

「久しぶりだな。ちゃんと仕事はあるのか?」

「ちょうど今暇してたところです」

「ならよかった。仕事を持ってきてやったぞ」

「ありがたいです。シモン! 起きて。仕事よ」

 リベカさんが呼ぶと、応接室で寝てたシモンさんがのっそりとやって来た。

「……ああ、グリオンさん、久しぶりですね。変わりないですか」

「見ての通りだ。そっちは疲れてそうだな」

「寝起きだからそう見えるんでしょう。問題ないですよ」

「そうか……そこの若いお譲さんは、以前は見かけなかったが?」

「この娘はミリアム。うちの従業員です」

 リベカさんはあたしの肩に触れて紹介してくれた。

「よ、よろしくお願いします……」

 会釈ぐらいしたほうがいいのかな。

「長いこと二人だけだったのに、今さら雇うことにしたのか」

「それがグリオンさん、話せば長くてですね……」

「簡単に説明すれば、成り行きです」

 リベカさんの言葉に、シモンさんがじろりと見やった。

「成り行き? お前のお節介と独断だろ」

「何よ。今さら不満ぶつけるの?」

「そうじゃねえけど、その言い方は正しく――」

「わかったよ。そういちゃつくな」

「い、いちゃついてなんか……!」

 リベカさんが慌てて否定するのを見て、グリオンさんは楽しげに笑った。この人、笑った顔のほうがいいな。

「挨拶はこのぐらいにして、依頼の内容を聞かせてくださいよ」

 シモンさんに言われて頷いたグリオンさんは、目に付いた事務所の椅子に腰かけた。それを見てリベカさんが聞いた。

「応接室で聞きますけど?」

「野郎が直前まで寝てたソファーには座る気になれないんでね」

「あ、見てましたか……」

 リベカさんは苦笑いでそう呟いて、シモンさんは気まずそうに頭をぽりぽりとかいた。身なり同様、この人はきっちりした綺麗好きらしい。

 三人はそれぞれの椅子に座って、あたしはその背後から眺める形で、早速依頼の相談が始められた。

「今回は、ある絵を見つけてもらいたい」

「絵、ですか。それはグリオンさんの個人的なもので?」

「いや、商会のものだ。数日前、潜んでいた内通者に盗まれてしまってな。そいつは何とか捕まえたんだが、その直前に絵をどこかへ隠したようで、ありかを吐かせようといろいろ試すうちに、誤って死なせてしまってね」

「あら、それは大変ですね」

 三人はまるで、それが日常的に起こってるような様子で話してるけど、この内容って、内通者を拷問して死なせちゃったってことだよね。裏社会は怖いところだってわかってたつもりだけど、ここまで何でもありの恐ろしい世界だったとは……。

「俺達には、その絵を探してほしいってことですか」

「そうだ。方々探し回ったんだが、なかなか見つからなくて、お前達に頼ることにしたわけだ」

「わかりました。じゃあまずは絵の特徴と、それから内通者が訪れそうな場所の予測なんかを教えてくれます?」

「絵は縦横四十の正方形で小振りなものだ。作者はエルステッド」

「エルステッドって、あの、宗教画で有名な?」

「その通りだ。だが今回の絵は風景画だ。彼の初期の作品で、丘越しに海と夕日が描かれている。宗教画以外はほとんど出回っていないことから、かなり貴重な代物になっている」

 エルステッド……昔の職場で聞いたことがあるような。

「へえ。そんなに貴重なものなら、見つけ出したいわけですね」

「それと、これが予測場所だ。口で一つずつ説明するのも面倒だと思い、一覧表にしてきた」

 グリオンさんはコートの内側から折り畳んだ紙を取り出してリベカさんに手渡した。

「これは、とても助かります」

「こちらですでに探した場所も含まれているが、見落としもあるかもしれない。細かく探してみてくれ」

「そうしてみます。じゃあ最後に……」

 リベカさんは恐る恐るグリオンさんの顔をうかがう。

「報酬だろう。わかっている」

「催促するようですみません。こういうことも決めておかないといけないもので」

「いつものことだ。だが今回はいつものように前払いはしない」

「え、それじゃあ成功報酬のみで?」

「悪いがそうさせてもらう」

 リベカさんとシモンさんは戸惑ったような表情を浮かべてる。いつもとやり方が違うみたいだ。

「悪いだなんて、こっちは構いません。額のほうは――」

「絵が報酬だ」

「……はい?」

「エルステッドの絵を見つけたら、それがお前達の報酬になる」

 聞いてる二人と一緒に、あたしも首をかしげた。探してる絵が報酬って、どういうことだ?

「待ってください。グリオンさんはその絵が必要だから依頼に来たんですよね。それなのに報酬で俺達にくれるってどういうことなんです?」

「実はな、目的は絵ではないんだ。絵が戻り、用を済ませば、こちらとしては特に必要はなくなる」

「そう、なんですか。でもこれまで品物が報酬っていうのは――」

「言ったようにエルステッドの初期の作品は珍しくて貴重なものだ。他の作品より確実に値が上がるだろう。収集家でもいれば、さらに高く買ってくれるかもしれない」

 これを聞いて二人はお互いの顔を見合った。つまり、絵を売ったお金が報酬額ってことか。

「あの、私達、絵については詳しくなくて……一体どのくらいになるんですか?」

 グリオンさんは顎を撫でながら宙を見つめる。

「俺も詳しいわけではないが、エルステッドの一番有名な絵で、確か一千万リドはすると聞いたことがある」

 一千万……! 人生で初めて聞いたような額で、何だか現実味が全然感じられない……。

「そこまでの値になるかはわからないが、珍しい品だ。最低でも数百万にはなるだろう」

「数百万なら報酬としては十分すぎる額ですね」

 満足そうなリベカさんに対して、シモンさんは悩む顔を見せてる。

「それはそうだが、売れるのは絵が見つかって無事な場合だ。傷が付いてたり破れでもしてたら、売値は大幅に落ちる。タダ働き同然にもなりかねない」

 グリオンさんは静かに笑った。

「ふっ、お前は意外に心配性なんだな」

「こっちは生活懸かってますから」

「悪いふうに考えすぎよシモン。貴重な絵なら雑に扱ってなんかないって。それに久しぶりのグリオンさんの依頼なんだよ? 受けないなんて――」

「受けないとは言ってねえよ。ただ少し気になっただけだ」

「では、条件も含めて引き受けてくれるか?」

「はい。もちろんです。……シモンも、ほら」

 リベカさんはシモンさんの腕を突いた。

「……わかりましたよ。綺麗な状態で絵が見つかれば、こっちとしては願ってもないことですしね」

「交渉成立だ。期限は特に設けないが、時間が経てば経つほど困難になってくるだろう。探すなら早いほうがいいぞ」

「わかりました。何かあればすぐにご連絡します」

「ああ。よろしく頼む」

 帰るグリオンさんを玄関まで見送ると、二人はすぐに事務所へ戻って相談を始めた。

「物探しは地味な割に、結構大変なんだよな」

「その先に破格の報酬が待ってるかもしれないんだから、気合い入れてやってよ」

 リベカさんはグリオンさんが書いた紙を手元で広げた。

「絵がありそうな予測場所は、そんなに広範囲じゃなく、何箇所かで固まってる感じね」

「そうだな。聞き込みながら一気に行けそうだな」

「私はまだ報告書まとめないといけないから、シモン、今から行く?」

「おう。寝起きの運動ついでに、行って来るか」

 シモンさんが紙を受け取ったところで、あたしは声をかけた。

「あの、その依頼、あたしは手伝えませんか?」

 二人は同時にこっちを見た。

「そうね。探すだけなら危険はなさそうだけど……どう?」

「俺はどっちでも構わねえけど」

 リベカさんはあたしをじっと見つめてくる。

「たくさんの人に聞き込めば、早く情報も手に入ると思うんで……」

 ここの従業員にしてもらったんだから、出来ることはやらないと。

「……ずっと掃除させるのも可哀想よね。やる気もあるみたいだし、連れてってあげてシモン」

「あ、ありがとうございます!」

「付いて来るなら、しっかり仕事しろよ。危ない時は守ってやるから。じゃ行くぞ」

 決まるとシモンさんはすぐさま外へ向かった。……よし。必ず絵を見つけるぞ!

 いい天気が広がる午前。道を行く人影はまだそれほど多くない。そんな通りを進んで最初の目的地へ向かう途中で、あたしはシモンさんに聞いてみた。

「依頼者のグリオンさんとお二人は、昔からの知り合いなんですか?」

「知り合いっていうかお得意さんだな。四、五年前ぐらいから来てくれるようになった」

「あの人、裏社会じゃ偉い人なんですか?」

「何で?」

「だって、着てるものが高そうだったし、目付きがすごく強そうでした」

 これにシモンさんは軽く笑った。

「ミリアムはなかなか見る目があるな。その通りだ。グリオンさんはコーレノン商会ってところの幹部だ。裏社会じゃ結構有名人でな」

「すごい人なんですね」

「そうみたいだな。それに俺達便利屋風情にも、見下したりしないで礼儀を持って接してくれる。中にはいちゃもん付けてくるやつもいるからさ」

 へえ、裏社会でも、ちゃんと礼儀のある人がいるんだ。

「何か、リベカさんみたいですね」

 何気なく言った言葉に、シモンさんは不思議そうな目を向けてきた。

「リベカみたいって、どこが?」

「相手を見下さないで、ちゃんと接してくれるところです。あたしにしてくれたことは、まさにそれです」

 みすぼらしいだけのあたしだったのに、無視しないで助けてくれた上に、一度も馬鹿にしたりしないで従業員にまでしてくれた。何てことないように思えるけど、人間はやっぱり相手を見て態度を変えちゃう人が多い。でもそうせずに平等に出来る人って、案外少ないと思う。

「そりゃミリアムが相手だからだよ。俺なんか毎日怒鳴られてるようなもんだし。もしあいつが世界一の金持ちにでもなりゃ、さすがにリベカも思い上がったやつに豹変するさ。人間なんて環境次第でどうとでも変わっちまう」

「だとしたら、リベカさんの思い遣る心は変わらず今あって、それって、いい環境にいるってことですよね」

「う、まあ、そうなるか……」

「一緒にいるシモンさんが、いい影響なのかもしれませんね」

「俺が? んなわけあるかよ。俺がどんな影響与えてるってんだ?」

「それはわかりませんけど、シモンさんは口喧嘩しても折れるところがあるから、その優しさをリベカさんは――」

「やめろ! それ以上恥ずかしい解説はするな。お前は何を観察して学んでんだよ。そんな暇があるなら仕事だ仕事。無駄話は終わりだ。真面目に仕事するぞ!」

 歩みを速めたシモンさんはずんずん先へ行ってしまう――いつも男らしくはきはき話すシモンさんでも、恥ずかしいことはあるんだな。次は気を付けて話そう。

 最初の目的地は、死んだ内通者が隠れ家に使ってた家の隣の廃倉庫だ。屋根や壁は腐って穴が開いて、入り口の扉もぼろぼろで鍵はもうかからない状態だ。でも中にはいつ置かれたかわからないような木箱や麻袋が多く積まれてて、絵を隠せる場所はたくさんありそうだ。

「んじゃ、手分けして探すぞ。ミリアムはそっち頼む」

「はい」

 言われたほうへ移動して、あたしは手近な木箱から探し始めた。古い箱から新しそうな箱まで、状態は様々だけど、共通してるのは何かが腐ったような臭いが漂ってることだ。そこに埃やカビ臭さが混じって、思わず咳き込みたくなるような表現しにくい悪臭に増してる。もともとは食べ物でも入れられてた箱なんだろうか。蓋を開けて一つ一つ調べてくけど、どれも空っぽで埃が積もってたり虫の死骸が転がってるだけだ。積み上げられた木箱をどかして重なったものも見てくけど、最近動かされた形跡がないのに、ここに入ってるわけもない。こっちの木箱にある可能性は低そうだ。でも万が一ってこともある。隅々まで探してみるか……。

 木箱の中はもちろん、その陰や床まで注意深く探してると、あたしの脳裏には小さい頃にやったかくれんぼの光景がよみがえってきた。ノアとアロンと、場所はよく思い出せないけど、確かここみたいに物が散乱してて、二階部分があった。その時はあたしが鬼で、幼いアロンはすぐに見つけられた。でもノアはなかなか見つけられなくて、あたしは降参した。彼がどこにいたかっていうと、二階の足場からぶら下がってた。ちょうど柱に隠れる形で、あたしの頭上にいた。でもノアは顔を赤くして助けを求めて来た。ぶら下がったはいいけど、這い上がることが出来ず、かと言って降りるには結構な高さがあって、怖くて出来ないと言った。困り果てるノアを初めて見たあたしは、心配よりもその滑稽さに笑ってしまった。運動が得意なノアも、こんな失敗するんだと思いながら、その下に持って来た藁を敷いて安全に降りられるようにしようとした。でもノアはすでに限界だったらしくて、敷いてる最中にあたしの上に降ってきた。あたしは背中を、ノアは腕と足を強く打って悶えた。アロンに心配されながら、それでもお互い打ち身程度で済んだとわかって一安心だった。でも実はそこでノアは傷を負ってた。翌日会うと、袖の下に包帯が巻かれてて、あたしは驚いた。どうやって傷が出来たのか、その状態はどうなのか、ノアは最後まで教えてくれなかった。あんなところにぶら下がった自分が悪いと苦笑するだけだった。藁が十分に敷かれなかったせいで、硬い床にぶつかって傷を負ったのかもしれない。笑ってないですぐに助けてあげれば、包帯を巻かずに済んだかもしれない――そう責任を感じてたあたしに、ノアはやっぱり優しかった。ミリアムがいなきゃ、俺は足を骨折して歩けなかったよと、そう感謝の言葉を言ってくれたっけ。

「どうだミリアム、ありそうか?」

 一時間ほど探し続けて、シモンさんがこっちの様子を見に来た。

「何もありません」

「俺のほうもねえな。袋の中はごみばっかだ。……お前、何笑ってんだ?」

 シモンさんの怪訝な目に見られて、あたしは自分が無意識に微笑んでたことに気付いた。

「あっ、いえ、ちょっと昔のこと思い出してて……さぼってはないですよ」

「昔?」

「こんな場所で小さい頃、弟とノアと一緒にかくれんぼしたなって」

 これにシモンさんは、ふっと笑う。

「お前は本当に、ノアってやつに会いたいんだな」

「いい思い出には、必ずノアがいるってだけです」

 そう言って、ふと聞いてみようかと思ったけど、仕事中に聞くべきじゃないかと、あたしは口を閉じた。

「……何だ? 何か言いかけただろ」

「何でもありません。気にしないでください」

 そんなあたしをじっと見てたシモンさんは、口角をにっと上げると言った。

「そう心配すんな。友達のことはしっかり捜してるよ。手こずってはいるけどな。まあ気長に待っとけ。じゃあ、もう少しごみ袋をあさってみるかな」

 腕を回しながらシモンさんは絵を探しに戻って行った――あたしが聞きたかったことはお見通しだったらしい。でも二人は忘れずにノアを捜してくれてるんだ。言われたように気長に、急がず待ってよう。

 それから数時間かけて倉庫内をくまなく探したけど、絵が隠された痕跡は見つからなかった。翌日は紙に書かれた別の場所を、その翌日も別の場所をと、連日探し続けたものの、手掛かりはまったく見つからなかった。調べ方が不十分なのかと、シモンさんは一人で改めて探しに行ったみたいだけど、結果は変わらなかった。聞き込みのほうも、内通者と接触があった人を中心にやったけど、絵に関する話は何も出てこず、進展する気配を何も感じられない状況が続いた。そんなだから事務所内での二人の雰囲気も、どこか暗いというか悩んでるというか、思い詰めた感じの表情を見せることが多くなった。絵が見つからなきゃ、これまでの苦労が水の泡のタダ働きになっちゃう。どうにか活路を見つけないといけない。

 力になりたいと、あたしも従業員として何が出来るか考えながら、この日も手掛かりを求めてシモンさんと聞き込みに行く道中のことだった。

「……あ、ここ……」

 通り過ぎようとした一軒の店に、あたしは目を留めた。

「あん? どうした」

「ここ、昔働いてた店なんです。たくさん絵を売ってて――」

 その時、ふっと閃いた。

「シモンさん、探してる絵って、売られたりしてませんか?」

 これにシモンさんは呆れた顔を見せた。

「そんなわけねえだろ。すでに売られてんなら、コーレノン商会の網にとっくに引っ掛かってばれてるはずだ」

「でも、ここは絵が集まる場所だし、隠すにはすごく都合がよくないですか?」

「売らずに隠したかもってことか? まあ、行き詰まってるしな……店員に聞くだけ聞いてみてもいいか」

 駄目でもともと、あたし達は店に入った。

「いらっしゃいませ」

 中は働いてた当時とあんまり変わってない。広い店内には大小の様々な絵が置かれてて、壁には壁が見えないほどぎっしり絵がかけられてる。この絵具の匂い、ちょっと懐かしいな。

「聞きたいことがあるんだが」

 シモンさんはカウンターの奥に立つ中年の店員に声をかけた。あたしは見たことない人だ。当時はいなかった人かな。

「何でしょうか?」

「何週間か前、ここに絵を持って来たやつはいないか」

「ここは一応画廊ですから。そりゃいますよ。何人もね」

「あー、そうか……それじゃ、エルステッドの絵を持って来たやつは?」

「エルステッドですか。それなら二人ぐらいは――」

「いるのか!」

「ええ、いましたよ。エルステッドをお探しですか?」

「ああ、そうだ。風景画で、夕日が描かれた絵だ。あるか?」

 そう聞いた途端、店員の顔は明らかに困惑を見せた。

「……あるんだな」

「あるにはありますが、これは、売り物ではなくて、お預かりしたもので……」

「誰にだ」

「見知らぬ男性です。一ヶ月ほど前、突然店に飛び込んできたと思うと、持っていた絵を預かってほしいと強引に渡されまして」

「その時、何か言ってたか?」

「明日引き取りに来るとだけ……ですが、現在も取りには来ていません。一体いつになったら来てくれるのか、私も困っているんですよ」

 シモンさんはあたしに振り返ると、にやりと笑った。でかしたとでも言ってくれてるみたいだ。よかった。自分から提案してみて。

「その男、俺の知り合いなんだけどな、実はもうこの世にいねえんだよ。だから引き取りに来ることも出来なくてさ」

 店員は瞠目して驚いてる。

「亡くなったんですか? どうりで現れないわけですね……」

「つーことで、代わりに俺が引き取りに来たんだよ。だから絵、渡してくれるか?」

 知り合いって装えば、怪しまれずに受け取れる……さすがシモンさんだ。機転がきくな。

「では、何か知り合いだという証明はありますか?」

「は? 証明?」

「はい。エルステッドの作品はどれも高額で取引されていますから、男性の行動を知って知り合いと偽っている可能性も考えられますんで、そうではないという証明を――」

「てめえ! 知り合いのために動いてる俺を疑うってのか! ええ?」

 大声を上げたシモンさんは店員の胸ぐらにつかみかかった――だ、駄目だ! 止めなきゃ!

「落ち着いてください! シモンさん!」

 あたしは服を引っ張って店員からどうにか引き離した。……はあ、怖かった。

「こ、これ以上何かするなら、け、警察呼びますよ!」

 店員もシモンさんの迫力にかなり怯えてしまってる。印象が悪くなっちゃったな……。

「てめえが疑うからだろうが! 俺は絵を引き取らなきゃならねえんだよ! さっさとよこせ!」

 これまでの苦労もあってか、シモンさんは完全に苛立ってる。冷静に説得してほしいところだけど、無理っぽいな。ここはあたしが――

「し、失礼しました。あの、知り合いは最近知り合った知り合いで、証明するのは難しいんですけど、でも、知り合いのために絵は引き取ってあげたいんです。どうにかなりませんか……?」

「どうにかと言われましてもね……」

「大事な絵なんです。お願いします!」

 あたしは懇願した。もうすぐそこに高額報酬が待ってるんだ……!

「……しょうがないですね」

「え、じゃあ絵を――」

「お売りする形ならいいでしょう」

 ……普通にくれないの?

「売るだあ? 他人の物、勝手に売って商売する気かてめえ!」

「そ、そう言うなら、男性との関係を証明してください。もしくは親族の方を連れて来るとか」

「う、ぐぬう……」

 証明は出来ない。親族を連れて来るなんてもっと無理だ。お金で解決するしか……。

「ちなみに、おいくらで売ってくれるんですか?」

「エルステッドの珍しい風景画ですからね……四百万はいただきたいところです」

 思わずくらりとした。高い。

「タダで手に入れといて、四百万もぼったくる気か!」

「これでもお安くしたほうですよ。エルステッドの作品がこの額で買えるなんて、まずあり得ないことです。そこはご理解いただきたい。……さあ、どうなさいますか?」

 シモンさんは怖い顔で考え込んでる。あたしはそんなシモンさんに小声で言った。

「高すぎますよ。一度グリオンさんに相談したほうが――」

「出来ねえよ。依頼受けといて、金がねえから払ってくれだなんて、そんな情けない真似はしたくねえ」

「でも、払わないと絵はいつまでも手に入りません。どうするんですか?」

「……払うしかねえんなら、払ってもらうだけだ」

 するとシモンさんは店員に向き直った。

「金を用意してくる。待ってろ」

「そうですか。ではお待ちしています」

 用意って、一体どうやって――

「ミリアム、お前はここにいろ」

「どこへ行くんですか?」

「リベカんところに決まってんだろ。金にしっかりしてるあいつなら、四百万ぐらい溜め込んでるはずだ。それを貰って来る」

 そう言ってシモンさんは走って店を出て行った。便利屋に、本当に四百万もの大金があるのかな。正直不安が拭えないけど……。

 シモンさんが戻って来たのは、それから一時間後のことだった。あたしが店員と雑談して時間を潰してると、息を弾ませたシモンさんが突風のように店に入って来た。

「ほら、お望みの金だ」

 手に持ってた布袋をカウンターに置くと、その口を広げた。見ると中にはいくつもの札束が無造作に入ってた。すごい大金……リベカさん、本当に持ってたんだ。

「確かめさせてもらいます」

 店員は札束を取り出すと、その金額を静かに数え始める。

「……四百万リド、確かにありますね」

「当たり前だ。わかったらさっさと絵をよこせ」

「持って来るので、少々お待ちください」

 店員は店の奥へ引っ込むと、二、三分ほどで戻って来た。

「では、どうぞ」

 差し出された絵を見る。正方形の額に、緑の丘と青い海、そこに夕日の光が美しい色合いで描かれてる。間違いない。グリオンさんが言ってた通りの絵だ。見た感じ傷なんかも見当たらないし、いい状態のままだ。

「やっとですね」

 これで依頼達成だ。長かったな……。

「よし、さっさと帰ってグリオンさんに報告するぞ」

「ありがとうございました。また何かご用があれば、お待ちしています」

 店員が笑顔で言ったのをシモンさんは一睨みすると、足早に店を出た。もうここには二度と来る気はなさそうだ。働いてた身では、別に悪い店じゃなかったんだけどな。今回は用件が悪すぎた。

 事務所に戻ると、絵を見たリベカさんも胸を撫で下ろした。四百万もの大金を出したのは仕事をきっちり果たすためで、特に迷いはなかったという。リベカさんもシモンさんも、依頼者には真摯に向き合って一切妥協や甘えを見せたくないんだろう。あたしもそういうところは見習っていかないといけないな。

 その翌日、連絡したグリオンさんは事務所に来ると、二人から話を聞いて、ようやく見つけた絵を手に取って確かめた。

「……かなり苦労したようだな」

「それなりに。でもまあ、絵が無事だったのはこっちとしても幸いでした」

 まったくそうだ。四百万リドで買ったんだから、この絵はそれ以上で売れてもらわないと。

「画廊に売らず、ただ預けていたとはな……感謝する。では報酬を渡さなければな」

 そのまま絵を渡してくれるのかと思ったら、グリオンさんは絵をひっくり返すと、おもむろに額縁から絵を外し始めた。……何してるんだろう。

「むう、硬いな……接着剤で貼り合わせてあるのか?」

 確かに額縁と絵はくっ付いてる。普通はこんなことないはずだけど。

「手伝いましょうか?」

「大丈夫だ。……仕方がないな」

 リベカさんの申し出を断ると、グリオンさんは事務所の机に絵を置いて、その額縁を力尽くで引っ張り始めた。ギシギシと木製の額がきしむ音がする。そんな雑に扱って、絵に影響ないのかな……。

 バキッと大きな音を上げて、額縁の一部は剥がれて折れた。次にグリオンさんは剥がれた部分を下にして絵を軽く振る。すると、絵と背面の板との間から白い封筒がするりと滑り落ちて来た。

「……何です? それ」

 不思議そうにシモンさんが聞く。

「商会にとって大事な手紙だ。内容は言えないがね」

 グリオンさんが欲しかったのは、この隠された手紙だったんだ。だから絵をあたし達にくれるってわけなのか。それってつまり、絵より手紙のほうが何倍も価値があるってこと? 一体何が書かれてるんだろう。気になるけど、知ったら危険に巻き込まれそうな予感もする……。

「報酬だ。すぐに売るもよし、さらに値が上がるのを待つもよし、金額はお前達次第だ」

 額縁が壊れた絵をリベカさんに渡し、グリオンさんは満足そうに帰って行った。

「その絵、どうするんですか?」

 聞いてみると、リベカさんは力のこもった笑みを浮かべて言った。

「もちろん、すぐに売り払うわ」

 依頼者のためとはいえ、やっぱり四百万の自腹は相当痛かったようだ。それを取り返すためにも、すぐに売るのが二人の意思だった。値上がりよりも、直近の生活費ってことかな。

 向かったのはあの画廊じゃなくて、また別の画商の店だった。鑑定してもらい、どのぐらいの大金になるのか、あたし達はどきどきしながら待った。そして結果は――

「たった四百五十万リドって……何かの間違いでしょ?」

 大金には違いないかもしれないけど、すでに四百万失ってるこっちとしては、その差はたった五十万リドだけだった。お金に縁のないあたしならそれでもいいと思える。だけど二人はもっと大きな期待をしてただけに、失望は大きそうだった。

 貴重な絵のはずなのに、どうして思ったほど高くならなかったのか。それは額縁だ。あの絵は額縁込みの作品らしく、それが壊されてたことが値を下げてしまった。あともう一つは接着剤だ。あれは多分、手紙を隠した人が付けたんだろうけど、額縁が剥がれたおかげで接着剤の存在がわかるようになってさらに値を下げた。それでも四百五十万もするんだから、それらがなければ一体どんな金額になってたのか……想像するだけむなしいけど。

「でも、赤字にならなくてよかったですね」

 溜息ばかりのリベカさんに、気休めとわかりつつも言ってみた。

「五十万なんて、いつもの依頼に毛が生えた程度の額よ。はあ……一ヶ月近く時間使ったっていうのに……」

「条件呑んだのは俺達なんだし、相手はお得意さんなんだ。文句は言えねえよ。落ち込む暇があるなら、きりきり働け。時は金なりだ」

「……そうね。下向いてても仕方ない。シモンには馬車馬みたいに働いてもらって、入るはずだった報酬分、稼いでもらわないとね」

「馬車馬は勘弁してくれよ。俺だって今回のことで歩き回って疲れてんだ。少し休みを――」

「きりきり働けって言ったのはシモンじゃない。昨日来た依頼まだ始めてないから、ほら、早くやってきて」

「ったく、俺には休みも与えないつもりか……」

 愚痴を言いながらもシモンさんは仕事へ向かった。がっかりはしたけど、結局いつも通りだったってことみたいだ。あたしもきりきり働いて、二人の稼ぎに貢献しよう。出来れば適度に休みを貰いながら。

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