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ノア  作者: 柏木椎菜
2/16

二話

「はああ、疲れたあ。徹夜仕事はやっぱこたえる――」

「お帰りなさい」

 あたしはだるそうに入って来た男性に声をかけた。そんなあたしを見てその動きが止まる。

「何で、お嬢ちゃんがいるんだよ。ここは俺の事務所だよな……?」

 男性は自分を疑うように部屋の中をきょろきょろと見回し始める。昨晩、あたしがここに来た時、この人は仕事に出てて事情を何も知らない。だからあたしとまた会って驚くのも無理はない。

「実は昨日、帰った後、リベカさんと偶然会って、あたしが野宿してるって知ったら、ここに泊まらせてくれたんです」

「一晩泊まってたのか?」

「はい。あ、でもこの掃除を終えたら、すぐに出ますから」

 あたしは床に集めたごみを塵取りで急いで取った。

「リベカに掃除しとけって言われたのか」

「いえ、これは泊まらせてくれたお返しです。あたし、何もあげるものがないんで、せめてこのくらいはと思って……」

 取ったごみをごみ箱に入れ、ほうきと塵取りは元の道具棚に戻す。

「ふうん、なかなか気が利くじゃねえか」

「それじゃ、リベカさんにありがとうございましたって伝えておいてください」

「おい、待て」

 玄関へ行こうとすると男性に止められた。

「……何ですか?」

「リベカはいないのか?」

「リベカさんは二階でまだ寝てますけど」

「いるのかよ。じゃあ礼なら自分で伝えろ」

「そうしたいんですけど、のぞいたらぐっすり寝てるみたいだったんで、起こすのは悪いかなって思って……」

「あー、そうだな。無理に起こすとあいつ、機嫌悪くなるからな」

「そういうことなんで、お願いします」

「おい、まだ行くな」

 男性は再び止めてくる。

「……はい?」

「こんな時間からどこ行くんだよ。まだ夜が明けたばっかだぞ」

「早い時間から仕事があるんです。距離も考えて、もう行かないといけないんで」

「仕事か。それじゃ仕方ねえな。じゃあ、それ終わったらまたここに戻って来い」

「何でですか?」

「俺が勝手に帰したと思われたら、リベカに後でどやされるのが目に見えるんだよ。その誤解を生じさせないためだ。いいか、必ず戻って来いよ」

「わ、わかりました……」

 戻る約束をして、あたしは便利屋セビンケルを出た。

 薄暗い早朝の街中を歩いて、通い慣れた仕事場の倉庫へと到着する。名前も知らない同僚達と共に、今日は木製の小物入れの検品と梱包作業をこなす。昼休憩を挟んで、午後も同じ作業に追われる。仕事が終わったのは五時過ぎ。太陽が遠くの山に半分隠れた夕暮れ時――

「あ、戻らないといけないんだった」

 仕事場を出て歩き始めたところであたしは思い出した。作業の疲れで忘れかけてた。ちゃんとリベカさんにお礼を言わないと。

 夕暮れの人通りを抜けて、昨日通った道をたどっていけば、目的の看板と建物が見えた。あたしは扉を叩いてから、そっと取っ手を回して押し開く。

「あの、こんにちは。誰か――」

「ミリアム! お帰り」

 事務所の奥から顔を出したリベカさんは、あたしを見るとすぐさまやって来た。

「今朝はありがとね。掃除してくれたんだって?」

「何もお返しするものがなかったから……」

「そんなのいいのに。でもおかげで床が綺麗になったわ。私達、掃除って苦手だからさ、こういうの助かるのよね」

「役に立てたんなら、よかったです。あの、あたしも、ちゃんとお礼を言わせてください。何年かぶりにあったかいベッドで寝られて、いつもよりたくさん眠ることが出来ました。見ず知らずのあたしなんかに親切にしてくれて、本当にありがとうございます」

「あなたは安眠できる場所を得て、私は綺麗に掃除された事務所を得た……これってなかなかいいやり取りよね」

「?」

 意味ありげな言い方に首をかしげると、リベカさんはにこりと笑った。

「ここを出たら、今日も野宿なんでしょ?」

「はい」

「そこで考えたんだけど、今日もここに泊まって行きなさい。っていうか、しばらくいてくれていいわ」

「え? そ、そんな、何日も泊まるなんて迷惑なことは……」

「こっちは何も迷惑じゃないわ。それともミリアムのほうが迷惑だったりする?」

 あたしはぶんぶんと首を横に振る。

「まさか。すごくありがたいことですけど……」

「ならいいでしょ? 野宿から解放されるまでここにいなさい」

 リベカさんのあたしを思い遣っての提案に信じられないような嬉しさを感じつつ、まだ残る不安な気持ちで聞いた。

「今のあたしじゃ、そう簡単に住む家なんか見つかりません。泊まるにしても長い時間かかっちゃうと思うし……それでも、いいんですか?」

「何日いようと全然構わないわ。ただし――」

 リベカさんは人差し指を立ててあたしを見た。

「条件を付けさせてもらうわ。ミリアムはこの事務所内と二階の掃除をするの。言わば住み込みの掃除婦さんみたいなものね。給料はないけど、食事、風呂、トイレはあるから。こんなんでどう?」

 どうも何も、あたしには好条件すぎて、逆に唖然としてしまう。

「泊まらせてもらえるだけじゃなくて、食事やお風呂まで付けてくれるんですか?」

「どうせ満足に食べてないんでしょ?」

「でも、お金が……」

「一人分の食費ぐらいどうってことないわ。あなたが心配することじゃないし。うちは依頼数は少なめだけど、質を売り物にしてる分、稼ぎはそれなりにあるの。……じゃ、改めて、この条件でここにいる?」

 毎日掃除をするだけで、食事にも風呂にも困らないなんて、あたしの中には断る要素はわずかもない。

「……本当に、迷惑じゃないなら、ぜひ」

「よし、決まりね。お互い、これからもよろしく。そうと決まれば、ミリアムの部屋を用意しないとね……」

 その時、玄関の扉がガチャッと開いた。

「戻ったぞ……って、お嬢ちゃん、きっちり礼を言いに来たか」

 外から帰って来た男性があたしを見て言った。

「お帰り。仕事って昨日終わったんじゃなかったの? 今日は報告書を書くって――」

「い、いや、手抜かりがないか念のため確認しにな。ほら、あの依頼者、細かいところがあるからよ」

「ふうん、まあいいわ。それより、今日からミリアムが一緒に住むことになったから」

「は? ミリアムって誰だよ」

「この娘に決まってるでしょ」

 リベカさんが向けた視線を追うように、男性の視線があたしに向く。一応、挨拶はしておいたほうがいいか。

「……よろしくお願いします」

 会釈をして男性を見ると、その顔には一面呆れた色が浮かんでた。

「おいおい、どんだけこのお嬢ちゃん気に入ったんだ?」

「お嬢ちゃんじゃなくて、ミリアムって呼んであげてよ。別に気に入ったとかじゃなくて、こんな娘が野宿なんて危ないでしょ?」

「それはわかるけどよ、だからってタダで住まわせるってのは――」

「タダじゃないから。ここの掃除をしてもらう代わりに住んでもらうの。何度言っても掃除しない人がいるからね」

 リベカさんは横目で男性を見やった。

「何だよ。掃除しねえのは俺だけじゃねえだろ。リベカだって書き間違えた紙丸めて投げ捨てて、そのままにしてんだろ」

「私はその後、ちゃんとごみ箱に捨ててるから。あんたみたいにほったらかしにはしてないし」

「嘘つけ! 疲れたとか言って、捨てた紙蹴飛ばして二階に行くの、俺は何度も見てるぞ」

「捨ててるのに蹴飛ばせるはずないでしょ! そっちこそ嘘言わないでよ」

 二人はあたしを無視してごみを捨てた捨てないの言い合いを始めた。どっちが本当のことを言ってるかはわかんないけど、二人とも掃除が好きじゃなさそうなのは何となく伝わってくる。こんな言い合いが起こらないように、これからはあたしの手でここを綺麗にしておかないと。でもまずは目の前の二人を止めるべきか……。

「あの、ごみの話はその辺でそろそろ――」

「あん?」

 男性の鋭い目に睨まれて、あたしは思わずヒッと小さな声を漏らしてしまった。

「……そうだ。あんたとごみについて話してる場合じゃなかったんだ。ミリアムの部屋のことなんだけど、二階のあんたの部屋、使ってもうらうから」

「なっ……俺を追い出すのかよ」

「追い出すってほどあの部屋使ってないじゃない。寝る時は大体奥の応接室のソファーだし」

「それは、そうだけどよ……」

「荷物も服ぐらいしかないでしょ? それとも何? 事務所から丸見えの応接室で、うら若き女性に着替えろっていうの?」

 リベカさんは男性に有無を言わせず詰め寄る。この人はこうと決めたことは絶対に変えない性格なんだろう。さっきみたいに言い合いも起こるはずだ。あたしなんかのために喧嘩はしてほしくない……。

「あたしは、応接室でも事務所の隅でも、どこでもいいですから。困るならそのまま――」

「気なんか遣わなくっていい。リベカの言う通り、俺はあんまあの部屋使ってねえんだ。仕方ねえ……後で荷物出しとくから、お嬢ちゃんが使いな」

「お嬢ちゃんじゃなくて、ミリアムって言ったでしょ」

 注意されて男性はわかったと手を振る。

「ありがとうございます。えっと……」

 そういえばこの人のこと、何て呼べばいいんだろう。

「俺の名前まだ言ってなかったな……シモン・オーマンだ。シモン様でもオーマン様でも好きに呼べ」

「つまんない冗談ね。……ミリアム、こいつのことはシモンでいいからね」

「はい。ありがとうございます。シモンさん」

 けっと笑うと、シモンさんは奥の階段のほうへ消えて行った。強面で言葉遣いは荒いけど、リベカさんと同じぐらい優しい人なのかもしれない。

「部屋のほうはあいつが荷物出した後にして、こっちは夕食の用意でもしますか」

「それなら手伝いを――」

「それは必要ない。料理はしないから」

「もう作ってあるんですか?」

 聞くとリベカさんは苦笑いを見せた。

「私、器用さが必要なことが苦手なの。だから料理は専門の人に頼むことにしてるのよ」

「専門?」

「そう。つまり、外の店で食べたり、買って来たり。今日はミリアムの話を聞きたいから、何か買って来て、ここでゆっくり食べよう。ちょっと行って来るから、待ってて」

 そう言うとリベカさんは暗くなった外へと駆け出して行った。あたしも料理は得意じゃないから、二人に作ってあげるのは難しい。変な物を作ってお腹でも壊したら、ここにはいられなくなっちゃう。

「……ん? リベカは?」

 二階から下りてきたシモンさんが聞いてきた。その肩には数枚の服を担いでる。

「食べ物を買いに行きました」

「ふうん……上の部屋、空いたから使っていいぞ」

「荷物、それだけなんですか?」

「まあな。あんま買い物しねえから」

 あたしの前を通って、シモンさんは奥の応接室へ入ると、壁際の棚に担いでた服を雑に放った。

「風通しのいい部屋だ。わかんねえことがあったら何でも聞けよ。これからしばらくは同居人なんだからな」

「はい。そうさせてもらいます」

 同居人――一昨日までは空き地で野宿するのが当たり前だったのに、昨日リベカさんと出会って、そして今日からここに住まわせてもらうことになるなんて、想像すらしてなかった。倉庫で働いて、寝る場所を探して、また倉庫で働く……それがずっと続くもんだと思ってたのに。同じような毎日でも、やっぱり少しずつ違って、変わっていくもんなんだな。ノアのことも、今は全然見つけられないけど、それもいつかは……。

 しばらくして帰って来たリベカさんは、買って来た食べ物やお酒を事務所の机に並べて、三人での夕食を始めた。パンに、塩気の効いた野菜サラダ、厚切りソーセージの盛り合わせ……並んだ物は三分の二がお酒のおつまみみたいだけど、普段あたしが食べてる物よりは断然いい物で美味しそうだ。

「ささやかだけど、新しい友達に乾杯でもしますか」

 リベカさんは三つのコップにお酒を注ぎ、その一つをあたしにくれる。

「そういや、おじょ……ミリアムは酒、飲めんのか?」

「はい。飲んだことは少ないですけど」

「歳はいくつ? もう大人なんだよね?」

「二十歳です」

 そう言うと二人は目を丸くした。

「十代じゃなかったのかよ……全然お嬢ちゃんじゃなかったな」

「私も二十歳とは思わなかった。童顔なのね」

「お二人は歳、いくつなんですか?」

「ふふ、私いくつに見え――」

「面倒くせえな。二十九って教えろよ」

 リベカさんの目が素早くシモンさんをねめつけた。

「ちょっと! 邪魔しないでよ、三十三のがさつ男が!」

「ああ悪かったな。んなことより、さっさと乾杯しようぜ。なあ?」

 シモンさんに振られて、あたしは返す言葉がわからず、とりあえずコップを握った。……二人の年齢は想像の範囲内だったな。

「まあ、そうね。それじゃ……ミリアムとの出会いに、乾杯!」

 三つのコップが掲げられて、三人同時にお酒を飲む。琥珀色のお酒……麦酒ってやつかな。ごくりと一口飲むと、口に苦味が広がって、喉の奥が少し熱くなった。お酒に慣れてないせいか、これが美味しいのかどうか正直わかんない。でもあたしにとっては贅沢な物なのは間違いないだろう。美味しさはわかんなくても、ありがたく飲ませてもらおう。

「ミリアム、遠慮せず食べるのよ? そんな細すぎる体じゃ動きたい時に動けなくなるわよ」

「はあ、そうですね」

 勧められて、あたしはパンを手に取る。

「ミリアムはこの街の出だろ? どこに住んでたんだ」

 シモンさんがソーセージをつまみながら聞いてきた。

「親と住んでた時は、南地区にいました」

「へえ、南か。あっちは海が近いから、漁業が盛んなんだろ?」

「はい。でもあたしが住んでたところからは海なんて見えないし、その恩恵もなかったですけど」

「親御さんはどんな仕事をしてたの?」

「父は日雇いの仕事をしてて、母は家に……」

「実家へは帰ってるのか? それとも、野宿してたぐらいだから、帰れない理由でもあるのか?」

「それは……」

 あそこにはいい思い出も悪い思い出もある。だけどもう帰れないし、帰っても何もない。あたしとは無関係の場所になってしまった。

「ミリアムにだって複雑な事情ってもんがあるのよ。言いたくなければ言わなくていいから」

 笑顔で言ってくれたリベカさんに、あたしは頷きを返した。

「家族は親だけか? 兄弟とかいねえのか」

「弟が一人います。アロンっていう弟が」

「へえ。歳は」

「十三歳です」

「ってことは、七つ下か」

「今、弟君はどこにいるの?」

「この西地区の養護院にいます」

 リベカさんは怪訝な表情を浮かべた。

「養護院? もしかしてミューベン養護院のこと?」

「はい」

「あそこって、大きな怪我とか病気で生活出来ない人が入る施設よね。弟君はどっか悪いの?」

「はい。ちょっと……」

 二人はこの先の言葉を待ってたけど、あたしが言えるのはここまでだ。そのせいで事務所内は静まり返ってしまった。何だか気まずい……。

 するとシモンさんがお酒を仰いで言った。

「お前の話は何でこうも暗くなるんだ? もっと笑える話はねえのかよ」

「すみません……」

 自分でも本当にそう思う。あたしの周りは暗い出来事ばっかりだ。

「何謝らせてんのよ。ミリアムは何も悪くないでしょ。笑える話がしたいなら、あんたがすればいいじゃない。……ごめんね。相手の気持ちがまったくわからないやつで」

「せっかく三人で楽しく食事しようってんだ。暗い話より笑える話のが聞きてえだろ」

「だから、あんたがすればって言ってんの。ほら、私とミリアムを笑わせてみなさいよ」

「ふん、いいだろ。じゃあとっておきの話、してやるよ。俺がまだガキだった頃の話だ――」

 シモンさんが話し始めた時、リベカさんはあたしに顔を近付けると言った。

「弟君、機会があったらここに連れて来てよ。あなたに似て可愛いのか見てみたいし」

 あたしが見ると、リベカさんは微笑みを返してくれた。この人はどこまでも気遣ってくれる優しい人なんだ。

「――っておい、俺の話聞いてんのか?」

「聞いてるってば。続けて続けて」

 シモンさんを促すと、リベカさんはまたあたしに顔を寄せて、今度は小声で言った。

「この話、前に聞いたことあるんだけど、あんまり期待しないでね」

 その言葉通り、シモンさんの話はあたし達を笑わせることなく終わった。それよりも、何で笑わないと怒るシモンさんと、話術が稚拙だと分析するリベカさんとのやり取りのほうが、あたしには楽しくて、そんなおしゃべりを聞きながらの夕食は夜遅くまで長引いた。

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