2.赤井と家族
「もう一度三人で、か」
逢坂さんに提案されたその後。
帰路についた俺が自室のあるマンションにたどり着いたのは、夜も完全に更け切った頃合いだった。
503号室のドアに差し掛かったところでふわりと香辛料の香りが鼻を掠める。
晩ご飯はカレーらしい。
いつもは心が浮き足立つ匂いも、今日は少し鼻についた。
鍵のかかっていないドアノブをひねってダイニングに向かう。
「……ただいま」
「おう、海斗おかえり! 今日は遅かったな」
俺の声に反応して、父さん──赤井陸がくるりと振り返った。
大柄な身体に似合わない黄色いヒヨコのエプロンをつけ、にっかりと笑っている。
俺とは対極にいるような明るい性格だ。
時々鬱陶しく思うことはあるけれど、母さんが死んでから男手一つで育ててくれた人でもある。
最近会社の方で昇進して忙しいらしい。
なのに晩ご飯当番の日はこうやって料理を作って待ってくれるので、本当に頭が上がらない。
「今日はカレーだからな」
「匂いで分かるって」
「そうかそうか。もうすぐできるから荷物部屋に置いて着替えてくるといい」
父さんに言われるがままに、俺は自分の部屋に引っこんでいく。
リュックサックを勉強机の上に放り投げ、電気も点けずベッドに倒れこんだ。
真っ暗な天井へ向けてぽつりと呟く。
「何であんな安請け合いしたんだ、俺」
頭を巡るのは夕暮れの図書室での一幕。
あの時の俺は雰囲気に流されてどうかしていた。
いっそのこと今から断ってしまおうか。
ポケットからスマホを取り出してNINEのアプリを開く。
『赤井陸』という父さんの名前の上に、新しく『逢坂なのか』の名前があった。
学校を出る前、必要だからと半ば強引に交換されたNINEアカウントだ。
……いや、送るにしても何て送るんだ?
メッセージを打とうとしていた手が止まる。
行きたくない、面倒くさいという想いは変わらない。
斎藤はクラスどころか学校の中でもカースト上位に位置する陽キャだ。
俺が話しかけただけで嫉妬の視線を向けられるのに、遊びに行くなんてことになったらもっと厄介なことになるだろう。
ただでさえ目立たずに、誰にも付き合わずに生きていこうと思っているのに。
『また三人で一緒に遊びに行けたらとっても嬉しいなって──』
逢坂さんの言葉が記憶の片隅から流れこんでくる。
その言葉に過去の行いを償いたいと思った俺がいるのもまた強い事実で……。
あぁ、くそ。考えがまとまらない。
「海斗、ご飯できたぞー」
「……着替えたらすぐ行くから!」
父さんの声に、ぐるぐると回る思考を中断する。
俺は寝転がったままブレザーのボタンに手をかけた。
◆
着替えてダイニングに戻ってくると、三つの深底皿がテーブルの上に乗っていた。
白いご飯と大粒のじゃがいも、にんじんがホクホクと湯気を立てている。
漂ってくる匂いに思わず腹を抑える。
先ほどは気づかなかったが、いつもよりどこか甘みが強い気がする。
ルーでも変えたのだろうか。
エプロンを椅子にかけていた父さんは俺に気付くと、一際小さな器を指した。
「海斗、これ母さんのところに持っていってくれ」
「分かった」
向かったのは部屋の隅にある小さな仏壇。
燃え尽きた線香の匂いが漂う奥では、笑みを浮かべた母さんの写真が置かれていた。
写真の中には周囲を囲むように赤い糸が浮かんでいる。
母さんが死んだのは五歳の頃。
まだ俺が死というものをはっきり理解していなかった時だ。
あまりはっきりとした記憶はもうないけれど、その日から父さんの赤い糸が見えなくなったことは覚えている。
「ただいま、母さん」
器を置いて、手を合わせる。
この<運命視>は母さんから受け継いだものだ。
何もないところに視線を泳がせている俺を見て、母さんはすぐに能力が遺伝していると気がついたらしい。
自分が長く生きられないと悟っいた母さんは能力についてまとめた一冊のノートを残してくれた。
そこに書かれていたのは大きく分けて三つだ。
一つ、この目が自分や他人の運命を見る力であるということ。
二つ、超能力を持つ俺が気をつけないといけないこと。
そして最後に、母さんからの愛の言葉。
「……」
幼い俺がその全て理解できていれば、赤い糸を切るなんてことはしなかったのかもしれない。
たらればは幾ら考えても尽きない。
こんなことじゃダメだと分かってるんだけど……。
「カレーが冷えるぞ、海斗」
父さんの声にハッとする。
テーブルに戻って対面に座り、二人でいただきますと手を合わせた。
カレーを一口食べてみると、やはり普段よりどこか甘い。
フルーツのような甘さだ。
嫌いな味ではないし、むしろ甘い方が好きなのだが、いきなり味が変わると少し戸惑うというか。
スプーンを動かす手が止まっていると、父さんが声を投げかけてきた。
「学校で嫌なことでもあったのか? 帰ってきてからどこかボーッとしてるが」
「いや、そういうことじゃないけど……」
「何かあったら誰かに言うんだぞ。父さんはいつでも聞くからな」
「分かってるよ」
父さんが心配してくれているのは分かっている。
でも思うのだ。
能力を持っていない父さんに能力のことを相談して何が分かるというのだろうか、と。
ただ、何も話さないのも悪い気がして、能力のことを話すぐらいならと口を開いた。
「今日、クラスメイトから遊びに誘われたんだけど……」
「いいじゃないか。父さんも知ってる子か?」
「昔よく遊んでた逢坂なのかって子だよ」
「あぁ、同じクラスになったって言ってた逢坂さんちの子か……ってデートか? デートなのか!?」
次の一口を掬っていた父さんの顔がガバッと上がる。
かと思えば、鼻を抑えて天井を見上げた。
何だこの人。
「そうかそうか。友だちと遊んだって話を聞かないから心配だったが……美空、海斗は元気に育ってるよ」
「違うって。行くなら斎藤……ヒロくんとも一緒の予定だから」
「お、ということは昔の仲良し三人組か」
動作が大いちいちきいのは昔からだけど、ころっとテンションが変わるのはどうも慣れない。
あと母さんに報告しなくていいから。恥ずかしいし。
「……まぁそんなところ」
「三人で一緒に遊ぶなんて何年ぶりだ?」
「五年ぐらいかな」
二人と離れ離れになったのは小学五年生の頃だ。
遠くに引っ越すと聞いたあの時は、今生の別れになる気がしていた。
それが何だかんだこうして同じ高校に通うとは。運命、とでも言えばいいのだろうか。
「行けばいいじゃないか。何か問題でもあるのか? 小遣いが足りないなら父さんからもカンパするぞ」
「いや、問題って言うほと問題じゃないんだけど」
何と言えばいいのか分からず口ごもる。
そもそも自分の心すらはっきりしていないのだ。
俺が今更仲良くしようとしていいのかとか、集まったところで昔みたいに話せるのかとか。
あやふやな中から想いを拾い上げ、なんとか口から紡いでいく。
「同じクラスになってからそれほど仲良くなかったのに、今更遊びに行っても気まずいだけだろうなって」
「ふぅむ、なるほどな」
父さんは腕を組んで考えこむ。
ダイニングに静寂が訪れ、テーブルの端に置いた時計の針だけがカチコチと響く。
説明が不十分だったのだろうか、それともやはり父さんには俺の悩みなど理解されないのだろうか。
やっぱりいいや、そう言おうとしたところで父さんが顔を上げた。
「まず海斗は遊びに行きたいのか? それとも行きたくないのか?」
「……分からない」
何が正解で、何が間違いなのか。
あの時間違えてしまった俺にはさっぱりだ。
「分からないか。じゃあそんな海斗に一つ父さんが秘策を教えてやろう」
「秘策?」
「そうだ。取引先の人と仲良くなるためによく意識しているんだがな」
そう前置きして、父さんは口を開いた。
「相手が好きなものを三つ言えるようになる、だ。自分が思う相手の好きなところじゃないぞ。あくまでその相手が好きなものだ。
例えばこのカレーのレシピもそうだ。取引先の人がカレー好きでな、拘りのレシピを教えてもらったんだ」
「道理で普段とは味が違ったんだ。普段のよりも好きかもしれない」
「そうかそうか」
俺の感想に父さんは満足げに肯いた。
「でも何で三つ?」
「父さんの経験則だな。それぐらい分かったところでようやくその人の一端が見える、かもしれない」
「かもしれない、なんだ」
「人付き合いってのは奥が深いからな。難しいところでもあるんだが」
……今の二人に対してはどうだろう。
かつてのことは分かる。
けれど今二人が好きなことなんて何も思いつかなかった。
「だから迷っているなら、今の二人がどういう人間か知るところから始めてみてもいいかもしれないな」
父さんに教えられて感心するような悔しいような。
でも、助けになったのは変えようのない事実で、俺は目を逸らした。
「……ありがとう、父さん」
「何か掴めたか?」
「何となく」
「そりゃ良かった。せっかく同じクラスになれたんだ。頑張ってこいよ」
父さんはニカッと白い歯を見せて笑う。
俺もそれに返すように笑みを浮かべた。
上手く笑えているかは、分からないけど。
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