1.赤井と悔己
この世に神さまがいるというのなら。
どうか切れた糸をもう一度繋ぎ直してください。
◆
日差しの残る九月の始め。
夏休み明け二日目の休み時間だというのに、一年二組の教室には既に気怠げな雰囲気が漂っていた。
俺、赤井海斗も例に漏れず、机に突っ伏して怨嗟の声を吐く。
「なんで学校始まってすぐテストなんてあるんだか」
「だよなぁ。しかもこの後普通に授業があるっていうな」
「マジでそれ」
突っ伏したまま何度も頷き、視線を上げる。
前の席に座っている、メガネをつけた爽やかイケメン男子がこちらを見て顔をしかめていた。
彼の名前は斎藤千紘。
顔がいいだけでなく、勉強スポーツ何でもござれの万能人間だったりする。
クラスカーストの中でも結構上。話上手なみんなの人気者。
小学校の頃一緒に遊んでいた幼なじみじゃなければ、俺なんか歯牙にもかけられなかっただろう。
いや、目立ちたくないし正直そっちの方が嬉しいんだが。
俺の座る窓際の一番後ろはどうにも視線を集めやすい。
今もクラスメイトたちからねっとりと絡みつくような視線を感じてしまう。
その中でも教室の廊下側、一番前の席からひときわ強い視線を向けてくる女生徒がいた。
逢坂なのか。
クラスの中では地味だが、おっとりとした雰囲気で隠れファンも多い女の子。
彼女はこのクラスにいるもう一人の幼なじみであり、そして──『斎藤の運命の相手だった少女』だ。
「……っ」
目が合うと、逢坂さんは慌てたように視線を逸らす。
おおよそ俺が斎藤と話しているのが気に入らないのだろう。
それもそのはず。
幼なじみ三人の関係が崩れてしまったのは、俺のせいなのだから。
「おーい、大丈夫か?」
「え? あ、あぁ、大丈夫だ」
「本当に?」
だから大丈夫だって。
言う暇もなく、斎藤の右手が額に当てられる。
その拍子に右手に結ばれた赤い糸が視界に映った。
赤い糸はふよふよと教室を横切り、ドアを伝ってどこかへと伸びていく。
その異質な糸に教室の誰もが気づいた様子がない。
それもそのはず。
これは俺だけが持つ超能力なのだから。
<運命視>
それがこの能力の名前らしい。決して中二病をこじらせたわけではない。
運命の相手同士を繋ぐ赤い糸を見ることができる、そんな力だ。
……いや、見えるだけならどれだけ良かったのだろうか。
この力との付きあいはもう十五年。
生まれた時からだ。
両親や祖父母のものは最初からしっかりと分かっていったし、斎藤と逢坂の糸は遊ぶたびにどんどん色濃くなっていった。
そんな二人の運命を引き裂いたのは、俺だ。
二人に繋がれた糸、二人だけの特別な運命を見た俺は幼心に嫉妬した。
だから、その糸をハサミで切った。
それから雪崩れこむようにケンカや引っ越しが始まり、一瞬のうちに俺たちは疎遠になった。
自分の犯した罪を意識して顔が歪む。
目敏く気づいた斎藤は心配そうに声を投げてきた。
「あの隠し事か?」
「……まぁ、そんなところだ」
「話せるときになったら話してくれよ」
話せるときなんて来るんだろうか。
いや、一生来ない方がいい気さえする。
『斎藤くん、斎藤千紘くん。今すぐ生徒会室に来るように』
「おっと、呼び出しだ」
「仕事か?」
「建前はな」
「……仲がいいことで」
斎藤が幸せなのはいいことだ。
生徒会長と斎藤は、俺から見てもしっかり運命の糸で繋がっている。
よほどのことがない限りその糸は切れることがないだろう。
「んじゃ、行ってくる」
「次の授業に遅刻するなよ」
「分かってるって」
ひらひらと手を振って彼は教室を出ていった。
そうして、俺の周りには誰もいなくなる。
ぼっちの周りなんてそんなものだ。
六月に斎藤が生徒会に入ってからは彼とも疎遠がちだしな。
今は話しているけれど、それは一緒のクラスだからってところが大きい。
逢坂とは一緒のクラスになってから一度も話していない。
俺の感じている気まずさが向こうにも伝わっているのか、話しかけられることもなかった。
──もしあのとき俺が赤い糸を切らなかったら。
それはイフの話でしかない。
けれど、きっと今よりも楽しい日常だったのだろう。
「なのちゃん、ヒロくん……ごめん」
机に視線を落としてかつての呼び名を零す。
その謝罪は誰にも届くことがない。
「赤井くん?」
はずだった。
いつの間にか近くに来ていたなのちゃ──逢坂さんの澄んだ瞳に覗きこまれていた。
き、聞かれた?
心の中で動揺しつつも、なるべく平静を装って言葉を返す。
「……どうかした?」
「えっとね、さっき図書室の先生が来て、図書委員さんにこれを渡してほしいって頼まれたんだけど……」
「あぁ、そういうことか。ありがとう、逢坂さん」
逢坂さんが持っているのは真新しい青色のノートだった。
表には『図書委員連絡帳』の文字が踊っている。
そういえば放課後の図書当番は今日から再開の予定だったか。
いや、だからってタイミングが悪い……。
冷や汗を流しながらもノートを受け取る。
しかし、用事が終わったはずの逢坂さんは俺から離れて行こうとしなかった。
両手を胸の前で合わせて、何かを言いたそうに口をもごつかせている。
「ねぇ、赤井くん……やっぱり何でもない」
「逢坂さん?」
「ううん、何でもないのっ。またね」
彼女はぎこちなく首を振って、俺の前を離れていった。
やっぱり俺の言葉が聞こえていたんだろうか。
不快にさせてたら悪いな……いや、でも聞こえてなかったら何言ってんのコイツみたいに思われるし……。
頭を巡る考えは、斎藤が教室に帰ってくるまで続いたのだった。
◆
夕暮れの図書室はとても静かだった。
夏休み明けに貸し出し期間を過ぎた本が大量に帰ってきそうなものだが、そこまで真面目なら延滞などしていないだろう。
誰もいない図書室でパラパラとページをめくる音だけが響く。
二人が俺の周りから消えた頃、俺は自分が持つ能力の恐怖から逃げるように読書にふけった。
本はいい。
いくらキャラに親近感を感じても、架空の人物なら赤い糸が見えないから。
現実を忘れさせてくれるから。
「んぅー、今日も誰も来なかったな」
本を読み終わったとき、外は半分が藍色に覆われていた。
ぐぅっと伸びをしながら周囲を見回す。
誰もいるようには見えないけど……一応全部チェックしておくか。
閉じこめちゃいました、なんてことになったら俺の責任だし。
立ち上がり、カウンターを出る。
図書室全体をぐるりと回るように見て回り──
「すぅ……」
──安らかに寝息を立てている逢坂さんを見つけた。
猫の写真集を胸に抱き、フローリングに座っている。
窓から射しこんでいた熱気が微かに残っているが、じきに冷えてくるだろう。
「あの、逢坂さん。起きてください。もうすぐ図書室を閉めますから」
「ほへっ」
はっとした様子で顔を上げる逢坂さん。
胸に本を抱えたまま、慌てたように左右を見回している。
「あれ、わたし赤井くんと話しがしたくて、でもお仕事の邪魔するのも悪いなぁって思って、お仕事が終わる時間まで待ってようと思って……あれ? あれ?」
「落ち着いてください、逢坂さん。赤井は俺です」
「え……あ、赤井くん!」
薄暗くなり始めた空で俺の顔に目が止まる。
その瞬間、ぱぁっと表情が綻んだ。
というか、目の前にいるのに気づかなかったのか。
ちょっと抜けているところは昔から変わっていないらしい。
「もう図書室閉めるんで、本を借りるならカウンターで手続きしてください。もし借りないならすぐに出ていってください。それじゃ」
「ま、待って!」
足早に去ろうとした俺の服の裾を、叫ぶような声とともに握られる。
「あのね、赤井くん。ううん、カイくん」
どきりとした。
それはまだ俺たちが仲良しだった頃に呼ばれていた名前だから。
思わず手を振り解きたくなる。
けれど、自分のせいだという罪の意識が身体を固まらせた。
「なんですか、逢坂さん」
「なのちゃんじゃ、ダメかな?」
「そう呼ぶ理由がありません」
「でも、お昼は呼んでたよね。なのちゃんって」
「……っ」
聞かれてたのか。
「わたしね、三人で一緒のクラスになってずっと思っていたことがあるの」
何を言わんとしているのか。
聞かなくても分かる気がした。
「せっかく、せっかく三人が会えたんだから、また仲良くなれないかなって! 同じクラスになるのなんて、きっと運命なんじゃないかって!」
「無理だよ、逢坂さん」
「でもっ」
「一度離れた時点で、その運命ってのはとっくに切れてるんだよ。失ったものは、もう二度と取り戻せないんだ」
例え運命が見えたとしても、切れた糸は元に戻せない。
過去は変えられない。
だから、逢坂さんの言っていることは世迷い事なんだ。
否定すればするほど心に重い何かが溜まっていく。
でもそれがどうしようもない事実であると、俺は感じていた。
「だいたいなんで俺なんだ。斎藤にも話せばいいじゃないか」
「なのちゃんって呼んでくれたから、もしかしたらカイくんもわたしと同じ気持ちなんじゃないかって、そう思ったの」
「妄想だ」
「ううん。願い事、かな」
願い星に三度願ったところで叶わないのだから、流れすらしない秋の夜では尚更だ。
彼女の想いは、祈りは、届くことなく地に落ちる。
けれど。
あぁ、けれど、もしあの時の罪滅ぼしができるなら。
彼女の必死さにそう思ってしまった時点で、俺の負けなのだ。
「…………った」
「え?」
「分かった。斎藤がいいのなら、一回だけ三人で遊びにいこう」
俺は、曖昧に肯いた。
「ただし! だからってまた仲良くなれるわけじゃない」
「うん」
「そんなことは無理だって今も思ってる」
「うん」
「……それでもいいのか?」
「うんっ!」
眩い笑顔は空に上る月のようで。
夜の闇に隠れていなければきっと見惚れてしまっていただろう。
「しっかり計画練らなきゃねっ」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
胸に手を当ててウキウキとした様子の逢坂さん。
その右手首から地面に垂れる赤い糸に、俺の心は鈍い痛みを覚えるのだった。
◆
ただ、失念していた。
かつて仲が良かったのは小学生の頃で、今の俺たちは高校生だ。
同じ関係を望んでも、全てが同じになるわけではない。
その意味を、俺たちは理解していなかった。
書きたくなった現代恋愛を気の向くままに続けていきます。