9話 称号である。それは猫に小判。
憂鬱。
この一言を喋るのにとてつもない労力を要したが、俺の状況を一言で説明するならこれ以上の言葉はないだろう。
何が悲しくてサラリーマンは毎朝毎朝早く起きて夜遅くに帰らなければならないのか。
何が悲しくて社会人は楽しくもない仕事をしないと生きていけないのだろうか。
何が悲しくて大人は酒を飲まないと生きている実感を得られないのか。
あぁ、毎日の日課をすると大分気分が落ち着いてきた。
はてさて、唐突だけど俺は宿屋にいる。
ライフが全快どころかアルコールによる軽い水毒を患ったが、それ以外に関しては天にも昇るほど絶好調だと言っていいだろう。
決して俺の体力ゲージがレッドゾーンに突入したとかではないから誤解することのないように。
ゾーン30くらいの安全面は確保しているからイエローゾーンに入らない程度のグリーンゾーンかな?
確かそれを始めますとかなんとか言っていたのが2000年代――2010年代だったかな?
あれって結局交通安全対策で施策されたみたいだけど、自動車教習所でも習わなかったしあくまで道路交通法だかでちゃんと規則はありますからねっていう考案した人たちのポーズでしょ?
俺が知ったのなんて、何かの検索でゾーンを調べていたときに偶然引っかかった単語から派生して行きついた先でだからな。
現実を知りますね。
そもそも、今の穴だらけの交通ルールだとかで事故車ゼロ宣言だとかしてみろ。幼稚園児だって指差して笑うわ。
被害を被るのはいつだって被害者側とその家族なのだから。
罪を償ってほしい。慰謝料を払え。
常套句、常套句過ぎて草が生える。
そんなことで解決するなら、その起きた事象について無自覚にも重要ではないと言っているようではないか。
俺だったら憎悪の対象として、過程がどうあれ最後には殺してしまうだろうけど。
……よし、完全に目が覚めた。
おはよう諸君。私こと金のならない木シリスです。
蓄えなんてすぐに放出するからね、俺にはお金が実らないんですよ。
なんか二日酔い? 寝不足のような偏頭痛をさっきまで発症していたが無視することにした。
痛いよ? 痛いけど、長座姿勢を取ったまま足の先まで伸ばして無理矢理土踏まずを攣らせる痛みに慣れてしまえば我慢できる許容範囲内だ。
ちなみに痛みに慣れてくるとちょっとした暇つぶしになるのが俺の発見した遊びや。
おすすめはしない。
今、俺がいるのは酒場から少ししたところにある宿屋の一室である。
昨日酒場で初めての異世界料理に舌鼓を打って、お酒もほどほどに飲んで……?
あ~、そうだ。
驚きと緊張の連続でアルコールが思ったより早く回ったんだっけ?
俺って酔いが回っても顔に出にくいタイプらしくてさ、体に出るタイプなんだよ。
千鳥足になったり、手が震えたり。
アル中になるのはまだ早いからね、頑張って嗜む程度にしていますよ、うん。
お酒は生きていくうえで欠かせないからな、病に侵されようと決して断酒などしない!
さすがに飲んでもすぐリバースしてしまうなら遠慮するが、生憎今までゲロゲロと濁った声で鳴くカエルになったのは一度だけ。
会社員時代の飲み会よ。
調子に乗ってビールをピッチャー飲み、ワインを半分ほど開けて締めには挨拶回りで注がれる日本酒の数々。
その結果、宿屋の部屋に入ってから俺はカエルに変身しました。
あれはやべぇ、口が酸っぱいとかそんなレベルでは推し量れない。
何しろ、なんとか就寝しても次の日起きてからの体調がWARNINGなんだから。
あの時は次の日が休みだったから助かったわ。
腹が減っても胃が食べ物を受け付けません。頭痛が酷くて起き上がるのがしんどい。喉がすぐに乾く。体の節々がなぜか痛い。トイレが近くなる。
パッと思いつくのでもこれぐらいあるが、あとは語るのも面倒だから自分で体験してみてくれ。
くれぐれも急性アルコール中毒になんてなるなよ? あれって安楽死できないから俺は非常にお勧めしない。いいか、絶対だぞ!
一先ず、お酒の安全性(?)を語ったところで顔も洗って身支度バッチリ。
ニキビの予防はしっかりとしておかないとね、出来てから後悔することを何度も繰り返せば自然とすることだから。
男性諸君、案ずるな。ニキビはマスクで隠せるぜ。
ニキビがないことを確認して部屋を出ると、向かいの壁にもたれかかるケモミミ美少女がいた。
「おはようシリス君、昨日はよく眠れたかしら?」
「おはようございますミレルさん。朝から可愛いミレルさんの顔を見られる、こんな素晴らしい宿屋に感謝したいほどの寝心地でした」
さっきは触れないでいたが、俺が寝ていたのは普通のベッドである。
至って普通な寝心地だったのだが、ビックリすることがあるんだ。
順繰りに行こうか。
ベッドは下から順にマットレス、マットレスプロテクター、シーツ、各種布団と言った具合な構成だと思われる。
中には除湿シートや敷パッドといったサブウェポンがあるが、基礎要素は今示した通りのはず。
ただ、上に示さなかった寝具で今やどこの宿に行ってもあるはずの物が俺のベッドにはなかったのである。
枕だ。
脊椎を睡眠中に休ませてあげることを目的とした枕。
高すぎると肩こりやいびきの原因になると言われている枕。
低すぎると寝違えて首に痛みが起きたり、アホ毛が発生する枕。
数を上げれば最低でも3つの説明が出てきてしまう枕が、俺のベッドにはなかったのだ。
確かにあまりの眠気に枕など使わずとも寝ることは可能ではあるが、部屋のどこにも枕のマの字も見えないのはいささか不自然だ。
清掃したときに戻し忘れたのかな?
それが一番在りえそうな結論だが、そうなるとここの店主には文句を言ってやらんとな。
ミレルさんの笑顔を朝一で見せてくれてありがとう、と!
それは文句じゃない? 馬鹿野郎!
枕がないことなんて俺にとっては些細な問題なんだ。よく眠れたかが重要な項目である。
だから、戻ってきたら部屋に枕を置いてください。と、丁寧にお願いするつもりではあるが。
「はいはい、シリス君もちゃんと起きたようだし一緒に行きましょうか」
ミレルさんの恥じらう顔が見れなくなってしまった。
これ以上はさすがに俺でもグレードを上げてボケることは困難だ。俺でも恥じらいという感情は持ち合わせているからな。
嘘は言っていない。
「ところでミレルさん、戦闘について教えてくれるということでしたがどちらに向かわれるので?」
昨日の記憶が確かなら、俺は戦いとは無縁の国から来たことをポロッとこぼしてしまった。
どうせならミレルさんのポロリを見たかったが、どうもガードが堅いらしくそういうことは一切起きなかったわ。
酒が入ると理性のストッパーが緩々になって、いらんことをこぼしてしまう癖があってな。過去に二度、それで後悔したことがある。
そんで口の鍵を開けてしまった俺は、ミレルさんから試験官との模擬戦はどうするのかという質問に合い図書館で本を読むことを喋ってしまったのだ。
いやぁ、あの時のミレルさんの呆れた表情は初めて見たわ。
知り合って間もないんだから、表情なんてどれも初めて見るに決まっているんだけどね。
そうしたら言われたのよ、『シリス君ってお調子者で馬鹿なの?』。
不覚にも胸が高鳴ってしまった俺は、結婚してくださいと真面目な顔で言った。
そうしたらおでこにパァンといい音をした凸ピンを貰いまして悶絶です。
嬉しいのが少しだけあった。
美少女からの凸ピンに嬉しい以外の何があるのかって?
音を聞いていなかったのか!?
パァンだぞ! 子供のお仕置きでする尻叩きでするあの音より少し鈍い音だったけど、それで分かるだろ!
答えはたんこぶが出来るかと思うぐらいの激痛だよ。
マジで一瞬目の前が真っ暗になったってことは、気を失ったんだね俺は。
恐ろしや、ミレルさん。これからはからかうのもほどほどにしておきます。
止めないよ? だって反応が面白いんだもん。
その後は何もなかったかのように、明日の予定を決められて宿にぶち込まれたというわけだ。
宿まで決められていたのを見ると用意周到すぎるというかなんというか。
早いところ自分の立場を明確にしておかないと取り返しのつかないことになりそうだね。
「街の外にある花畑に行きましょう、あそこなら魔物も出ないからいろいろと教えてあげられるわ」
「そうなんですか? それなら安心です」
安心出来ねぇ。
口から出た言葉と内心思っていることが真逆だが、昨日酔っている中で俺は見たのよ。
美少女の幽霊だと俺の思い出に残るからいつでもwelcomeなのだが見てしまったのは金髪イケメン氏。
Lostしていなかったのかと残念な気持ちでいっぱいだったが、その場は異世界料理を堪能するために無視していた。
向こうもお連れさんとお酒を飲みに来ていたみたいで、俺のことは気にも留めていないようだったが偶然の遭遇とは考えづらい。
ミレイさん効果だとすれば一家に一人欲しいくらいだけど、さすがに失礼か。
今回街の外にある花畑とやらも危険がありまくって笑えないが、行かないわけにはいくまい。
この手詰まりの状況を打破するためにも、目の前に降りてきた蜘蛛の糸を手繰らないほど愚か者ではないのでね。警戒しながら過ごすのってストレスが溜まるから早いところ人心地つきたい。
「何か必要なものがあれば持っていきたいのですが、申し訳ないんですけど俺は無一文でして……。着の身着のままで行きますがよろしいでしょうか?」
「気持ち悪いよシリス君」
酷くね?
俺の顔がイケメンでないのは自分自身がよく知っている。知っているけど、そこまでブサメンでもない。
いわゆるどこにでもいる普通の顔だ。太ってもいない、むしろ痩せすぎだと言われてもおかしくない体型だがそこまで言われる謂れはないはず。
「……流石に酷くないですかミレルさん? いくらなんでも傷つくのですが」
「ん~、謝ってもいいんだけど。それにはシリス君にあることをしてほしいかな?」
顎に人差し指を当てて何かを考え込むミレルさんを見ながら、俺は一つの既視感を覚えた。
たまにある、同じような状況をいつかの夢で見たような感覚。
こういうときは、決まってロクなことが起きらない。
「ミレルさん、花畑に急ぎましょう。いつまでもここにいては宿にいる方たちに迷惑がかかるでしょうから」
それだけを言うと、俺は突き当りに見える階段に向かって歩き出した。
なんとなくだが、ミレルさんは俺に対して何かをしてくれているのは善意ではない。善意ではないが、そこに悪意も感じない。
であるならば、些細なきっかけで変わってしまうヒトの心情が自分に敵意を向く前に貰えるだけの物は貰っておこう。
ミレルさんが今俺の顔を見たなら、こんな風に気安く話しかけられる関係は終わってしまうだろう。
自分が歪な笑みを浮かべているのは明白なのだから。
―――――
階段に向かって歩き始めたシリス君の背中を見ながら、私はやはりどこか違和感を覚える。
彼と出会ったときから物腰の低そうな人だと思っていたが、昨日知人から聞いた話だとその印象に疑問を覚え始めた。
冒険者の一人がシリス君の冒険者登録の手続き中を邪魔しようとしていたことだ。
経緯は離れたいたところで見ていた為分からないそうだが、冒険者が手振りで帰るように促すことをしたらしい。私だったら力を込めて一発かましたかもしれないが、シリス君はそれを見た瞬間笑ったそうだ。
そう、彼の境遇は昨日の酒場でなんとなくだが把握した。
興味の対象に入ることには意識を向けるが、それ以外にはおろそかになるようだ。
料理が運ばれて来た時、私が話していてもリーダル肉や卵サラダに集中していてこちらの話をまったく聞いていないようだった。
自身の世界ですべてを完結しているかのような性格。それは酷く危うく、そして孤独にする。
放っておけない弟、とでも言えばいいのか?
彼を見定めるのが私のしなければいけないこと……。ただそれとは別に、この世界で生きていく術を助言するぐらいのわがままは許してくれるだろう。
その結果がどちらに転ぶにしろ、私は彼を気に入り始めたのだから。
―――――
宿の外に出たところでミレルさんが追いついて、二人で街の外に向かう。
途中でケバブのような肉汁滴る肉と野菜が串に刺さったものをミレルさんに奢ってもらい朝食も済ませた。
俺も立派なヒモ認定を受けるためには、ミレルさんと結婚をするのが一番か。
一回もデートをしないで結婚?
元アイドルもビックリなスピード結婚だ。
でも結婚をすれば自分の時間がなくなるし、彼女が楽しい人じゃないと数年で離婚する自信があるからやっぱりヒモはなしで。
俺の理想はどこにあるのやら。
そんなこんなでやってきました、街の外にある花畑。
俺の荒み切った心が洗われるようだ。
自然の雄大さを目の前で感じ、俺のテンションも最高潮。
「シリス君、早速で悪いんだけどギルドカード見せてくれない」
「いいですけど、面白いことは何も書いてませんよ?」
本来、こういうのは見せびらかすものではないのは色んなお話でよく聞くこと。
でもここで拒否しても何も進まないし、ヒモ見習いである俺に拒否権などあろうはずがない。
称号みたいな名前だけどこれって記録に残らないよね?
残ってたらそれはそれで恥ずかしいから残っていませんように。
「うん、やっぱり登録初期状態のまんまだね」
俺のギルドカードを見て口を開くミレルさんが、腰にあるポーチから幾何学模様の書かれた紙を一枚取り出した。
それを俺のギルドカードに重ねると薄っすらと光を放って紙がボロボロと崩れ去る。
「これで完了! はい、ギルドカード返すね」
目の前で何かをしたかと思えばそのまま返ってきたギルドカード。
痛いことをされなかったか子供を見る目でカードの表面を見た俺は、慈愛の目から目をこれでもかと見開いて驚愕の眼でギルドカードに見入った。
名前:シリス
種族:人間
出身地:地球
職種:フリーター
レベル:1
特技:なし
称号:『時期外れの開門者』、『八方猫』、『ヒモ見習い』
ついてしまったああぁぁ!!
あれだけ危惧していたヒモ。憧れてはいても、いざそう呼ばれると心にクルものがある。
つかヒモもショックだけど、真ん中にあるこれ! なんだよ『八方猫』って!
世渡り上手で苦労が多い八方美人なら俺でも知っている。美人じゃないからって猫ってどういうことやねん!
問題はそこじゃない? 俺からすれば大問題や!
「凄く驚いているところ悪いんだけど、見える欄が追加されたかな?」
「は、はい。性別が消えて種族と職種、称号という欄が追加されているんですけどこれってなんですか?」
「それが本来のギルドカードが表示する一覧だよ。さっきまでのは仮登録みたいな扱いで、試験に合格できなかった人が持つこの世界の身分証明書みたいなものだと思ってもらえればいいかな?」
なるほど、確かにこの世界で俺のことを示す証明文書は持ち合わせていない。名前もこの世界に来てからつけた名前だし、これがあれば正々堂々とシリスと名乗れるわけか。
しかし、やはりこの称号……。
「それでシリス君もう一度君のギルドカード見せてもらっていい?」
「さっきこのカードに何かしたとき見たんじゃないですか?」
「私がしたのはロックを外したくらいで、その後もう一度シリス君に触ってもらわないと更新されないの」
なるほど。
今俺が驚いた内容含めて確認したいことが何かあるということでいいのかな。
兎にも角にも称号だよ! 個人的に見られたくないのが『時期外れの開門者』、社会的に見られたくないのが『ヒモ見習い』。
この際『八方猫』はよく分からないからいいとしても……これどうやって隠すんだ!?
「……何か見られたらマズい物でも写っていたかしら?」
ミレルさんの雰囲気が少し刺々しくなる。
これは腹を括るしかないか、『八方猫』だ。『八方猫』だけに注意を向けてもらえれば!!
「いや、自分でもよく分からない称号がございまして。説明のしようがないというか……」
隠しているのも不自然であるため、『八方猫』だけを心に思い浮かべてカードを再びミレルさんに渡す。
それを上から順に見ていくミレルさんは一番下にあるだろう、称号欄に目を向けた途端困惑とも何とも言えぬ微妙な表情を浮かべる。
緊張のせいで手に汗を掻き始めるが、どれだ!?
「シリス君、称号のことで聞きたいんだけど」
「は、はい。何でしょうか?」
口を開いてまた閉じたミレルさんは、意を決したのかこちらにも見えるように称号欄を指しながら俺に雷を落とす言葉を告げてきた。
「この『ヒモ見習い』っていう称号に何か心当たりある?」
「そっちかぁぁああーーーー!!!!」
突然の俺の絶叫に耳をビクッと震えさせて目を見開くミレルさんがいたけれども、今の俺の心境はそんな姿を気に留める余裕がない。
膝から崩れ落ち地面に手をついて項垂れ、外聞的にもよろしくない称号をミレルさんに見られたことに深く落ち込んでいた。
拝啓、過去の俺。
ミレルさんにお世話になりっぱなしだと、青空の下で心からの叫びが出来るよ。すぐに自立しよう。
敬具