永遠の潜水
さあ、今日も夜を迎えた。時刻は二十三時三十分くらい。
その日の終わりに俺の一番の楽しみが始まる。まずはいつも通り準備をしなくてはならない。底にたどり着けるほど深く潜るためには、やはり慣れ親しんだ装備で挑まなければ。
いつものゆったりとした格好に着替え、これまたいつもの定位置につく。俺はここからしか潜ることはできない。
そういう体質、というべきか。どこでもいいという人もいるが、俺みたいに装備や環境が変わるとうまく潜れなくなる人も大勢いる。安定が必要な行いなのだ。
よし、これですべての下準備が終わった。ここからが本番、いよいよ深くまで潜っていく。
だが俺はすぐに底まで潜れるわけではない。これも個人差があって、生まれつき準備後一分以内に底までたどり着く奴もいれば一時間以上かかるやつもいる。
さらに体質以外にもコツがいくつかある。
うまく潜るためのコツ、一つ目は、とにかく体を動かさずじっとすること。リラックス、つまり落ち着いて静かにしていなければならない。
二つ目、じっとすると言ったが、潜れていないのに長時間動かないでいるのは逆効果なので、時折体を動かすこと。筋肉が硬直しすぎると潜れず、浮いたままになってしまうからだ。
そして三つ目……、と話していたら少しずつ沈み始めていた。
まだギリギリ薄明かりが届くくらいの深さだ。順調にいけばあと数分で一気に潜れるだろう。体全体を柔らかな重みに包まれ、体から緊張が抜けていく。
すると一瞬のうちに、先の見えない黒い層が転換して、白っぽいけどわずかに色のついた所についた。
どうやらそこまで無事底にたどり着けたようだ。
底に着くと、道中に感じた重さや密着感はすっかり消え去り、しばらくすると目が慣れてきて風景がほのかに色づいてきた。
みるみると輪郭をはっきりさせていく視界。自分が今いるのは建物の中、しかも見覚えのある場所だ。近所のデパート……いや、知っている景色とはどこか違う。
店舗やエスカレーターの配置が違うし、商品は自分より一回りは昔の世代のものだ。内装も全体的に昭和を感じるし、ところどころ壊れたり汚れたりしている。
やはり地上には存在しない場所のようだ。底では全く珍しいことではない。むしろ地上と寸分違わず存在する場所の方が珍しい。
ここには毎晩来るたびに違う場所が用意されている。今日はたまたまデパートだったというわけだ。
さて、まずは周囲を探索する。なんとなくそうしようと思ったからだ。いつもそうとは限らない。
いきなり誰かと遊ぶこともあれば、知らない人に追いかけられている途中だったりと、楽しいことも怖いこともあるのが底の世界だ。
だがどちらも等しく"楽しい"から俺はこうして毎晩潜っている。今日はどうだろうか。
数分建物内を歩いたが、人影一つない。というより生き物の気配が感じられない。己一人しかいないのは個人的にはかなりレアケースだ。大抵、見知った家族や友人、時には芸能人や漫画のキャラもいたりする。
経験上は人間はほぼ必ずいて、たまに犬猫や動物園にいるような動物がいたりする。無生物の空間は地上にはほとんど存在しないといっても過言ではない。
相変わらず不可思議な世界を見せてくれる底だ。
今日は時間までこの非日常を満喫しよう、そう思った矢先、俺から十五メートルほど前の店の角に目を奪われた。
壁に何かが張り付いている。そう見えたが少し近づいてみると正体が分かった。
人だ。
性別はわからないが、どことなく古臭い服装をしている。そして壁の方を向き、身体を壁にぴたりとくっつけ何かブツブツ繰り返しつぶやいているようだ。
何がしたいのか訳が分からないがとにかく不気味なことだけは確かだ。過去に出会ったことのない本能的に危険を感じるもの。
一刻も早く離れようと思い来た道を引き返そうとした時、壁人の頭がギュルっとこちらを向いた。
脳が処理し、理解するのに数秒かかった。
延々と壁にこすりつけていたその顔は俺と同じだったからだ。
瞬間、伸ばしたメジャーを引き戻すようなスピードで身体が引っ張られた。
体感で一秒もかからないほどの速度で俺は地上に浮上した。
「あああぁぁああぁあああぁぁ!!」
男は大声をあげながら跳びあがった。
鼓動が速い。ずっと息を止めていたのかと思うほど、ぜえぜえと息切れしている。
全身からはじっとりとした脂汗が噴き出している。ひとまず汗を吸って気持ち悪い肌触りの服を脱いだ。
手元の時計はまだ午前二時を回ったばかりだ。
男は徐々に冷静さを取り戻すと、先ほどの出来事を振り返えった。
この男が、安定と引き換えに味気のない人生の中で唯一楽しみを見出していたのが、寝て夢を見ることである。
それは夢の中ならば自分にとって嫌なことが起こらないからだった。なのにさっきの夢は違った。初めて見る悪夢だった。
目覚めてから三十分すぎるとすっかりいつもの調子に戻り、先ほど心底恐ろしい気分を味わった男だったが、同時に人生初の体験に好奇心を抑えられなくなっていた。
もう一度、夢の中の自分に会いに行こう。
男はそう思った。
自分がもう一人いる現象は昔から報告されている。いわゆるドッペルゲンガーというものだ。この怪奇現象はもう一人の自分に会うと自分が殺されてドッペルゲンガーが本物になってしまうと言われている。
男もこの話を知っていたが、それはあくまで都市伝説のようなものであり、加えてドッペルゲンガーは現実世界に出ると言われているので、夢の中ならば全くもって安全だと考えた。
さらに睡眠と夢が好きな男は訓練の末に明晰夢を見れるようになっていた。
これなら万が一危なくなればすぐに起きれば大丈夫だと、再びベットで眠りにつくことにした。
一度目より時間はかかったが、再び夢の中へたどり着いた。場所は同じく古びたデパート。
あたりに男以外の人や動物はいない。完璧に一度目を再現できていた。
これならば夢の男もいるだろうと、先ほどと同じ道を歩き、例の店の角まで向かった。
しかし、やつはいなかった。おかしいなと思いながら、一度目にやつがくっついていた角の壁を見てみることにした。
そこには丁度やつと同じ大きさの黒く汚れた跡が残っていた。やつと同じということは、男と同じ大きさということだ。
少し気味悪さが男の背中をなぞった。
「ん?」
男が何かに気が付いた。よく見るとその跡は、周囲の壁にあるようなただの汚れではない。
手の指先で触ってみると、黒が皮膚に付いた。
煤だ。物が燃えた時に出るあの煤だ。
その時男の両腕が思いっきり目に引っ張られた。
なんだ、と自分の腕を見ると煤の中から出てきた真っ黒な腕に掴まれていた。
一度目の夢以上の恐怖が男の心を支配する。
どう考えても真っ黒の腕は男を壁の中へと引きずり込もうとしている。
そんなことさせるかと必死に抵抗する男。何とか耐えている間に意識を集中させて夢から覚めれば助かる。
しかし、見た目からは想像できないほど真っ黒の腕は力が強く、男の肩が脱臼しそうなほど。
こんな状態では集中できない。だが目覚めなければ男の負けだ。
「うおあぁあ!」
一気に力を込めて、逆に真っ黒の腕を壁から引きずり出し、相手の右腕に思いっきり膝蹴りを食らわした。
するとあれほど力のあった腕が柔らかい木炭のように粉々に砕け散った。
勢いづいた男はもう片方の腕にも膝蹴りをあてて破壊し、ようやく解放された。
はあはあと体力を使い果たした男だが、いつまた襲われるかわからない。
この隙に夢から覚めようと目を閉じ意識を集中させる。瞑想のように余計なことは考えず、ただ”目覚める”というイメージをひたすら頭の中に思い浮かべる。
これを強く行うことで男は自由に目覚めることができるのだ。ぐーっと眉間にしわを寄せ集中力を高めていく。
一分、二分、三分……と時間が過ぎるがまるで目覚められる気配がない。
いつもなら早ければ三十秒立たずに起きられるのになぜなのか。起きる直前までは行けるのにそこから先には壁のようなものがあって進むことができない。
どれだけ壁を叩いても反応はない。固くそびえるのみである。
焦る男。早くしないとまた何者かに掴まってしまう。
だがどれだけ集中しても、イメージしても目覚めることができない。
最悪いつ襲われるかもわからないこの夢の中で自然と目が覚める朝まで過ごさなければならない。
それでも男は諦めない。壁の前で必死の形相で祈るだけだ。
「起きろ」と。
朝、カーテンから寝室に日が差し込む。目覚まし時計の音で起きる。
時刻は七時ぴったり。
ずいぶんと永い眠りから覚めたようです。
数年、いや数十年は夢を見ていました。それはそれは恐ろしい悪夢でした。
一生あの世界から出られないかと思っていましたが、ようやくあの人のおかげで私は助かることができました。
感謝してもしてもしきれません。
まだこの身体にもこの時代にもなれませんが、直に普通に暮らせるようになるでしょう。
差し当たってはニュースでも見るとしますか。