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目覚めると、とても静かで、冷たく、そして暗いところにいた。
自分と自分以外を隔てる境界線はひどく曖昧で。
辺りを満たす空気のような、水のようなそれ。自分がそれに包まれているように感じるが、はたまた自分がそれであるようにも思える。目を開けているのか、閉じているのかも感覚的にはわからないが、この場所に満ちるなにかと自分以外に何もないことだけは、不思議とわかった。
自分が何なのか、それすらも定かではない。思い出そうと記憶を探ろうとするが、微睡みのなかにいるかのように、気づけば意識は千々に拡散している。
しかし、それはどうでもいいように思えた。この水中にも母の胎の中にも似た静謐な場所の居心地の良さが、あらゆることへの関心を薄れさせる。
ここが何処か。己は何者か。何故ここにいるのか。わからずとも、構わないだろう。夢でも現実でもどちらでも、なんでもいい。
このまま全て忘れてしまえば、沈んでいってしまえれば。どこまでも落ちていけるのならば。それはどれほど気持ちのいいことだろうか。苦しみも何もないここで、穏やかに眠れるのならば。
どれほどそうしていただろうか。思考を重ねるでもなく、ただ暗闇を揺蕩うだけ。時間の感覚なんて勿論なかった。茫洋としたまま、意識が、己が滲み出して溶けていくままに任せていた。
ずっとそうしていたら、あるとき光が差した。それを光だと感じただけで、光そのものかはわからないが、その眩さと暖かさは光だとしか形容できなかった。
光は自分を包み込んできて、そしてゆるやかに掬い上げようとする。この穏やかな場所から離されることは酷く苦痛に思えて、ずっとここにいたいと精一杯に暴れるが、光は何かしらの影響も感じさせずに己を引き上げ続ける。
光はどんどんとその強さを増していき、やがて意識は耐えきれずに途切れた。
天井から頬に滴る水滴の冷たさに促され、水底に沈んでいた意識をゆっくりと浮上させた。
時計の針が時を刻むかの如く、水滴は一定の間隔を保って己の頬に落ち続けている。未だ覚めやらぬ意識の中でそれを認識し、その冷たさに少しの気持ち良さを感じながら、瞼を閉じたまま、ぼんやりと悪戯に時を過ごした。
そして、頬を叩いた水滴の数が両の手の指で数えきらなくなろうかという頃になり、飛び起きた。
己は、いつの間に寝ていたのだろうか。
手の甲で濡れた頬を拭い周囲を見渡すと、どうやらここは洞窟の中の祭壇のような場所だった。
何もない洞窟の中、その祭壇は石造りながらも細工は精緻で美しく、唾を飲むような荘厳さだとか神聖な気配を感じる。惜しむらくはこの場所が人の手を離れて久しいのだろう、所々が欠けていたり、苔が生えていたりしていることか。
光が届くべくもない洞窟の中、周囲の光景を確認できたのは、自分が横たわっていた場所に描かれた、魔法陣としか形容できないものが淡く赤い光を放って辺りを薄らと照らしていたからだ。
自分が寝転んでもその全身を内に収めそうな大きさの円の中に、見覚えのない記号や文字らしきものが幾何学模様の中に配列され、一種芸術的な美しさを見せている。漫画などの空想の世界にしか見たことのないような代物が、確かに目の前に存在していた。
少しの間、幻想的なそれに見惚れてしまっていたが、いつまでもそうしているわけにもいかないと気を取り直す。周辺状況の把握がまずできていないし、そもそもどうしてこんな場所で寝ていたのかすらわかっていないのだから。
周囲に視線を巡らせる。三方を岩壁と祭壇で塞がれているが、祭壇の反対方向を見れば魔法陣の光では照らされぬ闇が続いている。じっと目を凝らしてみるが、どうにも見通すことはできそうにない。 一寸先は闇を地で行く状態ではあるが、どうやらここしか道は続いていないようだった。
魔法陣の光はどうやら、時間経過で弱くなっているように見える。どんな目的で作られて、どんな効果を発揮するものだったのかは推し量ることもできはしないが、その役目は終えたということなのだろう。いずれ真っ暗闇になることについては想像に難くない。いつまでもここにいる理由もないのだから、さっさと行くべきか。
地面に手をついて、立ち上がろうとして。その手を見て、動きを止めた。
「なんだ、これは」
確かめるように呟いて、その声音にも違和感を抱いた。
白魚のような肌に耳心地のいい声音。はて、己はこんなにすべすべとした肌だったか、声変わりも済ませていないような声だったか。そこから過去を思い起こそうとして、ここに来るより前のことを思い出せないことに愕然とした。
自然に出てきた言葉が日本語であったから、日本で生まれ育ったのだろうとは思うのだが、自分の出生から生い立ちのうち、エピソード記憶に分類されるものと自分自身の情報だとかがどうにも思い出せないのだ。つまりは名前も、年齢も、性別も、容姿も、どんな人生を送ってきたかすらも。
それ自体は、いい。いや、記憶喪失であることは全くもって良くはないのだが、今はいい。思い出せないものは思い出せないものとしてどうすることも出来ないのだから。ただ今は、己の容姿に違和感を覚えた理由を突き止めたかった。
なにせ、自分が自分でないような、得体の知れないなにかになってしまったような気がして、体の奥底から湧き出る不安に魂を揺さぶられるような気持ちになる。
恐る恐る全身を検める。紅白の巫女装束じみたものを着せられていて、それに合わせてか、足先には足袋と草履が履かされている。頼りない記憶と感覚を信じるならば、あまり馴染みのないこれらは気を失っている間に着せられたもので間違いないだろう。
烏の濡れ羽色の髪が束ねられて腰まで伸びているが、手に取ってみても、こんなにも艶やかでも滑らかでもなかったような気がする。どんな顔をしているかは鏡のあるべくもないこの場では見て確かめることはできないが、触ってみるとすべすべとしていてとても触り心地がいい。
そして、晒を巻かれてなお存在を主張するこの胸の膨らみの異物感は、この股座の喪失感は。
ここはどこで己が誰だか、何もかもが分からないままだが。
どうやら、記憶を失う前の己は男で、今の己は女らしい、ということだけは、わかった。