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産院の掃除婦

作者: 千日紅

 この産院の病室では、窓にかかったカーテンの片側だけをあけておくことが、習わしとなっている。

 雇われの年老いた掃除婦は、長年この産院の床を清めている。だが、彼女が派遣されて働いている身分であるから、産院の職員達は特段、彼女に心を配ると言うことは無い。

 掃除婦の夫はタクシー運転手で、帰ってくるとひとり手酌で安い焼酎を飲む。夫婦の会話は、掃除婦のため息と夫のいびきでしか成り立たず、すでに家を出た娘は、半分彼らと縁を切ったようにして離れて暮らしている。

 掃除婦の稼ぎは決して多くは無い。けれども、痛む腰や膝に鞭打ちつつ、彼女は働かねばならない。


 産院の廊下には生温い静寂が満ちている。外は真冬の寒さであるが、産院の、特にベッドが並ぶこの二階は、一年を通して変わらずあたたかい。掃除婦が、彼女の手に親しんだ掃除道具を乗せたワゴンを押すと、静寂が壁へと圧されてゆく。ワゴンが過ぎると静寂は元通り膨らむ。

 廊下の片側には窓が並び、反対側には病室が並んでいる。明るい廊下を掃除婦は進み、掃除婦はいちばん手前の病室にワゴンを向けた。




 ドアが開いたままの大部屋の奥まった壁にあいた窓から差し込んだ光が、ベッドを囲むカーテンを薄い橙色に染め上げていた。そのグラデーションは黄色から、深い灰色まで至り、光に慣れた目には目をこらしても置かれたスリッパを見分けることを難しくさせる、床の暗い影へと続く。

 掃除婦が大部屋に入ると、顔を覗かせていた数名の産褥にある女達は、軽く会釈をして、珊瑚礁に隠れる魚たちのように、カーテンの内側へと引っ込んだ。

 掃除婦は熟練の手際で、素早く棚や机を拭き上げ、床を掃き、ゴミをまとめる。ゴミには、母乳パッドだの、産褥のナプキンの包みだのがたくさん混じっているのを、ビニール袋に押込みワゴンに乗せる。それから、掃除婦はワゴンを引いて病室を出る。



 女達は時折、幽霊のように談話室や、調乳のためのポットの前に立っていたりする。腹にあたためていた命をひり出したあと、女達は粛々とその空虚に慣れることを始める。


「そこ、どいて」

 険の立った声がして、掃除婦はワゴンごと廊下のすみに避けた。振り返ると、若い看護師が、怒った顔で車いすを押していた。車いすには、ひときわ青ざめた顔の女が乗せられている。

 車いすは、掃除婦の目の前で個室に吸い込まれていく。すぐに看護師が個室から出てきて、ナースシューズをきゅっきゅと鳴らしながら、掃除婦など目にも入らない様子で歩いて行く。

 掃除婦は、いま、女を迎えたばかりの個室の前を、ワゴンを押して通り過ぎた。


 並んだ個室と大部屋を、順繰りに掃除していくと、廊下は奥になるにつれて、暗くなる。そこに煌々と、昼夜のべつ明かりのついているのが、ナースステーションだ。

 明暗に眩まった掃除婦にも、ナースステーションのなかはよく見える。いつもきびきびと忙しなくして働く看護師たちは、そこにいることも少ないが、二人の看護師が座って向かい合っていた。充満した沈黙を伝わって、若い方の看護師のすすり泣きが聞こえてきた。

「はじ……のシュテ……ってね、そう……ものよ」

 掃除婦より、十ばかり若いだろう師長の声は、遠くなった掃除婦の耳にとぎれとぎれ届いた。



 掃除婦がまだ若い頃、彼女は工場のベルトの前に並んで、仕事をしていた。その時代、景気はよく、彼女は新しい服だの、化粧品だの、映画だのに夢中になった。酒や煙草をのんで、悪っぽい男の車に乗るのがステータスだった。

 掃除婦のワゴンのハンドルで、洗剤の入ったスプレーガンがかたかたとぶつかる。ワゴンの足下には雑巾がひっかけてあり、バケツや文化ぼうき、ゴム手袋などの、掃除婦に必要なありとあらゆるものが乗せられていた。


 掃除婦は、車椅子の女の部屋の前を通りすぎ、ワゴンをエレベーターの近くまで寄せると、ボタンを押した。

 ごう、とワイヤーがカゴを持ち上げる振動が床を伝わる。

 廊下には燦々と光が差し込み、白っぽい床の上に反射する。掃除婦の老いた目に、あまりに光はしみ、彼女はエレベーターホールの暗がりに後じさった。

 その時、あ、あーん、あーん、と、細く高い、赤ん坊の泣き声が、廊下の静寂を切り裂いた。

 同時に、エレベーターが開く。

 中からコートを着た男が降りてきて、一緒に冷たい風が廊下に流れ込む。男は廊下をつんのめるようにしてかけていき、少し往きすぎたあと、慌てて引き返して、個室に入った。

 赤ん坊の細い途切れ途切れの泣き声に、女の泣き声が重なり、男が持ち込んだ風と混じって、廊下に満ちた光を少しだけかき混ぜる。


 掃除婦は色の薄くなった目を細め、廊下の奥を見遣ると、彼女の全てが乗せられたワゴンとともに、エレベーターに乗り込んだ。

 ピンク色の三角巾と、水色の作業服、白いエプロン、銀色のワゴン。垂れ下がった瞼、深く刻まれた皺の掃除婦が、鏡に映る。掃除婦は一度しわぶくと、清掃を休んだ個室を思い浮かべる。

 彼女は掃除婦としては優秀だ。あの部屋も、常からきちんと清め、整えてある。いつでも、新しい女を迎えられるように。

 そして、窓のカーテンはいつものように半分だけ、あいているはずだ。


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