セリゼの戦争(前編)
ほうき星町シリーズです
ところで、戦争なんですが、どうですか。あなた戦争していますか。これは小説の書きだしなんだろうか。
最近、中の人(このテキストの筆者)は、随分、戦争についての哲学的考察をしています。この場合の「哲学的」、とは、戦争の悪について文学的だったり好悪だったりのRoman考察をするのではないです。
むしろウィトゲンシュタイン/論理実証主義的な、「戦争:と名指される現象(戦争状況)とは、どういう定義なのだろうか」という、言葉や定義のルールについての考察です。
あなた(がた)の戦争と、わたしの戦争が、どうも同じに思えなくて。
つーのもさ(口調)、つまるところ結論から言ってまうと、戦争というものに対しては、
「おれは戦争状況の、だいたいこのあたりの行為ラインまではまぁ……黙認はするけど、そのラインを明確にガン無視して物理的に踏み込んで邪魔するようなら、実力行使するしかないわ……」
という個々人の態度でしか、ないわけです。
以下、だいたいそのあたりの思考を展開してみます。
戦争ってなんじゃい。
ここで皆さんがイメージするのが、湾岸戦争っぽくミサイルがドンパチヒューッ!ヒューッ!している乱舞サーカス状態、っていうのが多いのではないかと。そこで兵士がドンとやってパンとやってヤッタでイタイイタイと。
あるいはWWIIのモノクロムービーで同じようなドンパチイメージか。
もう、この段階で、ちょっと皆さんと自分とは「戦争」の定義が違っているらしいのです。だって、ミサイルドンパチヒューッ!ヒューッ!の段階って、状況としてもうデストロイで極まってるじゃないですか。排泄行為で言うと、うんこがぼとんと落ちた状態じゃないですか。その状況において、もうどうしろと。流すしかないじゃないですか。そこまで極まった状態にフォーカス当てて「それを回避しようず」っていうのも、もちろん理屈としてはわかるんですけど、しかしもっと前の、お腹ピーピー言ってる段階で、手を打ちましょうよ。ていうかピーピーいってる時点でもヤバみがあるじゃないですか。実際ぽんぽん痛い(pain)わけですから。
そう、だいたい、自分の「戦争」の定義って、
「あーハラ痛くなりそう……腸がグルグルするぅ……」~「おなかピーピー痛い」~「すいませんちょっと花詰みに……」
のあたりなんですよ。そのあたりにガン突入しないように避けるというか。あるいは突入してもトイレ的なスポットでの安全を確保するというか。
再び言いますが、どう考えても、うんこをぼとんと落ちる状態というのは、状況としてダメじゃないですか。臭いじゃないですか。あまつさえ(古語)、トイレからミスって床にべっとり着いたら、もう目も当てられないじゃないですか。おれが始末をつけなきゃならない。いやまあ他人が始末をやってくれる場合もありますけど、それは相当「借り」「迷惑」を作ってるって状況ですよ。
たとえ話長いですね。でもさぁ、リアル物理戦争の状況って、これよりもっとひどいですし……。ティーガー戦車の中でも砲弾のカラ薬莢にうんこしっこをなんとか入れて外にポイ捨てしながら戦闘するらしいですし……。
まあうんこ例え話から哲学に戻りますが(いや、まあここでは一応世間の哲学イメージに則って話を進めたまでのことで、実際は「うんこを無視して、この世にナイものとして扱う」ことこそ、真に非哲学的な態度だと思うよ)、戦争というのは、ドンパチそのものの状況というよりは、ドンパチに至るまでの状況の詰みつつあるヤバみ、というのが、すでに、ね。
定義は続く。
戦争、なのですが、上のようにドンパチ状況のみにフォーカス当てまくるのはどうよ?とは書きましたが、しかし「このままいったらドンパチ殺し合いだぞ」という可能性が立ち上って、具体化・高確率化、という状況論、も確かにあるんですよ。手段として、ドンパチ殺し合いが選択肢にのぼるほどのヤバみ状況、っていう。
そこまでして欲しいものとはなんぞや。もちろんこれは、土地や経済利潤や労働力(奴隷)などの、つまるところの物理リソースと、相手を屈服させたいプライド(心的リソースといってもいいかも)のゲットです。これは、まあ考えるまでもないですね。
物理リソースが欲しいのはわかるんですよ。だいたい、いつも世の中はリソースが不足していますから。先進国で飢えることはなくても、余裕はないし。余裕がないっていうのは、土地やら経済利潤やら時間やらのリソースがどんどん減ってってることですし。とにかく、リソースが欲しい。それもタダ同然で欲しい(リソースを買うために働いて、よりリソースがなくなるパターンは世の中多いですね)。
ここでひょいと、暴力という考えが頭をもたげます。
あ、こりゃ楽だわ、と。
例えば、「殴っていい奴」が居たとします。そうなると、「殴れる権利者ども」の集団は、とても楽ですよ。心理 (ストレス)については言うまでもなく、「殴らないから昼飯買ってこいや」という恫喝取引も成り立ちます。これも、「権利者ども」のリソースが生まれたことになります。楽だな!
ヘドが出ますが、「権利者どものリソース」という物理的/心理的なリソースの数量は、確かに楽になったわけです。物理的に。論理的に。
そして、その生まれたリソースで、権利者どもの家族に良い思いをさせることも可能です。肩たたきなんかしちゃったりして。権利者のママは涙しちゃったりして。そうして権利者の家族は幸福の循環ルートに入ります。リソースさえあれば、楽になる。
搾取だわなぁ。
「奴隷で心底OK!」という前提を、「殴られる奴」が完全なる前提として完全とするならば、これで良いのですが。もちろん、そんな理屈はない。
さて、上述の例え話、「お腹痛い」と認識するタイミングは、いったいいつ、とするべきか。奴隷側が全面抵抗戦争はじめてドンパチが完全開放したタイミングだぜ……っていうノータリンはいないよな?
「おれは戦争状況の、だいたいこのあたりの行為ラインまではまぁ……黙認はするけど、そのラインを明確にガン無視して物理的に踏み込んで邪魔するようなら、実力行使するしかないわ……」
個人は個人で、やりたいことがあります。趣味とか。……趣味でさえも。
時に権利者の方になって、時に奴隷の方になるでしょう。言うなれば、社会契約とは、この権利者サイドと奴隷サイドの耐えざる交換しあいっこなわけです。その原則自体は、まあいい。
問題は、
「おれは一生権利者として搾取しまくっていいんだぜ」=「お前 (ら)は奴隷にしてしまおう」
という意識の発生です。
で、この差別意識の発生っていうのは、「おれ (ら)」と「あいつら」の区別に端を発するんですよね。
仲間の友愛、の裏を返せば、差別意識です。トランプカードゲームの裏表のように。
さて、今現在2018年は、戦争状態か否か?
そんな定義のお話なんです。
●次回「人工vs自然」にちょっとつながる話
今日もほうき星町 (レッズ・エララ現代~近未来)のおはなしです。
「あー暇だ暇だ」と言いながら、セリゼが山のふもとをブラついてます。このセリゼというのは、こういう面構えです。
世界最強の吸血鬼です。他のテキスト置いてるところで何回も書いてますが、しかし神話は何回も語り直すものなので、また語りますが、とにかくセリゼ・ユーイルトットは、強いです。
だいたいこのニート吸血鬼、いつも暇を持て余しています。金は当然、貴族なので腐るほどありますし、時間も「今は」あります。
それまでは、自分に敵対する同族 (吸血鬼のほとんどです)をブっ殺しまくる日々でした。
えーと、上の理屈で言うと、ここでも「おれ (ら)」と「あいつ (ら)」の図式が成り立ってるわけですね。そんなセリゼの半生を、語ってみましょう。
セリゼは、容赦はしませんでしたよ。相手は楽しみのためにセリゼを殺しにかかっているわけですから。
「ゴキブリ喰い」っていうのがセリゼに浴びせられる言葉でしたね。セリゼは血が吸えません。それは吸血鬼一般、とくにノーブル (真祖貴族)にとっては、そりゃあバッチい意識なんです。そういうものなんです。吸血鬼身体感覚からしたら。
つまり、お題目は、整っている。「殴っていい」という。
ここには、ある程度のコンプレックスもありますね。ユーイルトット家という、吸血貴族のなかでも侯爵家、もっともノーブルな家系。そして、セリゼ自身の莫大な魔力と身体能力。
「なんであいつが」っていうやつです。
そのあたりをね、克明に描写することも、まあ出来るっちゃあできますが、だいたい「ゴキブリ喰い」が……っていうのに象徴されるくらいのゴツさですので、したって楽しくはないでしょう。
だからまあその辺は割愛しますが、では、セリゼは「恨んでいるか」ということですね。
筆者も、長い間、恨んでいる、と思っていたんですよ。セリゼが、同族を。でも、よくよく考えたら、こいつ(セリゼ)、どうも、恨みまくっている、とは、違う回路なようなのです。
「邪魔をするな」
っていうのが、セリゼの回路なんです。ということで、次回はそのあたりと戦争と、個人のたのしみと、人生についてのお話です。
次回の(後編)につづきます。