フレアの機械受肉(後編)
ほうき星町シリーズです。前回のつづき
フレアの頭脳と技術があれば、肉体をサイボーグにして、精神をデジタルにして、不老不死になって、これからまた人生をやっていくことは、十分可能だ。それは、フレアにとって、規定事項というか、まあやれるよね、レベルのことであったのです。それが天才工学者なのです。
なので、そのあたりを描写してすげーすげーと寿ぐのも、あんまりレッズ・エララとして面白くないので、ここではフレアのちょっとした「心境の変化」について語ってみます。
主に二つあるのです。
ひとつは「人生とは趣味のたのしみである」思想、
もうひとつは「母性のディストピア」概念。
サイボーグ・フレアの義体システムの中心は、フレアに残ったデジタル骨格のなかで、主に「骨盤」のあたりに設置することにしました。つまり、フレアの子宮部分です。
もし、フレアがデジタル骨格・デジタル肉体で、「子宮再生」を選んでいたら。その未来世界線だって、別に出来た話なのです。
でも、フレアは、自分の子宮……「子を産む」という選択肢を、捨てました。それよりも、「手が自由に動く」「身体がフレキシブルに動く」「義体の安定化」ということを選びます。
フレアは体が戻って、何をしたかったか。人生をたのしみたかったのです。
それには、模型を作るための両手が必要です。それから、ある程度安定した義体。戦闘能力はいらないけど、天才頭脳の活動を安定して支えるための義体システム。
そうして、ベッドの上で、子宮部分(骨盤)に、義体システムを導入した、最初の日でした。
確かに、見事、義体のトータルシステムは、比較にならないほど安定しました。なにせ、安全維持システムは、義体全体において、それなりの大きさです。なので、「安定して支えることが出来るスペース」でしっかりと固定していた方がいいのです。そりゃ子宮だよね、って話です。フレアはそういう風に、簡単に選びました。
ただ。
ベッドの上で、ふと、窓の外の青空を見て、思いました。
「あ、私、もう子供を産めないんですね」
と。
えっ、今更? と読者の方々はお思いでしょう。正直、フレアのこの思考、筆者にもよくわからないのです。
フレアが説明するには、こうです。
「自分がこれまで、当たり前に持っていた可能性が、もう永久になくなったんですね。二度と、何があっても、私はその可能性を手にすることが出来ない。そのことは、ちょっとした悲しく虚しいような、でも決して泣いてはいけないような、そんな気持ちがするんです」
そうしてフレアは知るのです。自分は永久に母には成れない、と。
あまりにも当たり前なことなんですが。人生において、ひとは時に挫折し、何かを断念します。あるいは、事故や、環境によって、何かを永久に断念させられます。
恵まれた天才・フレアにとって、これがはじめての挫折だった、ちゅう話に過ぎません。
でも、彼女にとっては、これが確かなる挫折だったんです。
別に子供を産もう育もう、という人生設計をしてたわけでもなく。
そこでのコンプレックス的なものは、フレアにはないんです。
ただ、「自分から、ある可能性が永久になくなった」という経験をしたんです。
そんな経験は、人生何度もあることではないか、という人たちもいるでしょう。筆者だって、同じように思います。
でも、フレアにとっては、これが初めてだったんです。
そんな恵まれた奴は、これくらい耐えるべきなのでしょうか?
フレアはこの時知ります。自分が世の女性……「母」たちから、恨まれていたことを。世の女性たちは、女性であるだけで挫折を山ほどするということ。そして自分がその山ほどの挫折ウーメンズの上に立ってしまってる天才であるということ。そして超高性能の武器を生みまくること。彼女らの息子・娘は、その武器でもって争い合うこと。
思考の飛躍が凄いのがフレアなんですが、これはちょっと妄想に近いものかもしれません。
それでも、なぜか。この妄想が、一番正解に近いような気がしたフレアなのです。
白いベッドの上で。
窓の向こうの空は、やたらに透き通っていました。吹き抜ける風はどこまでも自由で、しかしフレアとは無関係。
こういう虚しさを、これからどれくらい感じていくのでしょうか。
この虚しさには、何でもって対応するべきなんでしょうか。
空白を抱えながら生きていくという、人生の基本ルールを、この時フレアは知ったのです。
それでも、ひとは生きていきます。
科学の領分は、「世界はこれだけのことがあって、こういうことが出来ますよ」という説明です。
だから、科学者は「人生の物理的可能性」については語ることが出来ますが、「人生で何をすべきか」ということは、領分ではないのです。
だから、神話なのです。これ以上は文学の、神学の、神話の領域です。
フレアは、本気で模型を作ることにしました。
これまでも、模型を趣味で作ってはきました。それで名声も得てきました。しかし、これから作る模型作品は、もっと文学的で、吹き抜ける風のように自由なものでありたい、と強く願いました。
そういう模型が、何の為になるのか。世界の発展のためには、ならない。
でも、フレアには、自分がどれだけの模型作品を作れるのか、どういう模型世界で遊べるのか。それが、とても楽しみなんです。
技術をどこまでも高めていくのではなく。自分が「やりたいなぁ」と思える、幻視したイメージの具現化のために、たのしく技術を学んでいくのです。
なんででしょう。
闇と、虚無があるから(知ったから)、静けき光がある、とフレアには信じられるのです。
それは旧き言葉でいうとこの「ありがたや」の思想かもしれませんが。
今、フレアは、虚無と不自由を抱えながら、自由に作品を作っていきます。
(利き手の右手が上手く動かせない挫折→模型作品作成、の日々についてはまたこんど)
このはじまりの話は、まずはここで。