第二話 地下世界
考えてみれば考えてみるほど俺は幸運だったと思う。
ぱっと考えるだけでもそう思えてやまない理由がいくつも浮かんでくる。
まず第一に転生できたこと。
これは一番重要だと自分的には思っている。
あの時は死をただひたすらに面前に突き付けられただけでそう深く考える時間がなかったが、己という個が消失してしまうのは怖いものである。
俺も冷静になってからそのことから逃れられた、というか延命できたという事実に頭が回ったが、もしあの時そのまま俺という意識が完全に消失してしまっていたら、と想像するだけでも今も夜も寝られなくなる。
こんな歳なのにね。
それになにより、赤ん坊からやり直すことで仕事から解放された。
夢の毎日休日食っちゃ寝生活である。
次に転生した先の性別が男であったこと。
これが何気にこの第二の人生において最も幸運だったのではないかと思う。
もし女性に転生していたらかなりつらい。
なにせ見た目は女、中身は男である。
申し訳ないが僕にはそっちのけはないので、たとえ体が女だとしても男とそういうことに万が一にもなるのはぞっとする。
かといって男の体を知ってしまっている俺の魂では、美人なお姉さん達との禁断の百合の花園に向かおうとも果たして満足できるのかはなはだ疑問である。
そんなわけで、男の魂に対して見事に二分の一の確率を制して男の体を手に入れた俺は僥倖であったということだ。
…男の体を知ってしまっている魂って響き、なんかエロいですね。
そして第三に母親、父親の顔立ちがそれなりに整っていることだ。
よって俺にもおおいに期待できるわけである。
そのことによる利点は多くを語るまでもないと思う。
即座に思いつくだけでもこんなにある。
といってもかなり偏りがある並びとなっているが、それについては触れずに捨て置く。
ではそのラッキーボーイ、俺ことセシルは一体何をしているかというと、現在家の中を探索中である。
そろそろ手足も十分に動かせるようになってきたので、つい先ほど初の寝室脱出計画に乗り出し無事成功を収めるとともに家探索任務を続投中なのだ。
親父は仕事、母さんは庭に洗濯ものを取り込みに行っているまさに今この時が好機とばかりに廊下を這い進んでいるのである。
長き拘束生活から解放されて爆走中である。
視界良好、前方に敵影なし。
進路クリア、オールグリーン。
うむ、よろしい、実によろしい。
いまのところ誰にも会わずに任務を遂行できている。
しかしこうして動き回っていると、この家はひどく住みづらそうに思えてならない。
電化製品一つ、コンセントひとつ見つからないのだ。
かわりに中二チックな魔法陣が描かれた札が幾つか見つかるくらい。
そのくせして家自体はかなり大きい。
赤ちゃんから見た景色という補正も確かに十分に効いているかもしれないが、もうすでにこの廊下を歩いているだけでもいくつか部屋を横目に見てきたし、今まさに前方に広がるリビングらしき部屋もかつての俺の住処を優に超える程度に広い。
部屋全体に気品と生活感が雑居しつつも圧迫感を感じないだけの十分な広さを持ち、奥に見える階段からどうやら二階もあるらしい。
うーんこんな広い家、郊外に建っている邸宅だとか?
外人のスケール感は日本人のそれを大きく上回っているし。
しかしそうなると親父の仕事は何だったけか?
確か騎士とかなんとか…。
とそこで不意に違和感が襲う。
そう、現代社会では“騎士”なんて言葉めったに聞かないのだ。
ましてやそれが職業となると…
いやはや、どうして親父の職業を聞いた時に気が付かなかったのか。
こんなことにも気が付かないなんて。
いくら状況が特殊だからって注意力散漫すぎやしないか。
ここは一度気を引き締めなおすべきなのではないか。
俺の今世の目標の一つが老衰で死ぬことなので、些細なことかもしれないがここはひとつ、今後の失敗を減らすためにも早急な原因解明が求められる場面だ。
よしよし、落ち着いて事件当日を振り返ろう。
親父の職業を教えてくれた人、あれは確か母さんだったはず。
うんうん間違いない。
赤ちゃんの会話相手―といってもその俺は聞く一方だが―は基本的に母さんだからね。
場所は当然寝室。
そして俺はその時彼女の腕の中にいて右手にはたわわな…
そう、そうだ思い出したぞ!俺はあの時“大人のティータイム”を楽しんでたんじゃぁないか。
なるほどがってん委細承知の助。
つまり彼女の胸に惹きつけられてたんじゃあしょうがない。
…いやしょうがなくはないだろう。
どうせあの時の俺は親父に嫉妬でもして彼の情報はろくに聞いてなかったはずだ。
下らぬ嫉妬が引き起こした悲しい事件だったってわけだ。
そう考えると実にちっさい男じゃないか、シエル坊は。
身体も心も…、ああちょっぴり凹む。
まあ今回はいい教訓になったから許すこととしよう。
嫉妬にご注意シエル坊。
うん、なんだか語呂もいいし魂に刻んでおこう。
さてと、ここらで反省は終了して現状の見つめ直しといこうか。
例の光る球体に、親父が中二病前回の騎士とかいう職業。
うーむ、どうやらなんとなくここが俺のいたとことちがう場所ではないかと思えてきた。
が、今一つ決定打に欠けるというのが正直な思いだ。
もっとばっ、って一瞬で分かる何かはないものか。
そう思い辺りに顔を巡らす。
すると視界のすみで、チラッチラッと明かりが見えた。
どうやら庭への扉を覆う、カーテンらしき布地の隙間から発せられているようだ。
好奇心旺盛な赤ちゃんは一心不乱にそこめがけて突き進む。
トテトテトテトテ…
そして到達したカーテン前。
はやる気持ちを抑えつつ、その小さな手でカーテンを押しのけ隙間から外を覗き見た。
そこにはなんとも幻想的な光景が広がっていた。
真っ先に目に飛び込んできたのは遠くの空中高くに浮かび強く光を放つひときわ巨大な水晶と、その周りに浮かぶいくつもの大きな水晶。
そして虚空のいたるところに散布している大小さまざまなこれまた水晶。
これらはみな明るさの強弱は異なれど、一様に光を放ち、地を照らしているようだ。
そしてこの光は、微かに遠目に見えるお城みたいな建物やそれに並立する巨大な白い館を照らし、そこまでのいくつもの町や家々をを一様にその薄い白金色で染めあげている。
とてもきれいだ。
語彙力が乏しいことこの上ないが、真っ先に浮かんだのはそんな感想だった。
そしてその光景に目を奪われていること数分、まばゆい空の光に目を奪われていたまさにその時突然ふと違和感を覚えた。
なにかがおかしい。
あんな空中浮遊に発光している水晶がおかしいのはもっともだがそれじゃない。
あの光は地上を照らしているようだが、なんだかまるで天まで隅々に照らし渡っているような錯覚を覚える。
光が空高くにゆくに連れて徐々に空気に溶け込むように薄れていくのではなく、その光が天空そのものをぬりつぶしてしまっているような…
そこでここから一番近い、ほぼ真上の水晶群によくよく目を凝らして注意を向けていく。
眩しくて目をあけているのが少々つらいが今はそれどころではない。
水晶と水晶の間。
その空間のさらに奥に広がる空目がけて意識を注いでいく。
ようやく目が慣れ始め、あるはずのものを認識しようとしたその時、そこで待っていたのは俺が想像していたものではなく、衝撃の事実だった。
一言で言うならば、そう、
空がなかったのだ。
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ハーメルンの笛吹男の逸話は誰しもが一度は聞いたことがあるのではないかと思う。
日本ではグリム童話として広く伝えられており、その内容については若干のバラエティーがあるものの、おおむねは無作法な町民に対し怒りを覚えた笛吹男がその街の子供たちをその笛の音で洞穴の奥に連れ去ってしまう、という流れの話だ。
一般には怖い話という位置づけがなされている。
日本にも豆粒ころころという昔話がある。
小さなころTVで紹介されたのを覚えている。
似た題名のおむすびころりんとはまた少し毛色が違うのだが、軽くまとめると豆が転がっていった先にあった穴におじいさんもろとも落ちてしまい、その先にいた鬼たちとなんやかんやあってお宝を手に入れる、という話だ。
いずれも穴、もっといえば地下にまつわる話なのだが、つまりここで言いたいのはこういうことなのである。
ここは地下世界なのではなかろうか、と。
今面前に広がっている光景をみて真っ先に浮かんだのがその考えだった。
なにせ空のあるべき場所には黒茶くすすけた岩肌がぼんやり見えるばかりだったのである。
しかも先ほどの城のその先も暗さのせいもあり霞んで見えなくなってゆくくらい地が続いているようだ。
こんな場所日本に住んでいた頃に聞いたこともない。
それこそエアーズロック一つの中身をまるまる切り開いた広さを優に超えるだけの空間がここにはある。
これはもしかしなくても面白いことになってきた。
そうなるとここは地球なのかどうなのか。
仮に地球だとしてもこんな莫大な空間、地中レーダー的なものにかければ一発でばれそうなのに…
あーでもない、こーでもない、と一人唸っているのに夢中で、後方から接近する思わぬ伏兵に気が付けなかった俺はその時後ろから降ってきた声に思わず心臓が縮み上がった。
「シル坊は一体ここで何をしているのかな?」
その声はヨシュア兄さんのものだった。
歳相応の高い声とそれに似あわぬ静かな物腰の声、まさしく兄の声である。
庭にいるはずの母さんにばかりに気を取られていた俺は兄の存在をフェードアウトしていたのだ。
ここはごまかす必要がある、なにせ内緒で寝室を抜け出してきたのだ。
思考の海に沈んでいた意識をくみ上げこの場を切り抜くための対応を冷静に考え始める。
俺は一応片言くらいなら既に話せるようになっているのだが、ここは多くを語る場面ではないと本能が告げている。
とりあえず泣き出すかにっこり笑うかの二択だが、ことを大きくする可能性の少ない笑顔をここは選ぶ。
くらえっ、シエルスマイル!
するとヨシュア兄はそれに反応してお返しにとばかりに微笑みかけてきた。
うぬぬ、これが本場のイケメンスマイル。
恐るべし…
こうして俺は任務から途中離脱を余儀なくされ、少し息を切らせながらも懸命に俺を運んで行った兄によって寝室に強制送還されてしまった。