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曇り空の下

レーネ(三人称)視点→リョーマ視点となります。




 暗く、冷たい空の下。未だ雨の降り止まぬ中で、レーネは目を覚ました。



「……生き、てる」



 生きている。

 あれだけの絶望的な状況に関わらず――自分は、生きている。己を確かめるように、レーネは軽く手を握り、開く。


 土砂に埋まってもおらず、鉄の檻に体を打ち付けた以上の傷らしい傷も無く……命も失っていない。

 奇跡的、と言う他に無かった。もっとも、その奇跡にも、いくらかの代償が必要だったようで――。



「ひっ」



 その光景を目にした瞬間、意図せずして声が出た。

 奇跡的に、レーネは無事に生き延びた――――レーネだけは。


 檻に詰め込まれた他の奴隷も、車を運転していた奴隷商も、皆残らず、命を落としていた。


 死体、死体、死体――レーネの視界に移るのは、皆体のどこかしらがひしゃげ、人としての原型を留めなくなった、自分と同じ年頃の子供……それだけだった。



「っ……」



 なぜ、お前だけ生き残った?


 レーネには、彼らはそう問いかけている気がした。

 事実として、これはただの偶然だ。偶然、レーネが立ち上がっていた。偶然、他の子供をクッションに、衝撃を受け流すことのできる位置にいた。それだけの偶然だ。


 それでも、見開かれたままの瞳がレーネに訴えているような気がした。


 ……なぜ、お前だけ生き残った? と。



「――――――」



 我知らず、レーネは駆けだしていた。


 たとえこの結末に責任が無いとしても、何よりも雄弁に「まだ生きたかった」と訴えかけてくる彼らの眼に耐えられなかった。だから、走った。


 幸いにして、檻の鍵もまた、壊れていた。


――――そうして、どれだけ走っただろう?



 旧冥王領は広大な盆地だ。その事実を知ってか、知らずか。できる限り事故の現場から離れると言うのなら、山を越える必要があった。

 レーネは山道をひた走っていた。時に水たまりに足を取られ、時に木の根に躓き――雨に体温を奪われ。


 気づいた時には、もう土砂崩れの跡は遠く。山の中腹にまで到達していた。



「……はぁ……っ……」



 周りには、もう誰もいない。

 雨の降りしきる暗い山道が、視界に広がるだけだ。



「…………」



 冷える体を抱きしめ、僅かでも体温を保とうと体を擦る。

 元より奴隷に着せる服だ。ボロ切れ一枚でもあれば良い方だった。檻には申し訳程度に天井があったため、それほど気にかけてはいなかったが、その襤褸切れでさえ、雨に濡れて水を含めば、相応に重みを持つ。十に満たない歳の幼いレーネにとって、その重みは致命的と言っていい。


 まして、雨は未だ降り止まず、風も強い。風雨は彼女の体温を奪い、いずれは死に至らしめることだろう。



「…………うっ……」



 足がもつれ、倒れ込む。

 体温の低下は、彼女の体に痺れをもたらしていた。


 それでもなお、雨は降り止まない。農村にいた頃であれば精霊の慈悲の涙……などと振り仰いだそれは、無慈悲にレーネの体温を奪っていく。


 一時(いっとき)は、まだ自分には希望が残っているのだと、レーネは思っていた。

 あるいは、そう考えてしまったこと自体が罪悪だったのだろうか。


 自分の代わりに、誰かが死んでいる。その事実に恐れを抱きつつも、自分は助かるのだと、僅かにでも喜んだ。あるいはそんな浅ましい考えを抱くことすら、精霊は見通していたのか。



「…………っ」



 だからと言って、それを認めることができようか。

 ただ生まれてきて、何も為さずにただ、死ぬ。そんな結末を、誰が認められようか。



「……ぅ、ううっ……うぐっ……!」



 まだ、体は動く。

 空腹が心を裂く。疲れが骨身を蝕む。それでも、前に進まなければ――ここで立ち止まっていては、本当に、何も為せずに死ぬだけだ。


 腕を動かし、這うようにして進む。腕が動かなくなりそうになったら、再び立ち上がって、木を支えに倒れ込むように前へ進む。



 そうして、どれだけの時間が経っただろう。


 レーネは山頂を超え、山脈の向かい側まで歩みを進めていた。

 元々、人間が冥王領へ攻め入るために利用し、舗装していた道を使用していたため、それほどの不便は無かった。

 雨は一向に止む気配が無い。だが、レーネにとってはそれも幸いなことだった。これだけの風雨であれば獣も姿を見せることはまず無い。


 それでも、限界は近かった。

 足首は既に赤く腫れあがってしまっている。裸足で歩いてきたせいか、足の裏の皮もめくれ上がり――鋭利な石で切ってしまったのだろう。止まらない血が山道を染めていた。


 山頂からは、雨の中であっても僅かに光が見えた。山麓と、そこから大分離れた場所に位置する平地。恐らくは村か、民家だろう――と、安堵すると同時に、不安がこみ上げてくる。


 果たして、自分はそこにたどり着くまで、生きていられるのだろうか?

 傷だらけの足は(ろく)に動かず、這って進もうにも、体温の低下に伴う痺れがそれを許さない。


 それでも、と。レーネは無理やりにでも体を動かし続ける。

 足が動かなければ、這って進む。這うことさえできないなら、転がって進む。転がることさえできないのなら……地面に齧り付いてでも、前へ進む。


 生き残るためには、それしか無い。



「…………う、うっ……!」



 知らず、涙が溢れた。

 なぜ、自分がこんな痛苦を受けなければならないのか?

 精霊(かみ)の与えた試練なのか? 両親が自分を売り払ったせいか? もっと突き詰めて、奴隷商というものが存在するせいか?


 朦朧とした頭では、結論は浮かばなかった。

 視界は霞み、おぼろげな意識は前へ進む気力を奪っていく。


 雨の中にあって、猛烈な眠気がレーネを襲った。

 この眠気に身を任せれば、きっと楽になれる。だが、その先に待ち受けているのは確実な死だ。それは、受け入れられない。

 死に物狂いで、ただ前へ進む。


 そうして――半ば意識を失ったレーネの眼に、あるものが映った。

 民家だ。

 より正確には山小屋か――あるいは、廃屋とすら称されるべき建築物。冷静に考えるなら、そんな場所に人が住まうはずは無く、この風雨の中にあって異様な……ともすれば何らかの化生じみた物々しい雰囲気さえ漂っている。


 それでも、レーネにとっての頼みの綱はそこにしか残っていない。

 そも、山麓まで到達できたのは、山脈の高度自体がさしたるものでなかったことと、何よりもかつて人間が踏破し、開拓した街路だったこと。傾斜のおかげで、転がるように……不格好ながらも、前へ進むことができたことが大きい。


 体力は既に尽き、歩くことも這うこともままならない。

 ならば、選択肢は。


 残り少ない命を削り取るように、レーネは前へ進む。

 そうして、到達したその廃屋の扉を叩き――最後の力を振り絞って、言葉を紡いだ。



「たすけて――くだ、さい……!」




 * * *




 不意に廃屋に響いた異音で、俺は目を覚ました。



「……ん」



 未だに風も雨も止む気配は無い。この上雷まで落ちるようになったか――とも、一瞬は考えたが。



「獣……でしょうか」



 ミリアムも一緒になって起き出しているあたり、尋常な事態ではないようだ。

 魔族としての肉体に再構築されてからというもの、身体能力のみならず感覚も鋭敏化している。その気になれば数キロ先で落とした針の音を聞き、山の向こうの落書きを視認することも、決して難しくはないだろう。そのため、こちらに来て最初の夜は混乱したものだった。森の木々のざわめきで叩き起こされ、瞼を抜けてくる朝の陽射しに目を焼かれ、時に虫の這いまわる音に睡眠を妨害されたものだ。


 だが、いつまでもそうしていたわけではない。ミリアムが一応の助言を投げかけていた。

 多少話が長くなったが、要約するに、意識のチャンネルを切り替えること。


 例えば錯視。実は同じ長さなのに、違う長さに見える――だとか、女性の回転する向きの違いだとか。それらに関して詳しいことは言えないが、少なくとも脳の勘違いによって起こる現象だ。

 人間に限らず、生物というものは五感から受ける情報全てを処理してはいない。むしろ、邪魔になる情報は無意識のうちに切り捨てているという。

 そうした無意識の領域を拡張し、あるいは拡大することで最低限の睡眠は保証された。


 とはいえ、やはり鋭い感覚というものを誤魔化すことは難しい。当然、雷のように大きな音がしたら飛び起きてしまうこともままあるし、あるいは日常発せられる音で目を覚ますことも無くはないだろう。だが、今の音はまた違う。


 木の軋む音が玄関口から聞こえてくる。何かしら、俺たち以外の生物がいることは間違いなかった。

 直後に聞こえる、扉を叩くような音。そして――。



「――たすけて……くだ、さい――」



 声が、聞こえた。


 雨と風にかき消されそうな、か細い声。魔族の感覚器官でなければ聞き逃していたところだろう。

 だが、確かに聞こえた。助けを求める声を。



「……っ」



 思わず、飛び起きて扉を開く。と、そこには一人の少女がいた。

 服は襤褸切れ一枚。体のあちこちに擦り傷や切り傷が見られる。ただ事でないと、すぐに分かった。

 雨に濡れ、体温が低下しているのだろう。血の気の引いた顔と、紫色に染まった唇が目に映る。



「ミリアム、この子を中に!」

「あ、は、はい!」



 鋭く指示を飛ばし、上着を脱いで女の子に羽織らせる。

 何か彼女の体を温められるものを探す――が、薪が無い。


 仕方がない。先程まで自分の座っていた椅子を殴り砕き、暖炉に放り込んだ。



「ちょっ」

「ミリアム、火!」

「りょ、了解です!」



 直後、ミリアムの指先に僅かに光が灯った――と、認識したその瞬間には、木材となり果てた椅子の端々に火が点いていた。

 この調子なら、数分とかからずに火が全体に行き渡るはずだ。


 だが、衰弱が激しい。体温の低下も勿論だが、目に見えて体力が失われている。



「ミリアム、回復魔法とか無いのか?」

「あ、ありますけど……この子の状態では……」



 魔力が足りない。


 世界を繋ぐほどの大魔法を行使した後でさえ、ミリアムは望むなら元の世界に帰すと明言した。

 彼女の魔力の殆どが失われているのは、恐らくはその後――俺を蘇生させるために、肉体を再構築させたということが原因だろう。恐らくはあの時に治癒の魔法を織り込んだはずだ。


 推測するに、他の現象ならともかく、回復などの魔法は消費が激しい。ここまで弱り切った女の子を回復させるためには、どれだけの魔力を使うことになるか――――。



「村は……」



 駄目だ。具体的な時間を知る術は無いが、まだ夜も更けたばかり。既に寝静まった頃だろうし……俺は医者の場所も分からない。何より金が無い。

 医者という職業が確立されているなら当然、その診療・治療行為には代金が必要になるし、もしもそうでなければ八方塞がりだ。俺にもミリアムにも医療の知識は無い。一般常識として「体温を下げてはいけない」だとかは分かるが、所詮はその程度。素人の付け焼刃ほど不確かなものは無い。


 ふと、少女を観察していたミリアムが口を開く。



「……リョーマ様。恐らくですが……この子、奴隷かと」

「どれ……」



 突如として発せられた突飛な言葉に顔が強張る。

 しかし、こちらの世界では受け入れられていることなのかもしれない。何でそんなこと、と憤りを口にしそうになるのを必死に押し留める。


 俺は異邦人で、どうしたってこちらの常識には疎い。



「安心してください。既に主要大国は奴隷を法的に認めていません。ですが……」

「……潜り抜ける輩はどこにでもいるか」



 なら、俺の義憤も不当なものではなさそうだ。


 そうなると、法の目をかいくぐって奴隷を売買する商人というのは、人目につかない道を選んで奴隷の売買をするのだろう。俺たちの進んできた道――つまるところの、旧冥王領というのはそういう意味ではうってつけなのかもしれない。何せあらゆる人間に忌避され、見捨てられてきた土地だ。



「…………」



 女の子の脈拍を確かめるも、その脈動は少しずつ弱まっている。このままでは命が失われるのも、時間の問題だ。


 苦悶の表情で頭を掻きむしる俺を見かねたのだろう。ミリアムが、心配そうに告げる。



「……リョーマ様。そこまでして助けることは無いのではありませんか?」

「何だって?」

「彼女は人間ですよ。我々は魔族で……本来なら」

「ミリアム」



 だが、その言葉は遮った。

 本来なら人間と魔族は敵である。そんな分かり切ったことは、この数日のうちに何度となく聞いている。

 だから、ミリアムの言いたいことも何とはなしに分かる。見捨ててしまった方がいい――ということなのだろう。



「いえ、言わせてください。次に同じことがあれば、リョーマ様はいかがしますか」

「助けるよ」



 臆面も無く、言い切る。



「それが問題なんです」

「………………」



 思い当たることはあった。

 食費か。



「……食費と思われるなら、まあ、実際そこも含めてですが」



 含むのか。



「彼女の命を拾えば、今後際限なく拾うことになりかねませんよ」

「ミリアムは俺の命を拾った時、そんな高尚なこと考えてたのか?」

「いえ、それは……」



 仕方のないことだった、と言い訳をしたいのだろうか。

 その行為の源泉が罪悪感であれ、偽善であれ、衝動的なものであれ――結果は変わらない。



「目の前で死にかけてるんだ。助けない方が間違ってる」



 俺は死んでたけど。


 ……仔細はともかく、結果は変わらないはずだ。取り落とさなくて済むものは、取り落としてしまいたくない。



「いずれ我々に牙を剥くとしてもですか」

「そんな未来(こと)は誰にも分からない」



 人の心など、ともすれば秒単位で変化するようなものを読み取ることなどできはしない。


 だからその場その場の最善を尽くす。俺に限った話じゃない、誰にだって、それ以外にできることは無い。



「今、自分にできることを尽くさなきゃ。俺たちに敵対するだけじゃない。それ以外(・・)の可能性だって、全部、ひとつ残らず消えてなくなっちまう」



 ここで可能性の芽を摘み取ってしまえば、花は開かない。

 それは、俺がミリアムに助けられたように。アンナに助けられたように――。



「だから助けたい。それで偽善と罵られるなら、俺はそれで構わない」



 パチ、と木材の爆ぜる音がした。


 同時に、ミリアムが軽く息を吐く。



「――――その子は、もう助かりません」

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