幽世の荒野
――――空間に開いた孔を抜けると、そこは何処とも知れぬ夜の荒野だった。
「……え……」
どこだ、ここは。
ライヒじゃない。というか、俺の知るどこの場所にも、これは到底当てはまらない。
見渡す限りの――夜闇に閉ざされた、だだっ広い荒野。思えば俺がアーサイズに来た時もあんな感じの通路――というか大穴――を通ってきたような覚えがあるような無いような気もするが、今は過去のことは置いておこう。
改めて、どこだここは。
「クソッ……!」
こんなところで足止めを食らっている場合じゃないというのに。こうしている間にもアンナが危険に晒されているかもしれない。
ミリアムは、嘘をついてはいなかった。なら、これによってアンナのいる場所に行くことができるというのは確かなはずだ。
「仕方ないか……」
状況が状況だ。全力で走って出口を見つける――今はそれ以外にできることは無いだろう。
そう、考えた瞬間だった。
「……あ……?」
視界の先に、人影がある。
岩に腰掛け、項垂れた壮年。どこかくたびれた雰囲気を纏うその男を、俺は――――知っている。
いや、知らないわけはない!
年中ずっと、それこそ家にいる間でも着用していて着古したスーツ。ストレスのせいで、やけに白い色が目立つ毛髪。実年齢よりも更に年老いた印象を受ける、深く刻み込まれた皺。
――――その、男は。
「父……さん……」
ぽつりと、認めたくない事実を認めて、勝手に口が言葉を発する。
何でここに、とか。生きていたのか、とか。色々と――言いたいことはあったけれど。
「良真……?」
俺が、彼の前に再び姿を現すことなど、全く想定もしていなかったのだろう。呆けたように――疑問混じりに俺の名を呼ぶ父。
それを見て、俺は――知らず、駆け出していて。
「このタイミングで迷い出てんじゃねえッ!!」
「うごぉっ!?」
――――全力で、その顔面を殴り抜いていた。
「な、何を……良真……!」
「『何を』じゃねえんだよクソ親父ッ! テメェ俺の腹刺したこと忘れたとは言わせねえぞ!」
「腹を――――あ!?」
まさかこのクソ親父、今の今まで俺を刺したこと忘れてたってことは無いだろうか。
いや――多分そうなんだろう。この反応を見るに。
あれは、衝動的な……心中のつもりだったんだろうが。
「ふざけんな馬鹿野郎! ああ――クソッ、その上なんだテメェ急いでるところに出てきやがって! そんなに俺の人生の邪魔したいのかよ!」
「ぬ……あ、ち、違う。話を聞け、良真……! 父さんは」
「アンタを親父と思うことは二度とねえよ!!」
「……俺は、好き好んで出てきたわけじゃあない。最初から――ここにいただけなんだ……」
「あぁ!?」
……見れば――確かに。
この男の言う通り、周囲に足跡や、それ以外の痕跡も何一つとして存在していない。
成程、この場所に最初からいたという言葉は確かなのだろう。だからと言ってこの怒りが晴れることは無いだろうが。
「だからどうした。とっととここから出せ」
「何……? お前、死んでここに来たんじゃないのか……?」
「はぁ? 俺が死んで――――いや、アンタが死んでんだから、そうか。ここは――――そういうことか」
漠然と理解した。
ここは――――死後の世界というやつだ。
それなら、あの男がいることにも説明はつく。じゃあ何で空間を割って行き付いた先がここなのかと言われると、ちょっと――いや、だいぶよく分からないが。
ミリアムの言葉の通りなら、俺は今も半分死んでいる。ありえないことではない……だろうか。
「お前が死んでいないと言うなら……すぐに出られるだろう」
「俺は今すぐ出なきゃいけないんだよ……!」
「そう怒るな……と言っても怒るだろうが……」
ばつが悪そうに、ヤツは顔を伏せて続けた。
「……ここは、外と時間の流れが違うらしい」
「確証がねえのに信じられるかよ、そんなもん」
嘘は言っていないようだが、所詮は主観だ。
この男のことは望むと望まざるに関わらずよく知っているが――自分に都合の良いこと、信じたいと思うことを信じようとする傾向がある。それを知っている以上、俺はこいつを信じる気は無い。
「二度も死にたくないだろ。とっとと俺の前から失せろ」
「ああ……そうさせてもらう」
苛立ちをそのまま言葉にすると、思ったよりもあっさりとした調子で、ヤツは俺の前から退いた。
だからと言って、感謝の気持ちは無い。それだけの繋がりは、もう断ち切られている。
「……良真。最後に一つだけ、謝らせてくれないか?」
「ヤだよ、胸糞悪い。何でアンタの自己満足に付き合わされなきゃなんねえんだ」
「そうか……そうだろうな……」
この男は、当然の反応をされて何をこんなにショックを受けているのだろう。
あの時は、そうするしか無かったと思っていたとでも言うつもりだろうか。
「……俺にとって、アンタの最後の言葉は『お前なんか産まれてこなければ良かった』だ。今更――――何を聞いたって、それは覆りはしない」
「良真……」
けれど。
ああ――――けれど。
「……けど。中学出るまで育ててくれたことだけは――感謝してる」
生きていくのに、それだけは必要だったから。
最低限、社会に適合できるようになるまで……母親も出て行ったというのに、育ててくれたこと。それだけは、少しだけ感謝している。
そうでなければ、アーサイズに来て人並みに幸せを感じたりすることも――きっと、できなかっただろうから。
「……じゃあな。二度と会わないように願ってる」
「ああ……さようならだ」
互いに一言だけ告げて、別々の方向へと歩いていく。
次第に遠ざかる足音に、俺はちょっとした安心感と――僅かな寂寥感を覚えていた。
それは多分、あの人が「あちら」の世界で暮らしていた俺という存在を示すただ一つの標だったからだろう。
執着なんてものは――無いはずだ。
「……さて」
急がないと。
ここが死後の世界――魂の領域だと言うのなら、まずは「完全に蘇る」ことでここから自動的に抜け出せる可能性がある。
というより、今はその可能性に縋るしか無い。
「――――――」
自分の体の中に、意識を向ける。
この体は半分死んでいる。それを動かし、修復していたのは――先代冥王の遺した膨大な魔力だ。
なら、もしかすると……多量の魔力を、血液のように循環させることで、体の本格的な修復に移ることができるのではないだろうか?
「……何でもいい。試すか」
ただ手をこまねいているよりはマシだ。考え付くだけのことを全て試そう。
集中し、体中に魔力を巡らせる。所々で引っ掛かるような感触があるのは、その部分が死んでいるということだろうか。
確かに、その場所に魔力を集中させていくと、なんとなく体に魔力が「馴染む」ような感覚がある。
けど、これじゃあ足りない。致命的に時間が足りない!
修復はするだろう。しかしその速度は、精々「何もしないよりマシ」程度のもので、抜本的な状況改善には至らない。
じゃあ、もう一度拳に全魔力を集めて空間を殴る――?
それもそれで良くない気がする。空間を破壊するんじゃなく、この霊的な領域そのものが破壊されるんじゃないか――そんな、確信にも似た予感がある。
これも、冥王の魔力に遺された知識なのだろう。しかし……。
「クソッ……!」
こうしている間に、アンナが危害を加えられでもしたらどうする!?
焦燥が胸を焼く。心臓が早鐘を打つ。
こんなことなら、もっとミリアムに具体的な話を聞いておくべきだった……!!
「ええい!」
ヤケクソとばかりに、全身に巡らせる魔力の量と循環の速度を上げていく。
これ以上無いまでの、爆発的な回転と凝縮。少しコントロールを誤れば即座に爆発しかねないそれを、しかし俺は意地で操ってのけて――――。
そうして、どれだけ経ったか知れない頃になって――――俺の目の前で、再び空間が割れ、砕けた。
「あ――――――」
思わず、呆けたような声が漏れ出す。
どれだけの間、こうしていたのかは分からないが……つまり、これは俺が肉体的に復活を果たした――ということと見ていいのだろうか。
「……何でもいいさ」
――――なんでもいい。
そうだ。重要なのはそこじゃない。今、俺がアンナのいる場所に向かうことができるかどうかだ。
親父――あの男の言うことに縋るのは癪だが、今はそれ以外に選択肢が無い。
だったら。
「――――待ってろ」
飛び込むように、空間の裂け目に入り込む。
その瞬間に俺が目にしたのは、アンナに剣を向ける壮年の――魔族と思しき男の姿だった。
血液が沸騰するような感覚と共に、俺の体は勝手に動き出していた。
恐怖に震え、目を瞑るアンナの横を抜けて、その眼前へ。男の振りかざす刃を、この手に掴み――。
「何してんだ――――テメェ」
――――掴んだ掌から、血の飛沫が舞い散った。
ごぎり、と。
俺の手の中で、剣が折れ、砕け散った。
砕け散った破片が掌を傷つけ、血が流れ出ていく。
それでも今の俺に、痛みなど大した問題では無かった。
誰よりも。何よりも――――彼女を、助けることができたのだから。
「リョー……マ……」
呆然とした様子で呟くその表情は、誰が見ても憔悴しきっていると分かるほどのものだ。
しかし、それでも――アンナの表情には、僅かな喜色と、疑問の色が浮かんでいた。
「な、何で……?」
「助けに来た」
ごく、単純な答え。俺自身も、ただそれだけを望んでここまで来た。
許してくれなくてもいい。怒ったっていい。
けれど――――あの約束だけは、破るわけにはいかないから。
「――――守るって、約束しただろ」
言葉と共に、冥斧を現出する。
その刹那に、男の目が驚愕に見開かれる。
「な……貴様……いや、貴方は……!?」
問われたなら、名乗るべきだ。
相手が魔族であるならば、尚更に。
名乗る言葉は簡潔に。
何より――「俺自身」を示す、一言。
「――――――――『冥王』」




