心のままに
――――翼竜。
ドラゴンの一種であり、天空の王者とも呼ばれる生物である。
かつて、魔族との戦争において天王の眷属として戦い、そして人間の手により討ち倒され、その数を大きく減じた――現在では、特殊な環境においてのみその生息を確認される存在。
それが、数十匹と――群れを成してライヒに飛来する。
その異常な光景に、アンナの背に寒気が走った。
――――逃げ、なきゃ。
このままではまずい、と本能が警鐘を鳴らす。
ドラゴンに敵う存在がいるとするなら、それは精霊術師に他ならない。空を自由に駆けるワイバーンなど、ただの兵隊が打ち落とせる存在ではない。
例え逃げ出したとしても逃げ切れるか、という点は問題だが――だとして、逃げなければ確実に殺される。
「あ、ああ、わああああああああああ!!」
「えっ……やっ!?」
周囲の人間が恐慌状態に陥り、一斉に町の外へ向けて駆け出す。
それに――しかし、アンナは追随し遅れた。
いち早く我に返ったからこそ、少しだけ冷静に状況を俯瞰する余裕が生まれたからこそ、この状況を分析しようとして足が止まった。
走り来る街の人間を押し留めることができず――自然、アンナは道端に転がされる格好になっていた。
「っ――――」
痛みに呻きながら、身を起こす。見れば、既に周囲の人々は思い思いの場所に向かって逃げ出していた。
「あ、あたしも――――」
逃げなきゃ、と呟こうとした、その瞬間。
それを断ち切るように、彼女の眼前に立ち塞がる人影があった。
「――――――」
「え……」
五十代半ば、と言ったところだろうか。その男の頭髪は、白髪交じりの茶。身長は、アンナよりも頭二つほどは大きいだろう。
その顔には、長い年月を過ごしてきたということを想起させるy深い皺が刻まれ、これから行うことを想ってか、表情は憂いを帯びている。
動きやすいようにだろう、必要最低限程度に留めた簡素な鎧を身に付けてはいるが、少なくともアンナにはその男がただの刃物で傷つけることのできる存在には思えなかった。
その理由は――――彼の頭部の「角」である。
後ろに向けて二本、こめかみの付近からまっすぐに生えた角。尾てい骨付近から生えている、鱗に覆われた尻尾。そして背の翼――――。
いずれの符号も、彼が人間でないことを指し示していた。
故にこそ――この状況が、想定しうる最悪の状況であることも、アンナは理解していた。
「逃げ遅れか。致し方ない」
「ひっ」
男はそう呟き、掲げた手の中に燐光を収束させて一本の剣を具現化した。
魔族にとってこれは普遍的にできて当たり前の事象だ。アンナ自身も一度それを見ていた。だからこそ、その危険性はよく理解していた。
――――殺される!
一歩、二歩。その足が前に向かうごとに、一歩ずつ確実にアンナに死が訪れる。
――――その、瞬間。雷光が迸った。
「え!?」
「何――ぬっ!?」
それは、ライヒまで外出するからと言って事前に身に付けておいた――エフェリネから貰ったアクセサリから発せられたものである。
――――――象の一匹や二匹はわけもなく昏倒させられますよ。
その言葉が、アンナの頭に蘇る。
発せられる電撃は徐々に勢いを増し、最大の出力を以て男を吹き飛ばし――その役目は終えたとばかりに、アクセサリ諸共に砕け散った。
(――エフェリネ様……!)
内心で礼を呟き、男から背を向けて走り出す。
これならば、これならば今は確実に逃げることができる。森の中に入ればあとは――――。
「どこへ行こうと言うのだ」
――――その瞬間、その考えは水泡に帰す。
「あ……」
男は、殆ど無傷であった。
不意に、以前――リョーマが戦っていた犬のことが思い返される。あれもまた、リョーマの攻撃に対してさしたる痛痒を感じていないようだった、と。
魔族の耐久は、人間を圧倒的に超えている。それでも、もしかすると――という思いがアンナの中に無かったと言えば嘘になる。
しかし、この魔石を作ったエフェリネ自身が、そこまで常識的な考えを捨て切れていなかったのか――人間であれば昏倒するほどの威力というのは、魔族には通用しなかったのだ。
「……我が主は、人間の絶滅を望んでいる」
言いながら、男はその歩みを進める。
恐怖の只中にあるアンナに、それを迎え撃つだけの力は無い。その場にへたり込むその姿は、暗に彼女の諦念と絶望を示していた。
「何で……?」
絞り出すような疑問が漏れ出す。
それは、時間稼ぎの意図があるわけではなく――純粋な疑問。
何故、人間を滅ぼすなどと言うのか?
唐突に現れたこの男の言葉を、アンナは理解することができなかった。
「一度は我々が滅ぼされた。故に――滅ぼすのだ」
――――これは、報復である。
人間にとっての自業自得であり――正当性など存在しない復讐である。
男は、その言葉を発した瞬間にアンナへ向けて駆け出し――――。
――――血の飛沫が、舞い散った。
* * *
「今すぐにライヒに――って、どういうことだ!?」
俺は今日まで、ライヒのある方角に向けて地下を移動させていた。それはエフェリネを含め、ギオレンからの査察の目を逃れるためだ。
とは言ってもその速度は遅々としたもので、そもそもライヒに到達するまでにもどれだけかかるのか――というほどだったのだ。今から外に出て全力で走っても――早めに見積もって三十分はかかる。
それを覆す方法が――あると言うのか!?
「リョーマ様にしかできないことです。ですが……」
「躊躇ってる暇は無い、早く!」
「は、はい! まず、どこでもいいので体のどこかに魔力を極限まで集中してください!」
「こうか!」
流石にもう、俺も魔力の操作にはそれなりに慣れた。
最大限――右腕に肉体の全魔力を集中する。
溢れ出しそうなほどの量を、しかし全精神力をもって押し留めると、すぐにそれは右手に収束して落ち着いた。
「え、ええ。やはりこういう状況だと――……ともかく、それで空間を、こう、殴ってください!」
「空間を……」
「なぐる……?」
こうか!? と、魔力を集中させた右腕で空間を殴りつける。
その瞬間。
「うおッ!?」
ガラスが割れ、砕け散るような音と共に――空間に孔が開いた。
物理法則なんて知ったこっちゃねえと言わんばかりの異常現象など、こちらで何度見たやら知れないが――ここまで飛び抜けて異常なことが起きると、流石に驚きを禁じ得ない。
「できた……」
「……やはり」
「ミリアムさん、『やはり』って……?」
「ここ最近のリョーマ様の急激な魔法の上達に、少し気にかかるところがあったんです。いえ、気になると言うのなら最初から――何故あれほど魔法が不得手なのか、何故あれほど不器用なのかずっと気にかかっていたのですが……」
――――散々それで俺のことこき下ろしてたからな!!
そんなの嫌でも覚えてるわい!
「結論から申し上げると、リョーマ様は未だ半分くらいは死んでおられます」
「何それ」
「何ですかそれ」
思わず、レーネと二人で顔を見合わせる。
……別に死んでないよな。心臓は動いてるし、血も出てるし、代謝もしてるし。
「膨大な魔力と、強引に繋ぎ止めた魂とで無理やり体を動かしていたようなものなんです。つまり、事実上の動く死体――――」
「心臓動いて血が流れてるモノを死体と言うのかお前」
「天井から糸下げて操られているようなものを生物と言いますか貴方は」
「だいたい分かった」
そこまで行くと確かに生きているかどうかは微妙かもしれない。
「今までリョーマ様が魔力をまともに扱えなかったのは、肉体の修復と身体機能の再現・維持に魔力の多くを使わざるを得なかったからです。その枷さえ外れれば――――」
「先代の冥王と同じようなことができるってわけか。……同じようなこと?」
――――これが?
この異常現象が!?
「むしろそれができて初めて冥王と呼ばれるに値するものと思ってください。あくまで今回は簡易的なものですが……」
「アンナのいる場所に繋がってんのなら何でもいい。具体的な説明は帰ってから聞く!」
「了解いたしました。では、我々も後であちらに向かいます――ご武運を!」
「き、気を付けて――ケガとか、しちゃダメですからっ!」
「努力はする……!」
約束は、できない。
状況がそれを許してくれはしないだろう。
それでも――ちゃんと帰ってはこよう。
俺が今帰ってくるべき場所は、ここなんだから。
「――――行ってくる!」
自分自身を鼓舞するように言葉を発し、俺は空間の孔へ飛び込んでいく。
――――ただ、アンナに会いに行くために。




