細い糸
三人称(アンナ中心)視点のお話です。
――――恐ろしい、と。
アンナがリョーマのことをそう感じたのは、およそこの半年の内で初めての経験だった。
その気持ちは、彼の素性を知れば無理らしからぬことではあったが――同時に、その感情を抱いたことそれ自体が、アンナの心に暗く影を落としていた。
「――――……」
元より、アンナは生活のためという以上に、狩猟という仕事が好きで山を歩いていた。
しかし、今はそうする気持ちにはなれなかった。
胸に去来した暗澹たる思いが、それを許してくれなかった。
「…………何で」
何で、自分はこんなにも後ろ暗い気持ちになっているのだろう、とアンナは考える。
魔族の王。
状況を考えれば、アンナを殺そうとした優男の――リョーマのことを表すその言葉は、正しいものなのだろう。
ならば、自分の行動は――リョーマを拒絶したそれは、人間として正しい行いのはずだ。
だというのに。
「……こんなに――辛いの」
自信の行いを仕方ないと許容する一方で、それをどうしようもなく苦しいことと捉えている自分がいることに、アンナは気付いた。
けれど、彼は人間社会を生きるうえで、許されてはならないものだ。
魔族というのはそれだけ危険な存在だ。人間を遥かに超える強大な力を持ち、過去の戦争においても、その力を振るい人類の半分を滅ぼしたとも言われている。
だからこそ、恐れを感じた。だからこそ、拒絶した。
何を悔いることがあるののか、と人は言うだろう。それでも、彼女の胸の内が一向に晴れる様子は無かった。
「…………――――」
優男――オスヴァルトに襲われかけたその時、アンナはエフェリネから貰い受けたアクセサリは、身に付けていなかった。
村の中でそう易々と、凶行に出る者もいないだろう――という判断故だ。何より、リョーマがすぐ近くにいたので、そうする必要が無かったとも言える。
しかし、アンナはそのために、オスヴァルトから身を護る術を持っていなかった。そのために、リョーマが直接オスヴァルトに手を下すことになった。
その瞬間のリョーマは、およそ普段の彼からは想像もできないほどの形相で――未だ、思い出すたびにアンナは身震いをするほどである。
「……何なの」
でも。けれど。
その瞬間の彼は確かに恐ろしかった。では、その――「後」は?
アンナの前から去るその瞬間、彼はひどく哀しそうな表情を浮かべていた。
もしも、彼が血も涙もない――人間を滅ぼそうと考える存在だとするなら、わざわざそんな態度を取るだろうか? アンナを守ろうと動くものだろうか?
「………………」
不意に浮かんだ疑問を解消するべく、アンナは体を起こして階下へと向かう。
自分よりも遥かに人生経験の長い人間が、この家には二人もいるのだから。
「おじいちゃん」
「ん……?」
階段を降りてリビングへ向かうと、すぐにハンスの姿はあった。
よく日に焼けた、しかし穏やかなその表情は、アンナの心に安心をもたらずには充分だったが――今はそれに浸っている暇は無い、と首を振る。
「あのね。話があるの」
「どうした、藪から棒に」
「うん――リョーマのこと、なんだけど」
その名前を告げると、胸に軽く痛みが走った。
「……話してみなさい」
顔をしかめたアンナを案ずるように、努めてハンスは優しげな声音で語り掛ける。
果たして、どこまで話したものだろうか――とアンナは僅かに逡巡を見せたが、すぐに気を取り直してハンスへと切り出した。
「ウソ、ついてたの」
「リョーマ君がかい。そりゃまたどうして……?」
――――そう告げる一方で、ハンスはリョーマの秘密について知っている。
それは、彼の旧友たるレドネフから聞かされたからこそ知り得たものだったが、それを迂闊にアンナへ漏らせば、彼女が恐慌状態に陥るだろうということは容易に想像もついていた。
「……知らない」
つき慣れてもいない、嘘をついた。しかしアンナは、ハンスがリョーマの素性を知っているとは知らない。
もっとも、人間としてはその事実を報せ、対処するのが正しい在り方なのだろうが――今のアンナに、そうする気力は無かった。
「けど、ひどい嘘だったの。すっごく辛くって、酷い、嘘」
「……それを聞いて、どう思った?」
「ショックだった。悲しいし、辛かったよ。けど……」
「けど、何だい?」
「……仕方ないなぁ、って……ちょっとだけ、思ったの」
彼が去る瞬間、「待って」と言いかけたのは、そう考えたことによるところが大きい。
「すっごく落ち込むし、ショックも受けたけど――リョーマって、あんなだから」
「そうだなぁ。リョーマ君は、あんなだからなぁ」
変なところで真面目で、妙に他人に気を遣い、ほんの些細なことで悩み、抱え込む。
その人柄を理解しているからこそ、ショックを受けていても、彼が本気でアンナを害すつもりが無いことは承知していた。
「で、アンナはどうしたいんかのう?」
「……そんなの、分かんないよ……」
「分からんか」
「……うん」
人間として、やるべきことは明確だ。彼の存在を然るべき者へ伝え、その存在を無かったことにすること。
一人の友人、そして――彼を想う一人の女としてのやるべきことも、また明確だ。彼と再び会って、話をすること。
しかし、その二つは――――決して両立などできるはずもない。
「爺ちゃんは詳しいこと聞いておらんから、何とも言い辛いがのう。まずはリョーマ君と話してみにゃ、何も分からんだろう」
「話して?」
「んむ。その時、その時の安易な考えで行動すると、後悔することになるかもしれん。アンナはそんなことしておらんかもしれんが――――」
してる。と、アンナは内心で歯噛みした。
あの瞬間にリョーマを拒絶してしまったこと、それは、間違いなく突発的に「してしまった」ことだ。
「――そういうことをしておると、その内何か致命的なすれ違いが起きるかもしれんのう」
「すれ……違い」
不意に、アンナが思い返したのは、ここ数日の自分の行動だった。
リョーマ――というよりも、オスヴァルトによる衝撃の事実を告白されて以来、アンナは一度もあの山小屋に行っていない。それどころか、そもそも山に入っていなかった。
当然ではあるが、リョーマはあれ以来ハンスの下に師事しに来てはいない。一切の交流が絶たれてしまっている。
「ご、ごめんね、おじいちゃん。ちょっと外に行ってくる!」
「ん……? そ、そうか。気を付けてのう」
「うん……!」
思い立ったが早いか、アンナは自室に戻って着替えた後、人知れずその「目的地」に向けて走り始めた。
一つ目は、かつて彼らと初めて会った山小屋だ。
「……いない……!」
当然のように、そこはもぬけの殻であった。
そうなる理由は理解できる。エフェリネから聞かされた「査察」を避けるためだ。
隅々まで探しても、地下室すらも見つかりはしなかったが――アンナ自身も、既にここにいるとは考えていない。
「次……!」
次いで探しに向かったのは、彼が謎の精霊術師と戦ったという場所だ。
やはり、ここにも痕跡すら存在しない。それでも諦めること無く、アンナは走る。
犬と遭遇した山道。診療所。酒場。村の隅々を探しても、やはり痕跡は無い。
ならば、とアンナはその足を広げ、ライヒへと赴いた。
かつて彼が入院していた病院。エフェリネと会った広場。定食屋。菓子屋。雑貨屋。彼と買い食いして歩いた、出店が数多く出店している通り――――。
それは、ある意味でリョーマとの思い出を辿る行為だったのかもしれない。万が一、もしかすると彼も同じ思いを抱いて、この場所に来ているかもしれないという、蜘蛛の糸を手繰っていくような、細い細い希望。
「…………いない」
しかし、その希望の糸は断ち切られかけていた。
それも当然のことだ。彼は自身の素性が明かされてしまったと認識すれば、まずは報告をして自身の存在を公表されるものと認識することだろう。そうなれば人相書きが出回る。街にわざわざ出て行くのは自殺行為と言えた。
「――――バカ。バカ、バカ……!」
独り、悔しさを口にする。
(――――あたしの、バカ……!)
それは、リョーマに向けたものでなく、彼を信じ切ることができなかった自分への叱咤。
この結末を予測できはしなかった。しかし、もっと良い方向に舵を切ることはきっと、できたはずだ。
そも、彼に害意があるならば、エフェリネに貰ったアクセサリがまず間違いなく彼を射抜いていただろう。それを基に説得をすれば、もしかすると引き留めることができていた可能性がある。
それをしなかったのは紛れも無く自分の怠慢だ――と、アンナは自分を責めた。
「……ああ、もう……!」
けれど、よく考えればリョーマもリョーマだ――と、考えを切り替える。
そこで何故諦めるのか。そこで何故退くのか。もっと前に出て、もっと相手のことを考えずにぶつかっていくべきじゃあないのか、とアンナは考える。
結局のところ、これは二人の怠慢だ。だからこそ、二人でもう一度清算する必要がある。
「出てきてよ、リョーマのバカ!」
ベンチに腰掛け、歯噛みしながら地面を蹴る――その瞬間。
不意に。空が塞がれた。
「――――え」
あまりに唐突な出来事に、脳が思考を止める。
――――少しして、アンナはそれが城であることに気付いた。
宙に浮かぶ、巨大な城。まず間違いなく常識で推し量れるものでないそれは、アンナのみならず、街の人間全ての思考を停止させるに十分な威力を秘めていた。
「え――――え。え……!?」
一方、僅かに「非常識」に慣れているアンナの思考は、他の人間よりも少しだけ早く取り戻された。
「何アレ!?」
一瞬、アンナの脳裏にリョーマの姿が浮かぶ――が、彼は違うと即座にその考えを払いのけた。
彼は目立つのを好まないし、何よりもアンナに約束したのは「二度と目の前に現れない」ということだ。こんなにも分かりやすい形で二度も現れはしない。
だとするならば、これは――と、そう考えた瞬間のことだった。
――――――グアアアアアアアアアアッ!!
強烈な咆哮と共に、城の側部――何らかの「穴」から、幾多の影が射出される。
腕と一体化した強靭な翼。鉄の武器すら通さない堅牢な鱗。その姿を見たことのある者は多くないが、少なからずこの世界に生きる者は、その脅威性と共によく知られている存在――――。
「……ドラゴン……!?」
――――数十はいようかという、翼竜の群れである。




