望まれたもの
――――お前なんて、生まれてこなければよかった。
それが、俺の心に深く刻みつけられた根源であり、俺の「他人から求められる」ことへの渇望の原因だ。
かつて、父が死ぬその日。家に帰ってきた俺に浴びせられたのがその一言だった。
お前なんて、生まれてこなければよかったんだと。だから、俺の生活は一向に良くならないんだ、と。だから、母も他の男と逃げたんだ、と。
八つ当たりもいいところだ、と。今はそう思う。けれど、当時の俺はそんなことを考えられるような余裕は無くて。
次の瞬間には、腹を刺されて意識を失っていた。
それ以来、だろうか。俺は、自分の価値を他人に求めるようになった。
人から求められているから、俺はここにいていいんだと。人から欲されているから、俺はここにいるべきなんだと。
母と別れて、ずっと俺を育ててくれたはずの父に俺の価値を否定されたからこそ、そういう考えが根付いてしまっていた。
――――アーサイズに来て、魔族になったという転機を経て、果たして俺は何が変わったのか、と思う。
表面的には、恐れることなく他人と話していけるようになったかもしれない。
表面的には、過去経験してこなかったことを経験して、新たに芽生えたものがあるかもしれない。
けれど、俺の心の奥底では、そんな黒い根源が蠢いていた。
結局、俺はそのトラウマから脱却できてはいなかった。
結局――――俺はずっと、自分の価値を認められずに部屋から出ることができなかった新地良真のまま、だった。
「………………」
あの事件の、翌日。
俺は、山小屋を放棄して地下空間の移設を推し進めていた。
魔法を使い、地下空間をそっくりそのまま横へ向けて移動させる。ただそれだけの話だが、動き続けるのは微々たる距離だ。常に魔力を供給し続けていないと、いつまで経ってもクラインからすら離れられない。
幸いなのは、魔力を供給し続けてさえいれば体勢も姿勢もまるで関係ないということくらいだろうか。実際、俺はずっと座り込んで作業を行っていた。
「……あの、少し、休まれた方が」
「必要ない」
心配そうに、ミリアムが提案してくる。しかし、それに応えるだけの余裕も、理由もありはしなかった。
「他にできるやつはいないんだ。俺がやる」
「…………」
一キロ四方もある空間を移設するには、膨大な魔力が必要だ。
最古参のレーネも、魔力が体に定着してはいるが、魔力量が多いわけじゃあない。
今、この状況でどうにかできるのは俺だけだった。
「何故そこで諦めてしまうのですか……」
「何をだ」
「人間との共存という目標です」
「諦めたわけじゃないさ」
どこか――疲れた。
走り続けて、走り続けて。その最中は疲れを覚えるような余裕も無かった。
「けど、今はもう無理だ。魔族は――『恐ろしい存在』でしかないんだよ。やっぱり、きっと」
「貴方がそれを払拭すると……!」
「……無理だよ」
無理だ。
――――無理なんだ。
惚れた女の子一人、その恐怖を払拭することができない俺には、無理だ。
「……それに、みんなを危険に晒せない」
「ッ…………失礼します」
口惜しげにそう言うと、ミリアムはその場から駆けていった。
失望しただろうか。いや――そうなっても仕方がない。俺はずっと融和と共存を掲げてひた走ってきた。
唐突にそれは無理だったなんて言われても、困惑するし、失望もするだろう。
――――ああ、それにしても。
「疲れた、な……」
やけに朦朧とした意識を、頬を叩いて持ち直す。
魔力を使い過ぎたかもしれない。元々、魔族にとっての存在の要は魔力だ。長時間、大量の魔力を使い続ければ、体調の一つも崩すというものか。
けれど。
「……けど、そうも言ってられないか」
既にアンナに露見した以上、人間は草の根を分けてでも魔族を探そうとするだろう。
その前に、何としてでも身を隠す必要がある。地底深くに隠れてでも。
それを果たした後は、更にその先――人間との戦いを見据えていかなければならない。
「ああ――――くそ」
俺の犠牲だけで済めば御の字。
外部に知られているミリアムとレーネ、オスヴァルトは殺される可能性が高い。
……それでも、魔族という形態さえ残れば。あるいは、逆に人間を絶滅させれば――――。
「……最悪の気分だ」
考えたその途端に、空虚な感情が押し寄せた。
魔力の放出は止めないまま、その場に倒れ込んで天井を見上げる。
なんだか、以前よりも天井が低く感じた。
* * *
「貴方は何を考えているのですか」
――――他方。リョーマの傍から離れたミリアムは、オスヴァルトの部屋を訪れていた。
その表情には、これまでに彼女が一度も見せたことの無い明確な怒りが宿っている。しかし、オスヴァルトはそれに臆することなく――何を怒っているのか、とでも問いたいかのように首を傾げた。
「何、とは? 王もミリアム殿も異なことを仰る。このオスヴァルト、常にこの理想は違えず王のため、そして魔族のために」
「何が魔族のためですか。貴方のしたことは、単にリョーマ様を惑わせただけでしょう!」
「惑わせたのはかの少女ではありませんか。彼女に恋い焦がれたことこそが、王にとって唯一にして最大の失敗。それさえ無ければ、王は正しく魔族のことを一番に考えていたでしょうに――おっと」
会話の最中、僅かにズレた腕を元の位置に戻す。
その状況の異質さに、ミリアムは思わず目を剥いた。
「それは、どうしたんです」
「いや――何。あの少女を排除しなければと行動した結果ですな」
「……アンナさんを――排除?」
眉根を寄せ、更なる怒りを表すミリアムに対しても、しかしオスヴァルトは泰然自若と告げる。
「彼女の存在が、王が魔族のことを考える時間を減らす。それは紛れも無い事実では?」
「最終的な我々の目標は、人間との融和です。排除などリョーマ様は考えておられません」
「ふむ、しかしそれは『最終的な』目標。その経過で躓くことは王の本意ではありますまい。ですので、このオスヴァルトが取り除こうとしていたのですが――――」
ご覧の通り、と――オスヴァルトは切断された腕をミリアムに掲げて見せた。
その大元が魔力の塊であるが故、オスヴァルトの腕から血が流れ出るようなことも無かったが、その光景はミリアムの表情を顰めさせるには充分だった。
「リョーマ様が……?」
「あの少女を殺そうと言うのなら、その前に殺す――と。流石にこの私でさえ肝が冷えましたな」
「………………」
その言葉に、ミリアムは空恐ろしさを覚えていた。
ミリアムは、リョーマが本気で怒りを露にした場面を見たことが無い。
ネリーを魔族化させた時も、精霊術師との戦いの時も、彼は己の役割を果たすべく、粛々と戦っていた。後者はネリーとアンブロシウスから聞いた話でしかないが、彼が比較的穏やかな人格であることはミリアムも把握している。
その彼が、仲間に刃を向け――あまつさえ、殺意を表明するというのは、明確に異常な事態であった。
それを引き起こしたのがオスヴァルトであるという点は、ミリアムには想定できてはいたが。
「――――なんてことを、してくれたんですか」
それは――――少なくとも、ミリアムの想定の中では最悪のものだと言えた。
そこに至る直前までが、およそ最高の成果を出せていたからこそ。
「は?」
「なんてことをしてくれたのかと言っているんですッ! 折角、折角リョーマ様のしてきたことが実を結びかけていたというのに……! あなたはッ!!」
オスヴァルトの肩が砕かんばかりの力で掴まれ、嘆きを秘めた叫びがミリアムの喉から発せられる。
「な、何を……!?」
「『何を』!? それはこちらの台詞です! ようやく、村の人たちにも認められて、リョーマ様の素性を知ってなお歩み寄ろうとしてくれる方までもが現れたというのに……!! これでは、全部、何もかも……台無しじゃないですか……!!」
その言葉と共に。
――――オスヴァルトは、初めて己の行動の結果を理解した。
「お、王はそのことを――――」
「貴方に言われるまでも無くとうに報告してあります! その上で、リョーマ様は『もう無理だろう』と――」
瞬間、オスヴァルトの視界に闇が差す。
――――ありえない。
――――ありえない。ありえない!!
――――ならば、私の行為は……!
「か、ぁ…………」
絶望に満ちたその表情を見て、しかし、溜飲が下がるミリアムでは無かった。
そもそも、これは彼を弾劾するための話ではない。責任の在り処を明確にし、二度と同じことが起きないようにするための防止策だ。
それでも、既に起きたことを無かったことにはできない。できようはずも無い。だからこそ、ミリアムもオスヴァルトに対して何か言葉をかけることはできなかった。
結果的にそれが誤りだったとはいえ、彼もまた魔族の未来のために行動した事実に変わりはないのだから。
「……私は、もう一度リョーマ様へことと次第の説明を行います。オスヴァルトは……」
ほんの一瞬、ミリアムは逡巡を見せる。
それは、一度は過ちを犯したオスヴァルトが二度、同じことをしないかという憂慮から来る躊躇である。
しかし、現状ではリョーマ以外に魔法をまともに扱える者はオスヴァルト以外に誰もいない。
僅かな諦めと決意を胸に、ミリアムは改めて切り出した。
「……あなたには、頼みがあります」
「頼み――――ですと?」
「ええ。失態を取り戻す気はありますね? 無いと言っても挽回してもらいます。でなくては、あまりにリョーマ様が不憫です」
いいですか、とミリアムは「これから先」起こり得ることを示して見せる。
それは、かつて彼女の見た光景に起因する、「起こり得る可能性の高い」事象――――。




