雨と山道
三人称視点→リョーマ視点となります。
人買いという職業は、アーサイズにおいても決して普遍的なものではない。
大陸における主要国家であるスニギット公国においてもギオレン霊王国においても、基本として奴隷制度は認められていない。奴隷の所持が認められた時点で、法的に厳格な処罰の対象となるためだ。
しかし、そうした厳格な法規があってなお、奴隷商は無くならない。それを求める者がいる限り。あるいは――人を「売る」者がいる限りは。
レーネ・メルダースも、そうして売られた中の一人だった。
こうなってしまった経緯についてはレーネ自身もよく理解してはいない。ただ、貧しい村の生まれだということは無意識のうちに理解していた。自分を人買いに売れば、両親の生活も、幾分か楽になるということも。
貧しい農村では、無くもない話ではあった。
レーネの家だけが特別に貧困にあえいでいたわけではない。ただ、彼女の両親はそれに耐えきれなかった。
何も考えず、何も生み出さずにただ生きていくだけならば、食い扶持は減らした方がいい。跡を継ぐ者がいるのならば――それ以外の者は、必要ない。
罪悪感と醜聞と、生活とを秤にかけた結果、レーネの両親は生活を選んだ。ただ、それだけのこと。
たとえ人買いが彼らの生活苦を聞き付け、多額の金をちらつかせて「こう」なるよう仕向けたのだとしても……それは、最終的にはレーネの両親が選択したことだった。
「………………」
檻の中には、数人の子供が押し込められていた。
そのいずれも顔色が優れず、呼吸も浅い。肌の青白さに比して、頬に赤みが差している者も見られる。
衛生環境は、最悪と言っても過言でなかった。
魔石自動車で丸一日ほどかけて、旧「冥王」領付近の荒れ道を走る。身体的に成熟を迎えていない子供たちにとっては、ひどく苦しい旅路だった。
元より、奴隷商は国に認可されたものではない。むしろ、弾圧されて然るべき存在だ。
それを自覚しているからこそ、彼らは通常の経路を用いない。時に崩れかけの山道を、時に荒野の荒れ道を進み、人を売る。特に、現在に至ってさえ多くの人間に忌み嫌われる土地――旧冥王領の周縁部は、人買いたちにとっては最良の土地だった。無駄なほどに広く、好んで訪れる人間もいない。事故を起こす危険はある者の、摘発を受ける可能性は限りなく低いのだ。
ゆっくりと、レーネは息を吐く。
「………………」
助けは期待できそうにない。この二日間、檻の外を見ても人影の一つすら無かったのだから。
奴隷は、可能な限り逃げ出すことが無いよう、精霊術を学ぶことのできないだろう農村部から選ばれることが多い。この人買いもそのセオリーを忠実に守っていた。周囲を見回しても、誰一人として抵抗しようという気概を見せる者はいなかった。
翌日には街に着く――と、運転手が大声で話していたのを、レーネはこの日の朝に聞いていた。もしもチャンスがあるなら、その瞬間。
逃げおおせることは難しいだろうが、万が一。万に一つくらいは、可能性があるかもしれない。
そう信じることだけが、今のレーネの希望だった。
不意に、雨が車両の屋根を濡らした。
ついてねえな――と、今朝と変わらぬ大声で、運転手がボヤいた。
奴隷の運搬中に天気が崩れることなど、決して珍しいことではない。珍しいことではないが、安全のためにはどうしても速度を落とさなければならないし、成金に売りつけられさえすれば莫大な金になるはずの奴隷が衰弱して死ぬこともありうる。ならば一時立ち止まり、安全な場所を探すのが普通だ。
それでも進まなければならなかった。安全な道を行けば当然、人に見られる可能性は高まる。取引を数日後に控えていることもあり、明朝までに辿り着かなければ奴隷の顔見せにも間に合わない。
男は焦っていた。
再三の国からの通告さえ、知らぬと切り捨ててきた。既にまともな生き方に戻る機会は逸している。この奴隷どもを売り払ってしまえなければ、自分の生活すらも危うい――。
その焦りが、彼の命運を決定づけた。
「…………?」
レーネは、雨音の中に小さな雑音を感じた。
ほんの僅かな、取るに足らない程度の……ともすれば、車の発する音にかき消されそうな、小さな音。
身を乗り出したのは、ほんの気まぐれだった。誰もこの音に気付く者がいなかったから――という、ちょっとした優越感が原因だったのかもしれない。しかし、それ故にレーネは見た。
山肌が、滑り落ちてくる瞬間を。
* * *
果たして、この元廃屋は大雨の中で無事でいられるのだろうか。
言いしれない不安を感じる中、俺とミリアムはやはりと言うべきか、当然に起きてしまった雨漏りに対応し続けていた。
「ミリアム。そっちも漏ってる」
「あ、はい」
次々と露見していく天井の穴。いずれは大規模な修繕が必要になってくるのだろうが、今はとりあえず致命的な破損個所に適当な木でも当てて、応急的な処置を施すしか無かった。
……ちなみに、補修用の素材に使っているのは、元々この廃屋にあった机である。
「というか何でリョーマ様無駄にこういうこと慣れた風なんですか」
「実際慣れてるからだよ」
アルバイト……というか、雑用というか。
身寄りのない貧乏学生でも住むことのできる寮というのは、基本的に築ン十年という廃屋じみたボロ家が殆どだ。そりゃあ雨漏りくらいするし、修理くらい手伝わされる。
……そりゃあ慣れる。
「所帯じみた冥王って……」
「その称号が大仰すぎるだけだよ」
「是非とも実を伴わせるよう努力してください」
「冥王にか」
伴っちゃいけないやつじゃねえか。
「『冥』じゃなく『王』にです」
「どっちでも勘弁してくれ……あ、この薪腐ってら」
どうりで無駄にスカスカだと思った。
……ともかく、どちらにしてもミリアムの言うことに素直に従えはしない。
いわゆる死者の王であるところの「冥王」というような、恐怖を撒き散らし、死を貪るような存在になるのは当然、御免被る。元よりミリアムもそういうつもりは無いのだろうが。
かと言って王様というのも、やっぱり無理だ。俺は生来からの庶民で、人の上に立つなんて到底向いてない。前例はあるのだろうが、その筆頭のはずのどこぞの羊飼いが王に足るカリスマを持っているのがおかしいだけだ。
「で、リョーマ様……ああ、くそっ、まだ漏ってる」
いつになく汚い口調で、呼びかけを中断するミリアム。普段の口調は余所行き――というか、ある程度作ったものだということが窺い知れる。
あくまでこちらが素なのだろう。もしかすると、本来のミリアムは割と乱暴な方なのかもしれない。言葉の端々から感じられる人間への敵意も含めて。
「ミリアム、そっち押さえててくれないか」
「了解です。……しかし、凄まじい雨量ですね」
「うん……」
これだけの雨というのも久しく見ていない。日本でもゲリラ豪雨というものはあったが、生憎と……あるいは幸いにも、俺はそういう雨に遭遇したことは無かった。
実際に遭遇した人に曰く、川が溢れ、ダムが決壊するほどの雨量だったらしい。土砂崩れが起きて被害を受けた人もいると聞く。
となると……あるいは、もしかすると。
「……裏手の山崩れたりしないかな」
「崩れるかもしれませんね……死ぬことは無いでしょうけど」
互いに不安を隠しきれず、思わず顔を見合わせる。
魔族の身体的スペックは、まあ、高い。金槌で指を叩いた程度では腫れさえしないし、崖から滑落したくらいなら擦り傷もできない。土砂崩れに巻き込まれても、まあ「痛い」程度で済むだろう。そんな魔族を全滅させるとか何なの代行者。
……しかし、家屋はそうもいかない。特にこの元廃屋は、多少手を加えたとはいえ未だに廃屋の域を出ないほどボロボロだ。風が吹けば壁板は軋みを上げるし、ともすれば屋根さえ吹き飛ばされてしまいそうだ。割れたガラス窓は板切れで補強はしたが、所詮板切れでしかない。
何より問題なのが……アンナやハンスさんの厚意を無駄にしてしまうことだ。
自然現象だからそれもしょうがないとはいえ、二万ルプスとこの家を手放すのはあまりにも辛いし、後ろめたい。
「……堰き止められるかなぁ」
「魔法を使えるようになれば、まあ」
「こう……無いかな。全力でパンチしたら土砂が全部吹き飛ぶとか」
「…………でき……るかもしれませんけど、魔法で身体強化することが前提になると思いますよ、そんなの……」
それでもできるあたりすごいな魔法。
ある程度万能性があることは確かだとは思うが、治水や土石流の堰き止めまでできるのはやりすぎではないか。
いや――そもそも俺の想像力が不足しているだけで、それだけのことができるのがそもそも標準な可能性はあるが。
やりすぎだと思う、魔法。
……その魔法を扱う魔族を根絶させたあたり、更におかしいとも思う。代行者。
「……ん?」
不意に、山頂から音が聞こえてきた。
強化された聴力の賜物だろうか。その音は、普通聞こえるはずもないような小さな音だったが――しかし、その正体に思い至るのはひどく、簡単なことで。
「……ミリアム」
「……はい」
「これ、山崩れてない?」
「はい」
人は諦念の境地に至ると笑いが出てしまうものらしい。俺たち人間じゃないけど。
互いに言葉を交わすことなく、すっと立ち上がる。俺は懐に仕舞い込んだ金を、ミリアムはこの場所に残されていた各種の工具を確認する。
「逃げよう!」
「ハッ!」
言うが早いか、俺とミリアムは扉を押し開いて外へ飛び出した。
……のだが。外に飛び出したその瞬間、俺たちの目に飛び込んできたのは想定とまるで異なる光景だった。
「……あれ?」
雨に遮られて詳しくは見えないが――崩れてない。
少なくとも、「こちら側」ではない。多分、旧冥王領の方だ
「……なんか拍子抜けしたな」
「まったくですね」
ふ、とミリアムは涼やかな表情をして見せた。
やたらめったら打ち付ける雨に濡れているせいで、雰囲気は微塵も感じられないが。
両手に鍬や鍬を山ほど抱えているせいもあって、もはやただの農民とすら思える。
俺もそうだが。
「戻るか」
「戻りましょう」
互いに、適当な場所に荷物を置いて廃屋へ戻る。
魔法が天災さえ押しとどめる力を持つならやはり、習得は急務だ。
この廃屋に長く留まるなら尚更――せめて、このくらいの雨風を凌げるくらいの魔法が使えるようにはなりたい。なら、まずは斧を出せるようにしなくては。
「ところで、あの斧って他に名前とか通称とか無いのか?」
「無いですよ」
「えー」
もうちょっとこう、エクスカリバーとかグングニールとか、そういうカッコいい名前があった方が呼びやすかった。「斧」だけだと他のものと被って困る。だからと言って冥斧というのも、くだらない駄洒落すぎて使いづらい。
しかし、元の世界の神話とか伝説の武器とか、洗いざらい探しても斧の伝承とかあるのだろうか。
無い気がする。何せ斧だし。
「じゃあ…………オノ助…」
「うっわ」
ふとした呟きにドン引きして応えるミリアム。
何だ。そんなに嫌か。俺だって嫌だよこんな情緒もクソも無い名前。
「何だよ、じゃあカリゴランテとかカッシウスとか名付ければいいのか!」
「万倍マシじゃないですか!!」
どっちもどこかで見た神話やら寓話やらから取った名前だし、安直だし、だいいち、18にもなってこの、いわゆる厨二風なネーミングは絶対に笑われる。
……いや、笑いに来るような知り合いなんていないし、そもそも剣も魔法も存在する世界なのだから何も問題は無いだろうけど。
いいのか。一線越えていいのか俺。
「じゃあカリゴランテと名付けよう」
「…………」
「何か言いたいことがあるなら言ってくれ」
「武器に名前って……フッ」
鼻で笑われた。
言いたい事あるなら言ってくれなんて言わなきゃよかった。