河原の葛藤
――――釣りはいい。
のんびりと、川のせせらぎに耳をかたむけて、ただ糸と針を垂らす。それだけの静かな時間を満喫するというのは、ある種の贅沢だと思う。
入院して二週間前後と、入院する前の騒動のせいで数日ほど――ざっと三週間前後、魚釣りに没頭などできていなかった。
それもこれも、事情を考えると仕方ないことだと思うが。
ともあれ、現状の俺たちは新たな問題に直面している――というわけでもなく、元からある食糧問題を何とか解決するべく、各々に与えられた役割をこなしている最中――ではあるのだが。
「………………」
「………………」
弓の弦が風を切る。
ひゅん、と。僅かに高い音が、川辺に響いた。
俺は今、別に一人で釣りに興じているわけじゃあない。
それもそれで嫌いじゃないが、そんな時間があるならもっと別な――もっと抜本的に食料事情が改善できる方法を探すのが筋だろうし、俺も実際それを目指すつもりだった。
ただ――川釣りに行こうと誘われた以上、付き合うのもまた筋だろう。
しかし、その誘いに来た張本人であるアンナが、飽きて弓を弄り始めている辺り、もうご察しという話ではあるが。
「お前何しに来たんだよ」
「だって釣れないし……」
「待たなきゃ釣れるものも釣れないだろ!」
釣りにおいて重要なのは、とにかく「待つ」ことだ。
魚が食いつくことを――あるいはその後、ちゃんと針にかかることを。
川の清流に身を任せ同化するような心地で待ち続けることで、ようやく釣果が得られる……釣りとはそういうものだ、と俺は思う。
不意に、俺の釣り竿の先――針の前を魚が横切った。
それにタイミングを合わせ、そのエラに狙いを定めるようにして――――。
「っし!」
釣り竿を引き、その身に釣り針をひっかけるようにして、岸辺に打ち上げる。
可能な限り俺の手元に来るように調整してはいるものの、調整が難しいしあらぬ方向にすっ飛んでいくこともある。やはり、他の漁法の方がやりやすいか。
「ちょっと待って!?」
「何だよ」
と、言っているうちに通りかかった魚をめがけて釣り針を飛ばし、その背に刺すことでもう一匹を捕まえる。
「その釣り方どう考えてもおかしいよ!?」
「……できるんだからやる分には構わないだろ」
「やっちゃダメとは言ってないし、そうじゃなくって!」
「お、おう……」
いや。分かってる。
俺だってそのくらいのことは分かっているのだ。流石に元の世界でもそうしていたというわけじゃないし、今だってこれでいいのかと思っている。
けど、俺は「虫の王」アドルトナントの上司というか上役というか――でもあるわけで。
釣りの餌といえば、有名なのはゴカイやイソメ、ミミズなどだ。大雑把に分類すると、みんな虫というカテゴリになってくるだろう。
じゃあ、釣り餌とするためとはいえ、安易に虫を捕まえて犠牲にしていいのかという疑問もあるわけで。
結果がこの頭のおかしな釣り方である。
「どうやったの今の」
「どう……って。こう、魚が通りかかったら、そこ狙って引くんだよ」
「ふーん……」
と、アンナは見様見真似で川に針を放り込み、そのまま腕のスナップを利かせて針を手元に戻した。
釣れた。
「頭おかしいんじゃねえの!?」
「こっちのセリフだよ!」
いや――しかし、これ。どう考えても普通の人間にできちゃいけないやつだろう。
俺はまだいいんだ。魔族だし。けど何でアンナは初見でできちゃってるんだこいつ。
猟師とかの類の人種はこういうことができて標準だとでもいうのだろうか。
「俺だって練習してようやくできたのに初めてやって成功してんじゃねえよ!」
「こんな馬鹿なこと練習してたの!?」
「練習しなきゃこんな馬鹿なことできるわけないだろ!」
「自分で馬鹿なことって分かってるの!?」
その必要があったからするだけであって、そうでなきゃするわけもなし。
料理や掃除と同じことだ。それをやってくれる人がいなければ、自分でなんとかするしかないというような。
リースベットが俺の旗下に入って以降、できるだけ虫を殺さないようにと日常から気を配っていたのだ。このくらいできないと今後が危ぶまれる。
「俺だってこんなことしなくても食ってけるようになりたいんだよ……」
「な、なんかごめんね……?」
釈然としないような様子で謝るアンナ。
そりゃあ釈然とはしないだろう。俺だってこんな説明されても何が何やら分からない。雰囲気でなんとなく謝るかもしれないが。
それはそれとしてその一方で、俺は釣り上げた川魚に一つ一つ魔法を使って冷凍処理を施していた。
「……ところで、何でそれ、凍らせてるの?」
「中の寄生虫を処理してるんだよ。焼いてもいいけど、凍らせた方が確実だからな」
例えば今釣り上げたマス。これは刺身にして食べても美味しい魚だが、何の処理もしないまま食べると、十中八九寄生虫にやられてしまうだろう。
川魚も、汽水域の魚も、遡上してくる魚も――もっと言えば海の魚でさえ、普通は寄生虫がついているものだ。これを処理するためにはほとんどの場合、冷凍するか、熱を通すかの二択となる。
魔族の体なら大丈夫なのかもしれないが、逆に体内の魔力のせいで何か突然変異を起こしてしまうかもしれないし、十分注意するに越したことは無いだろう。
「焼けばいいんじゃないの?」
「生で食べたい時もあるからな、俺」
「うえぇ。生ぁ……?」
「何だよ。嫌いなのか?」
「好きな人の方が少ないんじゃないの?」
やっぱり日本人特有の考え方なのだろうか。寿司も刺身も。
アーサイズ自体、西洋風の文化圏と言えるし……熱を通して食べるのが普通か。
思えば、元々獣だったネリーやアンブロシウス、リースベットには特に問題なく受け入れられているが、レーネにはだいぶ抵抗があったように思う。
でも、手ごろというか調理が簡単だということについては間違いない。切るだけでいいのだから。
……しかし、ミリアムに関しては、こちらの世界で生まれ育ったというのに生魚に抵抗が無いというのも不思議な話だ。必要に迫られて生食をしたことがあるのかもしれない。
「それよりさ、ここで焼いて食べない? ほら、ちょちょっと火でも起こして、ね?」
「馬鹿言え。塩も無いのに美味く作れるかっての」
「あたし持ってるよ!」
「何でだよ!?」
得意げに瓶詰の塩――というか、見たところ、香草を調合したマジックソルトというか――を掲げるアンナ。
もしやこいつ、釣りに行くと言ったのはこのためだったりするのか……!?
「あはは。あたしいつでもこれ持ち歩いてるんだよね。獲れたらすぐ食べられるし」
「肉って熟成させないと美味くないんじゃないってお前が言ってたんじゃなかったっけか……?」
「内臓とか……こっそり、その、ね?」
「ね? じゃねえよつまみ食いするもんじゃねえよモツはよぅ」
「そうかな?」
否応なしに、初めて会った時のことが思い起こされる。
思えばあの時、初めて生で「内臓」というものを見たような気がする。元の世界で考えると、それを目にするときは既に「食肉」であり、生きた「生物」としての色を感じられなかったからだ。
ただ、しかし……それをあまり良い思い出じゃなかったとだけ認識して先に繋げないのは、色々と間違っているだろう。
「……俺もそれ、覚えられるかな」
「できるんじゃない? リョーマ、そんなに不器用な方じゃないし」
自給自足をするということになると、どうしても誰かが肉を捌く必要がある。
他の……例えばアンブロシウスやオスヴァルトなら、顔色も変えずにやってのけるんだろうが……ミリアムのあの様子を見るに、殺生はできてもその先まではできないだろう。となると、俺が肉の捌き方を覚えておくのは決して悪い判断じゃないはずだ。
「練習しなきゃできないだろうけどね。ま、そこは経験と場数だよねっ。そうそう、あたしもそんな感じで教えてもらってね――――」
得意満面でぺらぺらと自分の経験を語り出すアンナ。そんなことより早く教えてくれ――と、その表情を見てなお言い出すようなことは流石にできず、俺はじっと愛想笑いを浮かべながら周囲の風景を観察していた。
と。
そんな折に、しゃべり続けるアンナの後ろの方……数十メートルほど先に、異様なものを見た。
音を立ててヘシ折れる木々の枝。刻々と移動し続ける音。そして――四本腕の、巨大な熊。
――――の、死体を運ぶネリーとアンブロシウスである。
「な――――」
「どしたの?」
思わず叫びかける口を押し留める。それでも俺の様子に何かただならぬものを感じたのだろう。アンナは一つ小首を傾げ、俺の方へと近寄ってきた。
しめた、と思うと同時にマズい、とも思う。あの瞬間に振り向かれたら本当に詰んでいたも同然だが、今はまだ背後に意識が行っていない。
枝が折れる音にしても、まだ俺にしか聞こえていないらしい。
旧冥王領にタスクベアを狩りに行ってきた帰りだろう。だが、間の悪い時に……!
――――どうする!?
流石にアンナの気を惹こうにも、生半可なことではどうにもなりそうにない。
ネリーかアンブロシウスが俺たちのことに気付いてくれるならいいが……それにしたって、いつになることか。
早急に手を打つ必要がある。だが……。
「む、向こう岸に猪が!」
「そんな馬鹿なことあるわけないでしょ」
呆れて溜息をつくアンナ。しかし、その目線は僅かに向こう岸に向けられていた。
このまま押し切れば……!
「いや、本当だって! ほら、あっち―――」
「あ、ちょ……」
やや強引に肩を寄せる――その最中。
引き寄せる腕の力のせいか、アンナが俺の行動を想像もしていなかったせいか。
体勢が崩れ、気付けば俺はアンナを押し倒すような恰好になっていた。
「…………――――」
「…………りょ、リョーマ?」
……あれ。何だコレ。
この状況――何だろう。あれだな。気を惹こうとして適当なことを言った挙句、劣情に駆られて押し倒してしまった、みたいな状況だな?
あれええええええええええええ!?
「うおおおおおおおおおおおおおおおッ!?」
「リョーマぁぁ――――――!?」
直後、俺は川の中に頭から飛び込んでいた。
ダメだ。頭を冷やさなければダメだ。だからと言って魔法まで使う気は無いが、とにかくダメだ。
「違う!! 違う違う!! これは違うんだ!!」
「お、落ち着いてよ!? 何かあったんだよね! 急いでたんでしょ!? じゃあ、うん、仕方ないよ、うん!」
……俺は一体何をしているのだろう。
というか、何を言わせているのだろう。いらぬ気を遣わせてしまった。
最悪だ。
本当に――良くない。
「……違う゛ん゛だあ゛がごぼぼぼぼぼ……」
「リョーマ!? リョーマぁぁ!?」
その後。
情けなさに敗北し、そのまま川の底に沈みこんでいきそうになったところを引き上げられ、そんなことをさせてしまったことによる情けなさでまた沈み――というループを繰り返し、そもそもネリー達が通りかかったことも忘れかけ。
気付けば、何事も無かったかのように――しかし、その日中俺とアンナとの間に微妙な距離感が生まれたまま――時間は過ぎて行った。




