帰路の狼
その後。なんとかエフェリネを宥めることに成功した俺たちは、マルティナさんに連れられていく彼女を見送ってから、本来の目的に戻った。
……つまりは、ただ街をブラブラしに行くだけだが。
適当に買い食いしたり、調味料を購入したり――その程度のことだけで、気付けば乗り合いの魔石車が出発する時間になっていた。
「くー…………」
帰路について、十分ほど。
一定の間隔で揺れ動く車の振動のせいだろうか。それとも、街を練り歩いたおかげで体力が尽きたのか。乗車して早々に舟をこぎ始めたアンナは、走り出してしばらくするともう俺に体重を預けたまま、眠ってしまっていた。
普段から山を走り回っていて身も引き締まっているはずだが、特に重い――ということは感じない。むしろ、柔らかくて心地の良いような……。
(……いや、ダメだろ)
……こんなこと考えてるからミリアムからムッツリだのなんだのと言われるんだ。
恋愛感情の機微の一つも分からないというのに、性欲だけは人一倍だなんて最悪だろう。
まして、相手は恩人のアンナだぞ。悪辣もいいところだ。クズだ何だと蔑まれても否定できな――――。
「――――」
「…………!?」
――――ミリアムのやつ、車に乗ってやがる……!
いや、怪しまれないようにするには乗り合いの車に乗って帰るのが一番いいのは確かだ。だからって、俺たちに何も言わずに乗っているのはいかがなものか。気付かれないようにするにしても、じゃあ何でこっちを凝視しているんだ。
俺にそういうつもりは無い……!
「……ん」
不意に、窓から見える外の暗がりに、「何か」が見えた。
暗闇の中にあって、淡く光り輝くもの。そのシルエットには俺にもどこか見覚えがあって――――。
(……犬?)
いや。少し違う。頭の大きさ、眼光の鋭さ……そういった点から鑑みるに……狼と表現するのが正しいだろう。
前に、オスヴァルトから聞いた覚えがある。精霊の最高位階である「光」の精霊、その眷属である「輝く狼」……。
「ッ……!?」
目が、合った。
その眼光は、確と俺を捉えていた。
――――半ば、本能的に「死」を連想する。
ただの獣ならば、そうはならなかっただろう。しかし、それは欠片とはいえ「精霊」だ。その眷属だ。
その機さえ来れば、奴はそういうものとして、一切の躊躇なく俺の喉笛を食い破るだろう。奴にはそれができる。それだけの力がある。そして――そうするだけの理由がある。
「…………」
身震いしかける体を抑え込む。
体を預けているアンナに、俺の恐怖が伝わるわけにはいかない。俺の様子を訝しんでいるミリアムに、不安を抱かせるわけにはいかない。
その目的は果たして偵察か、警告か――その意志を示すことも、言葉を発することもない。
次第に、風景が流れていくにつれて狼の姿も見えなくなっていく。
「精霊――――」
無意識に、呟きが漏れた。
精霊。人間に力を与えていて……魔族を敵視し、その根絶を目論む存在。
奴らに、果たしてヒトと同じような意思が備わっているのだろうか? もしそうだとして、何故彼らはそれを目指すのだろうか?
人間が魔族を排斥する理由には推測もつく。だが、奴らにそのような「理由」があるように思えない。
……ならば、と考えを捻ってみても、答えには一向に辿り着く気がしない。
彼らに感情があり、人格があるのなら――分かりあうということは、できないのだろうか?
* * *
そんなこんなで一時間ほど。熟睡したアンナを自宅に送り届けた後に、俺とミリアムは廃屋の前に到着していた。
およそ、二週間ぶりの自宅である。勿論、帰ってこれたのは嬉しいし、これからやるべきことも山積みなのだが……。
「どうしたんですか?」
扉の前で立ち止まったままの俺に、ミリアムが問いかける。
ドアノブに手をかけたまま、しかしそのまま動かないことにいら立っている……というわけでもなく、俺の行動が純粋に不思議だとでも言いたげだ。
「……俺、忘れられてないかな」
「はぁ?」
何せ二週間だ。レーネとオスヴァルトはそれよりも長い付き合いがあるが、ネリーは一週間と少し。リースベットとアンブロシウスに至っては出会ったその日に即入院だ。それから二週間ともなれば、忘れられても仕方ないくらいではないだろうか。
ミリアムは呆れて顔をしかめているが、どうしてもそんな不安が頭から離れない。
これもまた考えすぎだと言われれば否定のしようもないが、だからって考慮に値しないわけじゃないし……。
「馬鹿なこと言ってないで、ただいまの挨拶くらいしてください」
「お、おう……うん……」
ゆっくりと、こっそりとドアノブを回していく。
錆びた蝶番が軋み、金属の擦れ合う特有の高音が耳に刺さる。
そして、僅かに開いた扉の隙間から、中の様子を窺い知ろうと顔を近づけていく――――。
「はよ開けなさい」
「あだっ!?」
と、その瞬間。しびれを切らしたミリアムが、俺の尻を軽く小突いた。
思わず、勢いのままに扉を開き、顔面から小屋の中へと飛び込んでいってしまう。
その結果どうなるかなど、想像するまでもないことであって……。
「あ」
「あっ」
「うっ」
当然に、と言うべきだろうか。
レーネとネリーの二人が、ひどく驚いた様子で、こちらを凝視していた。
数秒ほど、沈黙が訪れる。
はて、俺はなんと言ってやればいいのだろう。二人とも、元気にしていたか……なんて言えばいいだろうか。
それとも、おどけて「ははは、待ってたか?」なんてことを言うくらいの方が、気負ったりしないで済むか? それはそれで何だか空気読めてないようで嫌だな。
いや、でも、しかし……。
そうして思考を巡らせすぎて行動に出られない俺に――しかし、二人の行動は早かった。
「リョーマさまぁぁぁ!!」
「あ゛るじぃぃ!!」
即座に飛び掛かってくる二人。その体は、小さな女の子のものだとは言っても人間二人分の質量がある。それに、曲がりなりにもレーネもネリーも魔族であることには変わりない。瞬発力は人間のそれと比較にならないほどで、タックルでもしようものならその威力は岩壁に風穴を開けるほどでもある。
――――つまりは、俺はそのままそんな脅威を受け止める格好になるわけで。
「どわあああああああっ!?」
案の定、押し倒されるようなかたちで、俺の体は後ろに向かって倒れ込むこととなった。
そのまま、したたかに頭を打ち付ける。ゴヅッ……という、鈍い音が周囲に響いた。
「わあああああっ!? だ、大丈夫ですかリョーマさま!? あ、あ、ネリーちゃん!? そんなにいきおいよく行くから!」
「お、オレ!? レーネだっていっしょに突っ込んだじゃないか!? あるじ、あるじ、しっかりしろ!」
「……大丈夫だよ。何ともない」
……別に、痛みがあるわけじゃない。俺の体だって、この程度のことでどうにかなるものでもないんだ。
ちょっと驚きはしたが、その程度のこと。何も心配はないということを告げるように、二人に笑いかける。
「ちょっと驚いたけどさ。……今帰ったよ、二人とも」
――――自然と、二人の頭を撫でていた。
意識してそうしようと思ったわけじゃない。本当に無意識のうちに撫でていた。
(――――ハッ!?)
何だか妙にミリアムが生温い視線を送ってくることを悟り、自分の行動に改めて気付く。
何をしているんだ俺は!? 前にもあっただろう、こういうことは……! いくら子供だとは言っても、女の子に気安く触れるようなヤツがあるか!
あの時は自制できていたというのに、何で今になってやらかすんだ俺! 嫌われても何も文句言えないぞ――――!
「おかえりなさい、リョーマさま!」
「おかえりあるじ。待ってたぞ」
――――という俺の考えとは裏腹に、二人の表情は、安堵と喜色に彩られていた。
……あれ? おかしくねえ? 年頃の女の子ってもうちょっと嫌がるものじゃないか?
髪は女の命とも言うわけだし、もうちょっとこう……警戒したりした方がいいんじゃないのか?
困惑している俺に、しかしミリアムからは鋭い視線も、批難するような言葉も飛んでこない。
……俺の行動、ミリアムから見れば正解なのか?
「な、なあ。ミリアム……」
「なんだかんだと言っても、二人とも子供ですよ」
「……子供」
子供――か。
思えば、自分はそういうことをずっと我慢していたから、他人がそういう……子供らしい応対を求めているかもしれないということを、考慮していなかったかもしれない。
それは彼女らにとって辛いことである以上に――俺の過去に、俺自身が拘泥しきっているような気がした。
今後は、もうちょっと改めよう。
「ただいま」
そう誓うと共に、一人、誰に言うでもなく呟く。
これで――これでようやく、本当に帰ってくることができた、ような気がした。




