クラインの村
例の廃屋から徒歩で十分ほど。周囲を森に囲まれた、恐らくは森林を切り拓いて作ったのだろう平地に、その村はあった。
アンナに曰く、クラインの村。人口もそれほど多くはない、統治機構さえ存在しない――小さな、小さな村だ。
昨日の一件の後、俺とミリアムは一晩をかけて廃屋を掃除し、なんとかかんとか住まうことのできる程度の状態にまで整えていた。
俺たちを見かねたのだろう。アンナは何度か廃屋を訪れ、その度に食料を差し入れてくれていた。大変に助かったものだが、その恩に報いるべく何かしらの礼をしたい――と申し出たところ、アンナも住まうクラインの村での作業について提案を受けた。
今日は、その作業を手伝うべくクラインの村へ向かっていた、のだが――――。
「リョーマちゃん、パンはいかが?」
「あ、お、お構いなく……」
「じゃあ、お茶はどうかしら? 冷たい方がいい? あったかいほうがいい?」
「遠慮はいらんぞ、リョーマ君」
――――俺は、レッツェル家で盛大な歓待を受けていた。
アンナの祖母、フリーダさんは先程からしきりに食べ物を勧めてくるし、祖父のハンスさんはニコニコと笑みを絶やさずこちらに接してくれる。
アンナは、困ったような表情で固まっていた。血縁がしきりに他人に世話を焼くというのは、どうも気恥ずかしいもの、らしい。ロクに家族との交流が持てなかった俺には、よく分からない話だが。
「おばあちゃん、リョーマもういいって言ってるじゃん!」
「あ、いや……お茶は、いただくよ。フリーダさん、冷たい方のお茶、いただけますか?」
「いいわよぉ。ちょっと待っててちょうだいねぇ」
ぱたぱたと台所へ引っ込んでいくフリーダさん。
こうまで言ってくれているのに断り続けるのも逆に失礼だろう。流石に、食べ物をいただくというところに至ると少し重く感じてしまうが……まあ、飲み物くらいなら構うまい。
さて、とハンスさんの方へと向き直る。
アンナと同じく、活発そうな印象を与える笑顔を見せる老人だった。白髪交じりの頭髪は、60過ぎと聞くハンスさんの年齢を感じさせないほどふさふさと生い茂っている。
「それで……ハンスさん。先日はお孫さんに大変お世話になりました」
「いやいや。助けを求める人がいたら、助ける。当然のことを当然にやったまで」
「その『当然』ができない人だって、大勢いますから。……今日は、そのお礼ということで参ったんですけど」
本題を切り出す。
このクラインの村は小さい。小さいが、酒場や商店が存在しているあたり、経済活動はちゃんと行われているらしい。
少なくとも、物々交換によって住人の生活が賄われている――ということは無いはずだ。
ミリアムに聞いたところ、この世界ではルプスという通貨が流通している。価値としては、恐らくは日本円の十分の一程度。例えば大根なら一本当たり千ルプス程度が必要となる。
このルプスと言う通貨には硬貨は存在せず、紙幣のみが存在する。貨幣として存在しているのは一ルプス、十ルプス、百ルプス、千ルプス、五千ルプス、一万ルプス、五万ルプス、十万ルプス、五十万ルプス、百万ルプスの十種類。当然ながら、買い物の際には莫大な量の紙幣を持っていく必要があるようだが、財布もこちらの基準で作られているため、不便は無いようだ。
問題は、このルプスを稼ぐ方法が今のところ存在しないこと。いや、「俺には」存在しない、と言うべきか。
アンナは猟師だ。獣を狩って肉を得るのは、自分の食事のためであり、あるいは街に卸して、金を得るためでもある。外を見れば、広い畑があった。今は三人で暮らしているらしきレッツェル家の食生活を賄うには充分に過ぎる。つまり、こちらも必要十分以外は卸すためのものだ。
なら、少なからず金はある――――無ければおかしい。
「不躾ながら、お願いがあります」
「ふぅむ。孫をくれと言うなら考えにゃならんが」
「おじいちゃん」
アンナがハンスさんを肘で小突く。当然、そういう話ではない。
「アンナさんにお話は聞きました。野良作業で難儀しているとかで……」
「まあ、爺と婆の二人だからしょうがないものよ。ホレこの通り、孫も山を駆け回っておるしの」
アンナが目を逸らす。祖父と祖母を放っておいて、というあたりは、やはりアンナも思うところはあるのだろうか。あるのだろうな、この様子からすると。
「ですので、しばらく俺……自分に、お手伝いをさせていただけないものか、と」
「ふむ」
「できれば、長期」
畑仕事をしているというなら、都合はいい。
俺には植物の栽培のノウハウというものが無い。もやしや豆苗なら育てたことはあるが、家庭での栽培などたかが知れている。
今後家に他の魔族が増えていくとするなら、家庭菜園レベルのものでは賄えない。最低でも土の弄り方くらいは覚えて帰らなければ。
「おじいちゃん……ちょっと」
と、アンナはハンスさんへと何やら耳打ちを始めた。
見る間にハンスさんの顔が曇っていく。何を言っているんだお前。
「……お小遣い、要るかい」
「アンナァ!」
余計なことを言ってくれやがってこいつ!
そりゃあ、ある意味助かるが!
「しょうがないじゃん、実際困ってるじゃんリョーマたち! 食べ物とかお金とか、それどころか家すら無かったじゃない!」
「だからって言うなよ! 迷惑かかるだろ!?」
「若いモンがそういうことを気にするもんじゃあないぞ」
「………………」
気にかけてくれるのはありがたいのだが、それはそれで催促したようでひどく申し訳が立たない。
ハンスさんも完全に善意で申し出てくれている、からこそ後ろめたさが先に立つ。
「すみません、よろしくお願いします」
しかし、折れる以外に道は無かった。
ハンスさんはどうも善良な性質のようだ。先のアンナへの教えを聞けばなんとなしには理解できるが、実際に実践できる人間などそうはいまい。なら、その厚意を無碍にするのはいかがなものだろうか。
貧困から逃れたいという思いも、勿論ある。私欲で厚意に甘えるのは、あまりに卑怯な気がしたが。
――いずれこの恩は、何らかの形で返させてもらおう。
「婆さんと二人じゃあ、手広だったからのう。畑仕事を手伝ってもらってもいいかい?」
「はい。是非」
差し出された大きな手を握り返す。快活な笑みの輝きが、一層増したような気がした。
「はい、どうぞ」
そうした折に、フリーダさんがお茶を運んでくる。
良いタイミングだ、とばかりに、ハンスさんはそれを勢いよく飲み干した。
「リョーマ君が飲み終わったら行くとしよう。アンナ、手袋と鍬でも出して来といてくれ」
「ん」
と、運ばれて来たお茶に口をつけたばかりの俺を尻目に、ハンスさんはアンナに指示を飛ばしていた。
……こう、人を待たせるのは主義じゃないんだが。ここは俺も一気にお茶を飲み干して、手伝いに向かった方が良いのだろうか。しかし、この世界でいうお茶がどのようなものかを知りたい気持ちもあるし。
懊悩としながら、俺はお茶を胃に流し込むペースを速めていく。
どことなく、中国茶に似た味だった。
* * *
それから、数分後。ハンスさんから軽く説明を受けた後、俺は畑で草むしりに従事していた。
「………………」
照りつける陽光に耐え、流れ出る汗を拭いながら、広い畑の中で目についた雑草をひたすらに抜いて袋に放り込む。ひたすらに地味で、単調な作業だ。
ハンスさんも長年の畑仕事で鍛え上げられてはいるが、既に六十歳を超えるご老体だ。長時間の作業は体に障る、と思う。こちらの世界の人間の性能の基準がいまいち分からないから、判断のしようもないが。
とはいえ、考えに耽るには、単純な作業中の方が都合は良い。
昨日は例の廃屋を清掃して、寝られるだけの体裁は一応整えた。問題はこれ、血痕を古井戸の水で洗い流しただけで寝具や家具が全く無い。その上木造建築だったおかげで、アンナが長年かけて染みつけてきた獣の血液が特有の嫌な臭いを放っていた。その上、床で直接眠らなければならないから、臭いのせいでひどく寝苦しい。地べたで直接眠っていた頃よりマシだが、これはこれで精神的に疲弊してしまう。
「……床板だな」
カタバミに似た三つ葉を引き抜き、ポケットに収める。
先の三日間の経験上、この類の草は食用になったはずだ。有毒な野草も存在していたが、この三日で耐性と抗体は得た。得ちゃいけない気もするが。
ともかく床板だ。ノコギリを借りて山の木を伐りだせば張り替えは、できる……かもしれない。元の床板に使用されていた釘を流用……できるだろうか。引き抜く時に折れるかもしれない。だいいち、槌が無いのに釘が打てるだろうか。魔族なら腕力でなんとかなるか。
一応、ハンスさんとは日毎に給金をいただくということで話はついた。今日の給金でどれだけのものが買えるやら分からないが、最低限の大工用品くらいは欲しい。
「床板がどうしたって?」
「あ、いえ」
独り言が聞こえてしまったのだろう、キャベツの軸を切りながらハンスさんが尋ねてくる。
というかあれは本当にキャベツだろうか。元の世界のものより幾分か紫の色が強い気もするが……こちらでは紫キャベツの方がポピュラーなのだろうか。
「………………」
問題は床だけではない。食料の安定した供給というところに関しても……今だけではない、恒常的な課題だ。
廃屋の周辺は基本的に樹林に囲まれているが、玄関口から数メートル程度は拓けた庭のようになっている。床板を作るついでにもう少し森を切り拓けば、数人程度の食料を賄うための畑くらいは作れるかもしれない。
植物の栽培のためには、種や、大元の元になる苗が必要になる。これも、いずれは購入するかどこかで手に入れなければならない。
可能ならハンスさんに譲ってもらうのが一番だが……それは流石に求めすぎか。
雑草を引く。引く。たまにポケットにねじ込む。その度に問題が思い浮かぶ。
しかし、その殆どに解決の糸口を示してくれるあたり、アンナは本当に……なんというか、気が利く、というか、お人よしというか。同情してくれたのだろうとは理解しているが、その気持ちを利用しているようで後ろめたい気持ちがある。実際騙しているようなものだが。
だからこそ、何とかして報いなければならない――と考えると、問題も課題も山ほど、か。
一つ一つ解決していかなければならない。
食糧問題の解決。
魔族の数を増やす。
住居を改善する。
魔族の存在を人間へ周知する。
人間との衝突を回避するための折衝。
政治的問題の解決。
魔法も習得したい。
困難も跳ね除けられるだけの能力も欲しい。
……それから、アンナへの恩返し。
列挙すれば枚挙に暇はない。アンナへの恩返しは、全体を見れば優先順位は低い方だが……個人としては、できるだけ早くという思いがある。
それに、一口に恩返しだと言ってもその方法は多岐に渡る。金を返す、行動でもって返す、ものを贈って返す……いくらでも思い浮かぶものだが、どれもこれも陳腐な感はある。
しかし――と。思考の渦にハマりかけた頃になって、一つ気付く。
「……あ」
もう雑草が無い。
今の自分のスペックを計り違えていただろうか。それとも単に考えに耽溺しすぎていたのだろうか。背後に置いてあった袋は、既にこんもりと盛り上がってしまっている。
「あの、ハンスさん。草取り、終わりました」
「え、もうかい」
「……あ、はい……」
自分でも驚きだ。
「…………」
「…………」
互いに、俺の行動が信じられない。
いや……現実に起きているのだから、信じるも何も無いと言えばその通りなのだけれども。
「……収穫、何かお手伝いしますか」
「いや……今日は、いいかなぁ」
……ともかく、そういうことになった。
ハンスさんとしても、今日一日かけて草取りをしてくれればそれでいい、と思っていたのだろう。俺だって、こんな早急に終わるとは思っていなかった。
「じゃあ、あの。また明日……お願いします」
「う、うむ……ああ、リョーマ君」
「あ、はい」
と、ハンスさんは空を指差す。
「そろそろ一雨来そうだからな、気を付けるんだよ」
「あぁ……すみません。どうも、ありがとうございます」
見れば、東の空に僅かに厚く雲がかかっているのが見えた。
考えてみれば、あの廃屋の状態では雨漏りしていてもおかしくはない。
……そちらも、まず修繕することを考えよう。