専門医に判断を
「…………」
入院して五日目――俺の体感では二日目。
異例の大手術に加えて執刀医があの先生だということもあり、体調に関しては不安が大きかったのだが――幸いなことに、と言うべきか。恐るべきことに、と言うべきか。俺も一日寝て過ごしてたおかげか、立ち上がって出歩いても大して問題無いくらいにまで復調していた。
いや――うん。俺自身、こんなペースで治ること自体尋常じゃないことだと理解してはいる。いくら魔族と言えども、これはありえない。そもそも、右腕の怪我だって治ってないのに、それ以外が治りかけてきているなんてこと自体が不自然だ。
その原因は、体内に残留している魔力……もっと言えば精霊術の痕跡を見れば理解に易い。手術の際、先生とその関係者が何らかの意図を持って俺の体を治したということだ。
そもそも、精霊術を用いた治癒というのは、以前にも言われた通り高額な治療費が発生する。「怪我をした」という実感が薄れて危機感を抱かなくなるという弊害が発生することを危ぶんでいたことも併せて、そもそも先生の主導でそれを実行するとは考えづらいが――現実に、大怪我をした数日後にはもう歩けるようになるまで回復した……などというふざけた事態が起きている以上、精霊術を用いた治療も併用したものと考えるしかない。
その事実はともかくとしてだ。現状の問題は――今の俺では、退院が簡単には許されないということだ。
いや、分かる。そうするのが当然だ。俺だってこんな怪我してる重傷者が入院してきたらそう簡単に退院なんて許さない。普通なら絶対安静がいいところだ。ミリアムやアンナも絶対に止めに来るだろう。安静にしておくべき時に動かしてしまったせいで死んだ、なんていうのもよく聞く話だ。
それでもなお、俺は自主退院を画策せずにはいられなかった。
「…………よし」
ちょうど、ミリアムもアンナもいない早朝。俺は病室を抜け出して院内を歩き回っていた。
理由は単純。この病院の看護師か、もしくは医者に直接会って自主退院の申し出をするためだ。
今、俺にはすぐにでもやるべきことがある。というか、やっておかないと安心できないことがある。具体的には、先の事件の後処理だ。
この病院に見舞いに来ることができるのは、今のところミリアムだけだ。とはいえうちの面子を考えると、ミリアムの存在は本当に重要だ。俺の思考の二つは先を読み、適切なフォローをしつつ情報収集をこなし、皆の様子も適宜見てくれている。正直言って頭が上がらない。
だからこそ、あまり俺のことに時間を取ってもらうのは困る。本当に困る。
レーネやリースベット、アンブロシウスはともかくとしても、オスヴァルトとネリーは誰かが見てないと危なっかしくてやってられない。更に言うなら、あの事件の折に術師を倒したことで、その制御下から逃れた獣たちをどうなったかを確認しなければならない。
後者は特に重要だ。もしも、万が一アンブロシウスとネリーが、俺を家に運び込むことに精一杯になって「その後」のことを考えていなかったらと思うと、居ても立ってもいられない。
多分、ミリアムもアンナも俺のことを止めに来るだろう。体調のことを思えばそうするのは当然だとも思う。しかし、俺の管理不行き届きのせいで魔獣が跋扈してクラインの周辺の生態系が変わってしまうとか、場合によっては人的被害が出てしまうことは絶対に避けるべきだろう。ちくしょう。考えるだけで胃と頭が痛くなる。
半ば壁にもたれかかるようにして歩いていく。俺個人としても、あれだけこっぴどくやられた上にこの有様では、しばらく静かに休んでいるべきだという自覚はあるんだが、そうすると金が入ってこなくもなる。他人に頼ることになるにしても、最大限自分にできることをやり遂げてからでないと言い訳の一つもできやしない――――。
「何じゃ坊主こんなところで」
「うえっ!? うおおおお!?」
その瞬間、背後から先生に声をかけられた。
不意のことだったので思わず体が跳ね、激痛で身が捩れる。
何してるんだこの人!? 手術終わったら帰るもんじゃないのかこういう時!?
「何してるんです先生!?」
「ワシの台詞じゃ。こんな朝っぱらから病室抜け出して何をしておる」
「いや、その…………ええと」
思わず、目線が逸れる。
妙に静かな声だった。いや、当たり前かもしれない。病棟では静かにするものだろうし。けれど、以前、治療を受けた時のような剛毅さは、今の先生からは見られない。こっちの方が、もしかすると先生の素だったりするのだろうか。
普段なら、嘘を付くにしてもそれほど問題は無い――というか、嘘を付くだけの理由と、嘘を補強する状況が整っていて、相手に考えさせることで信じてもらう余地を作ることができていた。
しかし今回はそういうわけでもなく、純粋に後ろめたいことをしているのを見られたようなもので……なんとも、言い訳がしづらい。
……こうなると、嘘を言うのは逆効果もいいところだろう。正直に言った方がまだいい。
「……自主退院しようかと」
「馬鹿たれが。いくらなんでも死ぬぞ坊主。ちぃと大人しくしとれ」
「いや、でも……生活費とか……」
一応、そっちも重要だ。今のところ、うちで働くことができるのは俺くらいのものだし、先に挙げた理由もあってあまりミリアムに時間を取ってもらうのも困る。リースベットとアンブロシウスの二人があの家に来たということもあるし……俺がなんとかしないと、割とどうしようもないというのが実情だ。
「坊主、そういう時は大人に頼るもんじゃろうが」
「……はあ。いえ、でも申し訳ないですし……」
「阿呆。ガキがそんな細かいことを気にするモンじゃあなかろうが」
「い、いやでも、俺もう十八ですし……一応、大人の範疇じゃあ……」
「ワシやハンスから見りゃあ十分ガキじゃろ」
そりゃあ、六十をとうに超している先生やハンスさんから見れば、俺なんて孫みたいな年齢だ。
だけど、世間的に見れば十八歳というのは割と大人に見られる年齢でもある。アンナは血縁であるハンスさんやフリーダさんがいるからいいが、俺の場合はどうしたって贔屓目に見てもらえるような境遇じゃないわけで。
……それでも子供扱いしてくれるというのは、多分、ありがたいことなんだと思う。
「気負いすぎなんじゃ坊主は。もうちっと肩の力を抜いた方がええぞ」
「は……はあ」
気負って――いないわけが無いだろうけれど、だからと言って肩の力を抜けと言われても困る。
というかどうやって肩の力を抜いたらいいのだろう。たまに言われていたが、よく分からない。
「それにのう。結局、お前さんが戦ってくれたおかげで、ワシもアンナちゃんもハンスも――村のモンは皆助かった。それなのに坊主には何もしないというんじゃあ、ワシら皆、恩知らずということになってしまうじゃろう」
「い、いや、あれは俺が勝手にやっただけで!」
「ワシらも勝手にやっとるだけじゃ」
人生経験の差からか、どうにも言いくるめられてしまっているように感じる。
俺も俺でなんだか頑なになってしまっているような気もするが、もしかすると俺は理由の無い善意というものに弱い、のだろうか。
耐性が無いから絆されやすいとも言えるし、一方では無意識に疑ってかかってしまう部分が残っているし……俺の辿ってきた道筋が道筋だけに仕方がないのだが。
「もうちっと胸を張ってええんじゃお前さんは」
「……そうでしょうか」
「構わん構わん」
ワハハ、と豪快に笑い飛ばす先生。
さっきからなんだか、初めて会った時の豪快さが見られないことに妙に不安感を覚えていたものだが……なんだか安心した。
前に診療所に行ったとき、俺の秘密を知っているような素振りを見せたことを忘れたわけじゃないが、今の俺にできることなんてたかが知れている。どうしようもないことを気にして縮こまるより、今の自分にできる最大限を考えて、それを超えられるよう努力する方が健全だ。
……なのだが、それはそれとして。
「でも、やっぱり俺、戻らないと」
「戻るな戻るな! 自殺志願者かお前さんは!」
「い、いえ、そうじゃなくって……やり残してることがあるんです」
「ほう?」
「俺が倒した精霊術師は、魔族を復活させようとしていました」
口にするのは、およそ一度も他人に対して告げたことの無い事実だ。
アンナには、俺の怪我の原因はあくまで「一連の騒動の原因の男と戦った」ということだけを……全部が終わった後で告げることになった。それは、無用な混乱を呼ばないためでも――彼女を怖がらせたりしないためでもある。少なからず、魔族という存在は、この世界に生きている人間にとっては恐怖の対象に成り得るからだ。
そんな事実を聞いて、しかし先生の反応はそれほど劇的なものではなかった。眉根を寄せ、顔をしかめる程度のもので――恐れも、混乱も無いように見える。
「最初にそれに気付いたのは、グレートタスクベアなんてバケモノを一方的にどうこうする生物の存在に行き当たった時です。その後、色々あって……」
「ワシのところに来たんじゃったな」
「はい。色々怪我して、結局先生にお世話になりました。その後も事件が続いて……森の動物が、人為的に魔族に近い性質を持たされていることに気付いたんです」
失敗して、動物に負担がかかって暴走したようですが――と付け加えつつ、先生の様子を探る。
先程と何ら変わりない様子だ。平静で、穏やかで……あくまで落ち着いているようにしか見えない。
普通なら取り乱すところだ。そうならないとなると、余程豪胆な人物であるか、何も考えていないだけか……あるいは、何かしらこちらの事情を知っているからという事実が見て取れる。
「あの術師は、動物で魔族化の実験をしていました。ですけど、あいつを倒した後はそのまま病院まで運ばれてて――もしかしたら、実験されていた動物を取り逃がした可能性があるんです」
「なるほどのう、それでか」
「……はい。一度帰って確かめてみないと、気が済まなくて」
言い終わると、先生は軽く考え込むような仕草を取った。
何か、知っているのだろうか。それとも俺が今後どうするべきかの指針について考えてくれているのだろうか。どっちにしても、俺からは「何か考えている」という以外には何も理解できない。
「坊主よぅ。それこそ、全部自分でやるこたあない。身近に頼れるモンもおるじゃろう?」
「……まあ……はい」
「まだ若いんじゃから、もっと頼るとええ。まだ、それが許されとるんじゃからな」
まだ人に頼ることが許されている――か。
意識は……多分、していなかった。というか、ミリアムにもオスヴァルトにも、大概頼っていると思っていた。
実際、人に頼り切りな部分は多々ある。ハンスさんにせよそれ以外の人にせよ、これ以上頼っちゃいけないと、心理的な壁を作っていたことは否めない。あちらにとっても、きっとその方がいいはずだ、と。
けど、もしかしたら俺は自分でできることは自分でやるということに躍起になっていたかもしれない。いや、王という立場を意識しすぎていて、そうしなければという義務感すらあったようにも思う。
ただ、それはハンスさんや先生たちには無理しているようにしか映らなかったのだろう。でなくては、面と向かってこんなことを言われることは無い。
時には、頼られることが嬉しいという人もいる。ある意味、俺はその気持ちを無碍にしていたのかもしれない。
「よくお前さんと一緒におるお嬢ちゃんがおるじゃろう。あの子にも頼めばええんじゃあないか?」
「そう……ですね。少し、話を聞いてみます」
「それでええ。ま、ちィと恥ずかしいかもしれんが、取り返しのつかんことになるよりはよっぽどいいじゃろう」
プライドの問題――というのとも少し違うが、恥を忍んで頼むことで問題が解決するのなら、それに越したことも無い。
当然といえば当然だ。普通なら、そこには真っ先に思い至るべきだったとも思う。そうはならなかったとなると……やっぱり、焦りや強迫観念じみたものがあるのだろう。
「ワシも、頼まれりゃあなんとかしてやるからのう。まずは、何でも言うだけ言ってみい」
「……ありがとうございます」
その言葉に、思わず涙が出そうにもなる。絶対にやってくれるという保障は無いが、だとしても相談に乗ってくれたり、俺よりも遥かに人生経験を積んでいる先生からのアドバイスが貰えるというのは本当にありがたい。
それに、なんとなく――少しだけ、重荷が降りたような気分にもなった。
元の世界でも、話せば楽になるというようなことをたまに聞いた。俺はずっと半信半疑でいたのだが、こうして実際に経験すると納得もいく。
「おう、どうしたんじゃ。そんな妙な顔して」
「あ、いえ……俺、こんな風に人に話聞いてもらったの初めてで」
告げた直後、先生の表情が僅かに曇った。
「……初めてか?」
「ま、まあ。ハンスさんにこんな話しちゃマズそうですし、俺、両親いませんし」
母親はそんなことを考えはじめるより先に家を出て行ったし、父親は俺の相談を聞くような余裕が無かった。教師に話を聞いてもらうこともできたかもしれないが、それよりもバイトを優先しないとまともに生活が送れなかった。アルバイト自体も、運送業をごく短時間という程度で、あまりバイト仲間だとかと話す時間も無かったわけで。
たまの休日は勉強と息抜きのために図書館に入り浸って――パソコンで遊び倒してもいたが――おかげで、他の学生との接点もあまり無かった。
人に頼らなくても大丈夫だなどと己惚れるつもりは無いが、とにかく人と関わりなく生きてきた十八年間だったようにも思う。
「……そうか」
言って、先生は沈痛な面持ちで口を閉じた。
やっぱり、こういうプライベートな事情は人に聞かせるべきじゃあない。俺も俺であまり良い思い出は無いし、聞いた方もこんな風に微妙な反応で応えることになるのだから。
「その頃のことは、どう思っておる?」
「……? なんか、随分突っ込んで聞いてきますね」
「ええから言うてみい」
「はあ。今は別に何とも。当時はそれなりに辛い部分もあったかもしれないですけど、もう過ぎたことなので」
「そうか……」
安堵し、胸を撫で下ろす先生。
先生が何を想ってそんなことを聞いたのかいまいち謎だが、大したことでもないだろう。
「……ま、ワシで良けりゃあ、何でも聞くからのう。何か気になることがあるなら、相談してくれてええぞ」
「すみません。ありがとうございます」
……こうやって言ってくれているのだから、少しくらいはその言葉に甘えて何か相談してみるのもいいだろう。
先生については分からないことがいくつもあるが、ここまで一度も俺に害を為そうとしてはいなかった。勿論、そう思わせておいて後で裏切る――という可能性はあるが、そんな可能性を今論じたところでどうしようもない。
少なくとも、今この場において先生は俺の味方だ。である以上、あまり拒んでいるのも失礼な話だろう。
「じゃあ、差し当たって聞きたいことがあるんですけど」
「何じゃ?」
「食べるために鶏を飼おうと思ったら、普通どのくらいお金が必要になりますかね。あわよくば雄雌両方を購入して殖やしていこうと考えているんですが」
「それをワシに聞くのはやめとくれ」
――――もっとも、流石に聞いてもどうしようもないこともあったりするのだが。
うん、まあ。実際、医者に聞くなという話ではある。




