シグナル
三人称視点。
病院の中庭のベンチに、老人が腰かけている。
エルモライ・レドネフ――クラインの村に駐在する老医師。アンナやリョーマに「先生」と呼ばれるその人である。
豪放な彼にしては珍しく、その表情には憂いが差していた。
「…………」
何をするでもなく、ただ義務的に――作業のように、右手に持つコップの水を口に運ぶ。いずれ訪れるだろう者を待つために。
しかし、レドネフにとってその人物が自分の前に姿を現すことは好ましいことではなかった。可能ならば、顔を合わせたくもないというのが本音だろう。しかし、あの閃光を目にした以上はそういうわけにもいかない。
「…………」
そうして幾何かの時間が過ぎ――音も無く、不意に一人の男が中庭に入り込んだ。
無言のままに、レドネフに背を向けるようにして背後のベンチに腰掛ける。
軽く溜息をつき、レドネフは周囲に気を配りながら男に問いかけた。
「何の用だ?」
「お分かりかと思いますが」
「……ちっ。ならとっとと要件だけ話せィ。ワシも忙しい」
平然と嘘が口から飛び出した。さりとてそれを咎められる者も、見分けられる者もこの場にはいない。
「では手短に。我々は表だってこの国で動くことはできませんが、『信号』が発せられたことだけは情報として掴んでおります」
信号とはつまり、「魔族を発見した」という信号のことを指す。レドネフも理解していた。そしてだからこそ、この場にいなければならなかった。そうでなければ、レドネフ以外の誰かがこの指令を聞くことになるだろうことも推測できたからだ。
そもそも、エルモライ・レドネフという老医師は、スニギット公国の国民ではなかった。
本人はそれを語ることを良しとせず、また、その事実を問われたとしても表向きには否定することになるだろうが――外部の機関の元工作員という裏の顔を持つ。
現在はその機関とも縁を切り、一人の村医者として生活を送っているが――彼に与えられた本来の目的は、「魔族の発見」である。それは決して人類共通の利益のためなどではない。ただ、彼の元所属していた機関が、ひいてはその機関の所属するであろう国が利益を得るためのものだった。
しかしながら、レドネフ自身はその機関の正式な名称も、所属している国も何も知らない。それは、翻意を抱いた手駒が「大元」たる国に害を為すことが無いようにするための措置だった。もっとも、多くの工作員は派遣先で一生を終える。外的要因によってか、単なる寿命であるかは別にしても。
また、工作員の派遣される国の傾向を考えれば推察は容易なことでもある。レドネフもおおよそのあたりはつけていた。
「信号か」
「魔力暴走による自爆――天まで届く赤い光を目にしたかと思われますが」
「……まあ、のう」
曖昧な言葉を発しはしても、否定の意思を見せることはしない。
実際、あの「信号」が発せられた時、最も近い位置にいたのがレドネフだ。レドネフ自身は既に「機関」に関わることを良しとしていなかったが、レドネフが招集に応じなければ他の何者か――それこそ現役の工作員が指令を受け取ることになるだろう。それを横取りしておかなければ、レドネフ自身も気が治まらなかった。
「あなたに送られた指令は、魔族の発見と動向の調査――場合によっては『火付け』をすることです」
「…………」
この仕事は自分が成し遂げなければという使命感――ではない。そもそも、レドネフは三十年ほど前にこれと同じ指令を受け取り、その上で「任務未達成」の報告を送り続けている。今となってはとうに達成する気は無い。
だからこそ、ここでレドネフが指令を受け取らなければならなかった。
でなくては、揉み消すことなどできようはずも無いだろう。
「改めてお請けいただけますね?」
「悪いがワシは見ての通りの老体でなぁ。思うような成果は出せんやもしれんぞ」
「戦闘を命じているわけではありません。あくまで工作です」
――ああ、理解しているとも。
レドネフは内心でそう呟く。これはあくまで工作や諜報の範疇であり、戦闘ではない――だからこそ、その風土に溶け込んだ工作員の存在が有用となると。
そしてその過程はどうあれ、この指令に従った結果、最終的には誰かが必ず不幸に陥ることになる、とも。
「最悪、存在が確認できたならそれで構いません」
「そうかい」
その言葉は暗に、「お前がしないのなら自分たちがする」ということを告げていた。
相手に気取られぬよう、レドネフは溜息をつく。
――そも、魔族など三十年前に見つけておるわ。
言葉になどできようはずもないが、それは紛れも無い事実だった。
およそ、誰にも話したことは無いが、レドネフはかつて魔族を見たことがある。三十年前――医療知識を持っていたことで「医者」という役割を割り当てられ、クラインへの駐留を始めた頃のことだった。
かつては使命に燃えていた。そうすることで全てがより良い方向に進んでいくと、レドネフは信じていた。村人と交流を深め、クラインに溶け込んだその頃になってなお、レドネフは村人に害を為すことになるだろう「使命」を成し遂げることを第一に考えていた。
その意識を打ち砕かれたのは、魔族の生き残りを捜しに廃城へと赴いた時。レドネフは見たのだ。廃城に一人佇む魔族の姿を。魔族が一人、主を失った城で泣いているその姿を――見てしまったのだ。
それは、彼の心に衝撃を与えるに十分な出来事だった。それも当然といえば当然の事実である。普通の人間は、魔族とは忌むべき敵であり、獣性に身を浸した魔の存在であると教育されているのだから。そして少なくとも、かつて「普通の人間」の範疇に在ったレドネフは、この事実を信じて疑っていなかった。
だからこそ、最初は信じられずにいた。そのようなことはありえない、何かの気の迷いか、さもなくば幻覚だと。
しかし、一日、二日と観察を重ねていくにつれて理解していった。
あれは――――人間と何も変わらないではないか、と。
物憂げに溜息をつき、時折喪った仲間を想って泣き、気持ちを切り替えるためにか、誰もいない城の掃除を行い、その広さに心折れてまた玉座へと戻る。いずれ仲間が戻るかもしれないと、そう信じて……あるいは、信じようとしてそんなことをしているのだろうと、レドネフも理解していた。理解できてしまった。
そうなれば、もはや彼らを怪物だなどと呼ぶことはできなかった。人間と変わらない存在を怪物と呼ぶのならば――人間もまた、その「怪物」と同じである。
あるいは、そもそも曖昧な恐怖を精霊に煽り立てられ、彼ら魔族を絶滅に追いやった人間の愚かさこそ怪物じみているとも言えた。
だからこそ。
「ま、ぼちぼちやるとしよう」
レドネフは、心にも無い言葉を告げた。
少なくともそう言ってさえおけば、しばらくの間時間を稼ぐことはできる。あるいは、最終的には露見するかもしれなくとも、対策を練るだけの時間はできる。彼らに直接事実を伝えることはできないが、それまでにできることはいくらでもあるだろう、と考えたからこその発言だった。
「ご協力に感謝いたします」
その返答に満足したのか、男は静かにそう告げると足早に中庭から出て行った。
再び、中庭を静寂が包む。
「…………ふぅ」
一つ溜息をつくと、レドネフは再び――突然の来訪者に害された気分を切り替えるように、水を口に運んだ。
(……大丈夫じゃろうか)
そうして気持ちを切り替えると、改めて彼ら魔族に対する不安がレドネフの内に湧く。
レドネフは、リョーマが戦ったという「信号」を発した工作員の男について詳しくは知らない。既にそういう立場に無いし、何よりも他の工作員について「機関」は情報を公開していない。それでも、リョーマの怪我の具合から見て、腕の良い精霊術師なのだろうということだけは理解できた。
しかしその上で、レドネフはその男はあくまで精霊術師なのだということも理解していた。
密偵ならば彼らの素性はすぐに露見するだろう。術師と密偵、その両方の技能を同時に追い求めようとすれば必ずどちらかが疎かになるだろう。ならば、魔族にあれだけの手傷を負わせることなどできまい。精霊術の技能を追及した者だからこそ、彼らに被害を与えることができたと考えるのが自然だ。
何よりの幸いは、精霊術師の目的が「魔族の発見」ではなく「魔族を作り出すこと」だったことだろう。およそ正気の人間の発想ではないが、それ故に計画が難航し、魔族を捜索するという行動にまで至ることができなかったのだから。結果的に発見はされたが――彼らがその事実に全く気付くことなく、危機感を抱くことも無いということにならなかっただけで僥倖と言えよう。
そもそもの問題は、彼らの隠蔽技術が非情に拙いものであることと、それを自覚していないことだ。
あの少年に関しては言うに及ばず、魔族の少女に関してもそれは同じことが言える。彼らなりの最善は尽くしているのだろうが、どうしようもなく経験が不足している。もっとも、レドネフだからこそ彼らの発する微細な異常に気付いたのであって、一般人へ彼らの素性を隠すには充分ではあるのだが。
とはいえ、それはレドネフと同程度の能力を持つ人間が本気で調べればすぐに分かってしまうこととも言える。だからこそ、機関が人員を派遣してくることはそれとなく阻止しておく必要があった。
(いやさ。大丈夫であってほしいのう)
だからと言ってそれは絶対ではない。
どこから、どのように機関から密偵が派遣されてくるかは分からないが、少なくとも一年のうちには必ずレドネフの動向を調査しに来るだろう。
レドネフは自分から任務を放棄し、彼らと縁を切っている。機関としても信用できる人材というわけではないだろう。
それでもすぐに密偵を送り込むわけにはいかないだろう。人員の選定、身分の確保と捏造、そして現地に溶け込むための工作。その全てを終えてようやく全ての条件が整うのだから。
短く見積もって、およそ一年。それまでに彼らにそれとなく注意を促すべきだとレドネフは考えていた。
(……果たして、精霊様はなんと仰るかな)
実際に会ったことは無いが、魔族を絶滅に導いた一因は精霊である。苛烈な一面が存在することは間違いないし、実際にレドネフの行動を見れば激昂しても仕方がない。
それでも、レドネフは譲れなかった。彼らに害意が無いのならば、平和に暮らすことくらい許容すべきだという思いを。
レドネフは、三十年前に見た少女と全く同じ――角は隠していたが――姿を見た時、よもや人間への復讐を始めるのではないかと疑っていた。彼女の隣に立つ少年の姿を見て、その疑いは更に深まった。新たな頭目を掲げ、現地の少女を誑かし、まずクラインを手中に収めることを画策しているのではないか、と。
結論から言えば、それは杞憂だった。そもそも、彼らはそのような行動を起こすだけの理由も……手勢も、力も、知識も、何一つとして足りているものは無かったのだ。彼らはただ、その日を生きていくことに精いっぱいだった。
農業を学び、隣人と交流し、目の前に迫る危機に立ち向かっていく――少なくとも、レドネフはその行動から邪悪なものを感じ取ることはできなかった。後に、治療のために彼と直接話す機会もあったが、そこでも魔族の新たな頭目となった少年の感性は人間のそれとまるで変わりなく、善良で、普通の少年のそれだった。
今回の件に関しても、村のことを想っての行動だ。その結果は決して芳しいものではないとはいえ、それで助かった者は数多い。
そして何よりも、この事件を経てようやく、レドネフは彼らに対話と相互理解の可能性を見出すことができた。
入院費を肩代わりしたことも、自ら執刀することで他の医者から魔族である事実が露見するおとを防いだのもその礼代わりだった。もっとも、リョーマたちはその事実を不審に思っていたが。
――ひとつの事件が終わりはしたが、それも結局は次の大きな事変への呼び水でしかない。
予感があった。いずれ、何かが起きる、と。
それはかつてレドネフがその「何か」を引き起こす側にいたからこそ感じ取れる空気があるのか――あるいは、年齢のせいで不安を感じる閾値が引き下がっているだけなのか。
今はまだ、レドネフ本人にも理解できずにいた。




