反攻
「――――ッ」
三十匹近い魔獣が、俺の方へと駆けていた。
犬と狸、それから猫、兎が数匹。鹿が四匹とカモシカが二匹、更に――熊が、二匹。
――その全てがあの術師の指揮下に置かれ、更には半魔族としての力も得ているときた。
その上俺はどう考えたって満身創痍。内臓はグチャグチャだし全身から血が流れるのも止まらない。
「……っ、あ」
それでも、立ち上がらなければならない。
確かにもうこの時点で勝ち目は薄いかもしれない。だが、まだこの体は動くのだ。
どうしようもないなどという――言い訳で立ち止まれるわけがあるものか。
「諦めて死ね」
「――――誰がだ」
体内の刃を摘出する方法――いや駄目だ。この状況で悠長に破片を抜いていられるものか。
血の流出を防ぎ、最低限動くことができるよう失った体組織を補填し、この男と向かってくる半魔族を行動不能にする。そのためには――――。
「う、おぉぉ!!」
術式を展開し、向かい来る魔獣へと走り出す。
その式の意味するものは、凍結。超低温の空間を作り出し、物体を凍結させる――普通に使ったところで、数十秒は押し当てておかないとまるで意味のない程度の、ごく簡単な術式だ。
以前、俺が暴走させた温度低下の術式の発展形だ。ごく限定した空間なら、今の俺でも暴走状態で発動くらいはできる。
指定する空間は――自分の、傷口。
「がッ……!!」
「ぬ――――!?」
痺れのせいで体の感覚が希薄な中でも分かる。これは、最悪だ。
凍傷という程度ではない。ここまでいくと凍結だ。痺れで眠っていたはずの痛覚が呼び起され、全身に耐えがたいほどの痛みが走る。
だが、これでもう血は流れ出ない。
「お、あああああぁッ!!」
突っ込んできた犬の顎に掌底を叩き込み、狸の前足を掴んで地面に叩きつける。横合いから覆いかぶさろうとしてきた熊の股を潜り抜け、次いで襲い掛かる鹿をいなす。
その最中にも、思考を巡らす。俺の体を再構成する際に組み込まれた先代冥王の遺骨――肉体の記憶とでも呼ぶべきそこから、なんとかして絞り出す。「海王」の使っていたという魔法、その一端を。
ミリアムは俺に海王の扱うという魔法は向いていないと言った。だが、あくまで向いていないだけで、使うことはできるとも。
なら血液を補充する魔法くらいなら使えたっていい。いいや。使えるはずだ。絞り出せ。
「チ……」
男が舌打ちを放つのが聞こえた。そして――空いた左腕に、魔力の光が灯る。
――――まさか!?
「手間をかけさせるな――!」
その瞬間、地面が隆起した。
二つの術式を同時に操っているからか、先程よりも遥かに地面が変質する速度は遅い。普通なら、何の問題も無く躱すことができる。
だが、今は殺到する魔獣のせいで、まともに回避ができるような状況ではない。このまま、諸共に貫かれれば確実に死ぬ――――。
「ガアアアアアァァァァッ!!」
「がッ!!?」
――そんな思考を吹き飛ばすような咆哮と共に、黒い閃光が奔る。
それを認識したその瞬間、術師の体が宙を舞った。何が起きたか理解できない――そんな表情のままに。
「――――は」
思わず、笑いが漏れた。
確かに、そりゃあ相手の数が多ければ加勢してくれとは言った。正直、今のこの状況を打破するにはそれが必要でもあった。
――――だからって、こんな最高のタイミングで横合いから殴りに来るかね、お前は。
「来たぞ、あるじ」
「……は? ある……? お前何言ってんだ……?」
と、眼前に降り立ち放った想定外の言葉に、思わず変な声が出る。
背後から向かってきた熊には、ついでに眉間に裏拳を食らわせる。
「よび方はどうだっていいだろ!」
赤面しながらまくしたてるその姿は、駆けつける前よりもだいぶ棘が無い。
この数分程度で何かあったのだろうか――多分あったのだろうが、少しばかり違和感を覚えざるを得ない。
――だが、同時に頼もしいと、素直にそうも思える。
「な……くッ!」
と、そんな遣り取りをしている内に、術師も正気に戻ってしまったようだ。
再び、その腕に魔力の光が宿り、術式を構築していく。
先程の術式の同時使用は、俺と一対一の状況だからこそ成立した手だろう。となれば、ここからは半魔族たちの精神操作に本腰を入れていくに違いない。
「――ネリー」
「おう」
互いに背を預け、周囲を見回す。
敵の数は多い。だが、だとしてももう大した問題ではない。
――――脳内の情報の検索を終了する。
左手に展開した術式を、自分自身に打ち込む。と同時に、文字通り血が通うような感覚を覚えた。
術式それ自体は単純なものではなかった。何せ血液の複製だ。元があってもその組成は今の俺には理解し辛い。
だから、限りなく簡略化するために、いわゆる生理食塩水を生成する術式を選択した。これなら、応急処置くらいにはなる。
……短時間なら、問題なく動くことができる。
「「行くぞォッ!!」」
その叫びを皮切りに、四方から獣たちが襲い掛かった。
獣たちも半魔族だ。曲がりなりにも、身体能力だけは俺たちに比肩すると言っていいほどのもの。当然、無傷で済むなどとは思っていない。
「ガアアァッ!!」
咆哮と共に、ネリーが駆ける。
その速度は、半魔族であった頃よりも更に速い。音を超え、熱を超え――その軌道は、常人ならば黒い閃光のようにしか認識できないだろう。俺ですら、正確に捉えることは困難だ。
それでもなお、彼女は素性の隠蔽を忘れていない。目深に被ったフードは優先的に魔力保護が施され、一切の外的干渉を断っている。
安心した。これなら、気を揉む必要もない。
俺は俺のやるべきことに集中できる――――!
「おォォォッ!!」
近づいてきた熊の顎に掌底を打ち込み、一瞬の混濁の隙を突いて顔面に右足の回し蹴りを叩き込む。
次いで、倒れ込んだその体を踏み台とし、前方から迫り来る魔犬の顎先を掠めるように蹴りつけた。
あくまで脳とその電気信号をを介して術式の効果を伝えている以上、意識を失えば一時的にでも殺すことなく行動を封じられる。
「ぁあぁァッ!」
ネリーの攻撃も回避も、はっきり言って野性そのものの体現だ。
閃光の如き速度のままに爪を突き立て、裂き、血飛沫を散らし、更に加速する。更に、木々や岩を――魔力保護を用いながら足場と換え、立体的な動きで以て術師と彼の操る魔獣たちを翻弄する。
その攻撃は、およそ全てが足元に集中している。狙いは――腱を切ることだろう。
全ての動物がそうなるとは言い切れないが、少なくとも腱を切断しさえすれば自由に行動することはままならなくなるはずだ。そのアプローチの方向性こそ違えど、ネリーもまたこの魔獣たちの命までは取らないと、そう決めているのだろう。
「こいつらッ……」
男の視線が逸れた。俺たちの方から森の方――いや、クラインの方へ。
僅かに揺れ動く指が、既に展開していた術式を変化させていった。
「まず――……!」
「いや、いい! だいじょうぶだ!」
焦りから思わず発せられた言葉に、しかしネリーの反応は冷静だった。
――――そうか。それもその通りだ。
森の中に、黒い陰影が高速で移動しているのが見えた。それは術師に存在を知られておらず、俺たちの中で最も戦闘に向いているであろう――蟲の王、その騎士であるアンブロシウスの姿だ。
「……はっ」
クラインが危険に晒されるとなれば、俺たちもその対処に当たらなければならないと思ったのだろう。実際、その推測は正しい。――――必要があれば。
十中八九、奴はそこに罠を仕掛けている。こちらの性格をこの短時間である程度推察してのけたその手腕は、精霊術の腕前と併せて驚嘆に値するものだろう。
だとしても――アンブロシウスが控えている今、背後を憂える必要は無い。
姿勢を低くし、地面を思い切り蹴り、疾駆する。想定外の行動に混乱し、思考の間隙が生まれている今、この瞬間に決着を付ける――――!!
「らぁぁぁぁァッ!!」
「がッ!!」
思い切り、体重と勢いを載せて殴り飛ばす――だが、男の反応は早い。むしろ、一度殴られたせいで逆に冷静になってしまったのだろうか。即座に受け身を取りながら、その身を翻す。
「……この、まま……逃げきれれば……!」
「逃が―――――」
地面を殴りつけるようにして術式を起動する。地面を隆起させるだけの術式――男の行く先に壁を作る、そのためだけの魔法だ。
軋む体をこの瞬間に全力で稼働させる、そのためだけに全身に魔力を回す。
そして――――解き放つ。
「――――すかァァァッ!!」
「ごッ……!!」
全ての速度――全身全霊を込めた跳び蹴りが、男の背に突き刺さる。
だが、浅い。これと同じだけのダメージはさっきも与えてきて、それでも立ち上がったんだ。それを思えば――何もかも、足りない!
「おおおおおおおおおおおァァッ!!」
左足を振り下ろし、男の頭蓋を揺らす。倒れ込むその瞬間に、振り抜いた足で地を踏みしめ――拳を顎に向かって撃ち放つ。
「ガッッ!?」
頭が跳ね上がり――しかし、その瞳には未だ光が宿っている。
この男はまだ諦めていない。心を折ってすらいない。拡散した術式の光も、再び別の形へと再構成されつつある。
「づあああああああッ!!」
「ごあッ!!」
左手で放つ肝臓打ち――そして、態勢が崩れかけたところで肩を掴み、顔面に膝を叩き込む。
更に仰向けに倒れかけたところを引き戻し、魔法で男の背後に更なる土壁を創り出して更に拳を打ち込んでいく。一発、二発、三発――――!!
「らああああああああッ!!」
打ち込む。打ち込む。打ち込む。それでも足りない。精霊術で強化されたこの男は倒れない。
そうしてどれほど拳を叩きつけただろうか。一度や二度の攻撃で砕けてしまわぬよう魔力で保護を施した土壁すらも陥没しつつある中――ようやく、男が膝から崩れ落ちた。
落葉の如く魔力が拡散し――魔獣たちを操っていた思考制御も解除され、ネリーがその進行を食い止めていた魔獣たちもまた、脳への過負荷に耐えきれず倒れ込んだ。
「……はァッ……はッ……ぐッ……がはっ!」
喉奥から血が溢れ出し……我慢しきれずその場に吐き出す。
まったく、場慣れしてないからしょうがないが、だとしてもこれはまずい。誇張無しに死にそうだ。
「あるじ!」
見かねたネリーが、たまらずといった様子で駆けてくる。
個人的にももうだいぶ体が動かなくなってきているが……肩を借りれば、歩くくらいはなんとかなる――いや、それもだいぶ無理してる範疇だな。体がどんどん重くなってきている。
「っ……」
「あ! お、おい、ムチャするなよ!」
と。倒れかける俺の体を、駆け寄ってきたネリーがそのまま抱きとめる。
……状況が状況だけに仕方ないけど、立場が逆だな、これ。本当はもっと、俺が気張らなきゃいけないのに。
「……悪い、な」
「いいから! しゃべるな! 死んじゃうぞ!?」
「あ――いや、なんとか、なるだろ。うん」
たぶんな、と、せめてネリーを落ち着かせるためにも……あと、自分の意識を保つためにも言葉をかける。
違う。本当はだいぶ辛いし、キツい。気を抜くと今にも気を失いそうだ。場合によっては、そのまま死ぬかも。
でも――――勝った。これで、この事件も解決だし、何も問題は――――。
「……か……ひゅ―――――」
「なッ!?」
――――その瞬間、光弾がネリーの頬を掠めた。
それと共に襤褸のフードが外れ……ネリーの頭部が、露になる。
まさか。
そんな、このタイミングで、まさか――――!!
「――――か、は」
霞む視界の中でも、しかし認識できた。今の一撃は俺を狙ったものではないと。あくまでネリーを狙い、そのフードを取り去ることが目的だと。確証を得るためだと。
だがしかし――なぜ、数分どころか数十秒も経たずに目を覚ます……!!
肉を打ち、骨を砕いた。臓腑は傷つき血が噴き出しているし、脳震盪を起こした状態では思考もままならないはずだ。
だというのに、まさかこの男は起き上がったというのか。よもや、その意志の力だけで……!
「は。ははは――はは……!!」
だが、なぜこの局面で俺たちが魔族かどうかを暴こうなんてしたんだ!?
何のために――――!?
「こいつ!!」
「ぐ、待……ネリー……!」
「――――任務、完了……!」
ネリーが爪を突き立てようとするその瞬間、男の体内で何かが膨張していく。
魔力。いや違う。あれは魔力ではない。もっと純粋な、そう――エネルギーのような……!
「――――クソ……ったれ……!!」
「あっ!?」
体重をかけてネリーを押し倒し、術式を組んで男を取り囲むように……外界からの、あるいは外界への干渉を遮断するように土壁を構築する。最低限、魔力で補強すれば俺たち二人を守るくらいは……!!
「魔族を発見――」
――――そうして。
その呟きが聞こえたその瞬間、俺の視界を赤い閃光と爆炎が覆った。




