遠く吼ゆる
ネリー視点(三人称)。
「――本当にいいのか?」
冥王が襲撃を受けたその後、ネリーは不安げにアンブロシウスに問いかけた。
「……ああ、構わん」
鋭利なナイフを背中に突き立てられ……はしたが、彼自身に傷は無い。精々、服が切れたくらいのものだろう。
しかし、相手は精霊術師――かつて魔族が敗れ、絶滅へ導かれた相手だ。ミリアムなら彼らのことを知っているのは確かだとしても、リョーマを含むこの三人に精霊術師に対する知識など持ちようも無かった。
しいて言うならば、リョーマが唯一精霊術師に対してわずかに知識を有していた。ただし、それはただ「教育機関であるフリゲイユ学術都市に行ったことがある」という程度のごく僅かな知識である。当然、戦闘に応用などできようはずも無い。
加勢しに行くべきじゃないのか、と。ネリーのその考えそれ自体は間違いではない。しかし、アンブロシウスはそれを切って捨てた。
「そういう約定だ」
腕を組んで俯くその姿からは、少なからず苦悩が見て取れる。
果たして、冥王は本当に一人で大丈夫なのか――その確信が持てない以上は仕方のないことではあるが、ネリーにとっては不安を更に煽る材料にしかならなかった。
「でも、アイツ……」
ネリーから見えるリョーマは、完全に精霊術師に翻弄されてしまっていた。
背後を取られ、視界から消えたその姿を捜し……必死さこそあれ、余裕など見えてすら来ない。
と。
「あ」
瞬きの間に、精霊術師の姿を捉えた冥王が攻勢に出た。
岩盤を砕き、瞬時、互いの手を読み合う。再び放った蹴撃は空を切り、再び岩壁を割り――その割った岩壁を魔法により補修しながら、更に攻撃を加える。
瞬時の攻防を、しかしネリーの目はその全てを捉えていた。
「……だいじょーぶ、かも」
「…………」
その上で、ネリーは状況を楽観していた。
リョーマは確かに魔法の扱いがオスヴァルトなどと比べ、拙い。普段の生活においても少しばかり頼りなさげだし、何より戦いに対してやる気があまりない。技術を磨いているわけでもない。しかし、それでも戦いに身を置いている彼は間違いなく強いと、ネリーは身をもって理解している。
それは、彼に躊躇が無いからだ。普段は何かと優柔不断で愚痴を吐いては不満げにしている割に、いざその時になれば、他の誰の追随も許さないほど判断が早く、鋭い思考を以てことにあたる。
ともすれば、その思考の切り替えは精神が破綻しているのではないかとすら思わせる。そして、その事実を指摘したとしても、「そうかもな」と困った顔で頬を掻くことだろう――と。ネリーはそう認識していた。あるいは、その態度が少し苛立たしいとも。もう少し反論しろ、とも。
「どうだろうな」
他方、アンブロシウスはこの状況を冷静に俯瞰していた。
確かに冥王の躊躇の無さ、それに起因する強さは認められるだろう。しかし、彼は戦闘の経験が少ない。根本的に、戦いにおける機微というものを理解していないのだ。
こればかりは経験を積まなければ分からないものではある。元来直接的な逃走とは縁遠いリョーマがそうした感覚を持ち合わせていなくとも、それは仕方のないことだと言えた。
アンブロシウス自身は、リースベットの近衛という立場故に幾度か、虫の頃にとはいえ外敵と戦うことがあった。未だにその感覚は身に沁みついており、恐らくはリョーマよりも幾分か戦い慣れしていると言えるだろう。
だからこそ、アンブロシウスの本能が警鐘を鳴らしていた。あの男はマズい、と。
「…………」
思わず、剣に手をかけていたことに気付く。
この位置、この距離――冥王は相対しているからこそ予備動作で行動を先読みされていたが、今なら気取られること無くあの術師の首を獲ることは、できる。
だが、それは許されなかった。誰よりも、それは自分を信じてこの場を預けた冥王への裏切りだと理解しているから。
彼は、「本当に殺したりしたら、後で絶対に良くないことが起きる」と言った。その推測は恐らく正しいと、アンブロシウスも理解している。だからこそ、この場で手出しすることはできないと、己を戒めていた。
「――――あ!?」
それでも、「その時」はやってくる。
男が、精霊術を発動する。それに伴って地面がその形質を変え、金属の刃となって四方よりリョーマへと襲い掛かり――突き刺さった。
呻き声が聞こえるのに合わせて飛び出そうとするネリー。その肩を押さえアンブロシウスは静かに告げた。
「行くな」
「何でだよ……!?」
その意志が、その行為が正しいことなど、アンブロシウス自身も承知している。
だとしても、ここでネリーを行かせるのはリョーマに対する裏切りだとも、彼は断じていた。
自然と、掴む手の力が強まる。
「いたっ……」
「……すまない」
はっきりと言って、状況は芳しいとは言えない。少なくとも、術師の攻撃が通ることは確実に証明されてしまったのだ。攻勢に転じようとも、いずれは隙を突かれて致命的な攻撃を食らう可能性がある。
アンブロシウスもそれは承知していた。それでもなお冷徹にことを俯瞰するのは、リョーマ自身がそうしろと言ったこと以上に、下手にネリーを行かせたなら諸共に殺されるという危機感があったからだ。加えて、それと理解できる容姿を持ちながら、隠蔽に無頓着であり、その意志が不足しているネリーが行けば確実に魔族のことが露見する。どちらも看過できることではない。
(――――冥王め。俺はお目付け役か)
妙なところで読み違えはするが、それでもョーマの洞察力は高い方だ。性格上、ネリーの抑えがきかなくなることは既に予見していたのだろう。
となれば、体格の上でも筋力の上でもネリーを抑えられるアンブロシウスは適任だ。元よりそうするしか選択肢が無かったのもその通りであろうが。
「――!」
不意に、ネリーが顔を上げた。体に刺さった刃を折り、リョーマが突撃したためだ。
――――迂闊だ!
思わず声が漏れかけた。捨て身で行けば、確かに一撃程度なら当たりはする。だが――同じことを、相手がしないわけがない。
そして実際に、危惧したその瞬間は訪れる。
「……ッ!」
リョーマの拳が男の腹部を捉える。浮き上がる体を叩き落すべく放った追加の一撃は――しかし、届きはしない。
その瞬間に、術師諸共に、周囲の地面が変質した刃によって刺し貫かれてしまったためだ。
最初から「そう」するよう調整し、覚悟していた術師の被害は少ない。対して――。
「ああッ!?」
刃が爆ぜ、体内を掻き回されたリョーマが膝から地に崩れ落ちる。
隣で声を上げるネリーを、しかしアンブロシウスは咎めない。咎められない。今のこの状況なら術師に聞こえていないというのも確かだが――その光景を見せられてなお冷静でいられるほどに、冷血ではなかった。
――――お前は俺に動くなと、そう言ったな。
ならば、お前も同じことができるのか――と、胸中で毒づく。
命の恩人を見殺しにすることを、許容できるのかと。
「アンブロシウス!!」
「……駄目だ」
外殻が割れて砕けてしまいそうなほどに、その手を握りしめる。
アンブロシウスは、ネリーに声をかけられるその直前に、リョーマの表情を――「それでいい」とでも言いたげな、安堵するような表情を見た。
――ならば、彼にも何か策があるはずだ。
「……奴は、まだ負けていない」
――――そのはずだ。
半ば、自分で自分に言い聞かせるように呟く。根拠も無くあのような表情をするはずがないと。
まさか、自らが死ぬことを良しとするようなことはあるまいと。
だからこそ、信じ、待った。
術師が動くのを。
冥王の逆襲を。
――――そして、その信頼は為る。
「……!」
術師の足元を掬って宙に浮かし、勢いのままにその拳を叩きつける。
骨が折れ、衝撃によって地が砕け、血が飛沫となって飛び散る。決定打だ、と確信できる――果たして術師の命があるのか、と不安を覚えるほどの凄絶な一撃だった。
「やった……!」
安堵するような、絞り出すようなにネリーが言葉を発した。
アンブロシウスもまた、同じように息を漏らす。
「……な、なんだよ。もしかして、あいつが死ぬと思ってたんじゃないか?」
「抜かせ。お前こそ、その汗は何だ」
ネリーはアンブロシウスの表情が読めるわけではない。むしろ、アンブロシウスがそれとなく息をついたことでようやく理解したという程度だ。
元より彼は表情というものが作れない。これまでの言動を他者から見れば、冷徹な男だと思われても致し方ないとさえ言えた。
他方、アンブロシウスもまたネリーに対してはここまであまり良い印象を抱いていなかった。彼女の上辺の言動だけを掬い取って見れば、リョーマに対する信頼が薄いようにしか見えないからだ。何か言葉にすればまず否定から入る、というのはそれだけでも十分に悪印象に成り得る。本人同士にしかそれが分からないことがあるとは言っても、外から見れば尚更だ。
「……まあいい。それよりも一つ聞かせてほしいことがある」
「なんだよ。そんなの、まずあいつをつれてきてからでいいだろ。このままじゃ死んじゃうかもしれないんだから」
「いや。その前に終わらせるべきことが――――」
その刹那、二人の目に飛び込んだのは、男が幽鬼の如く再び立ち上がる姿。聞こえたのは、「殺せ」という簡潔な指示。
そして――――その腕に新たに灯る、術式の淡い光もまた、彼らの視界に収められていた。
「なッ―――――!?」
目を剥き、驚きを口にするネリー。アンブロシウスの反応もまた、言葉を口にしないだけでほとんど変わらない。
そうしているうちに、岩壁が内側から崩れ去る。そこから現れるのは、複数匹の獣――――かつてのネリーと同じく、多量の不純な魔力と狂暴性を身に纏った、半魔族である。
「ウソだろ……!?」
当然、その可能性は想定されていた。だが、それはあくまで「多くの半魔族が研究材料として捕らえられているかもしれない」という憶測であり、場合によってはその拘束を自ら外す可能性がある――という程度のものだった。その数も、精々が二桁に届くかどうかと言ったところだろう。
だが、その推測は大きく外れた。
その行動に指向性を持たせ、その上三十匹近くの半魔族を操ってのけるなど――それこそ、ありえない話だった。
「アンブロシウス、行かないと!」
「……ああ、だが質問には答えろ」
「なんだよこんな時に!?」
それでも、アンブロシウスには優先して解消するべきことがあった。
アンブロシウスにとってだけでなく、リョーマにとって――何よりも、ネリーの立場をはっきりさせるために、必要なことだ。
「あの半魔族を殺すか?」
アンブロシウスは、そう問いかけながらもそれが卑怯な質問だと承知していた。
どうするか、ではなく「殺すか」どうか。それは紛れもなく、殺害を前提とした言葉だからだ。
(――――あの男は、甘い)
冥王は、ひどく甘い男だ。その甘さは、彼が本来争いと縁遠い場所にいたからこそ醸成されたものだと言える。
戦いの場においては間違いなく、その甘さが首を絞めることだろう。それに関してはまず、間違いない。
事実、彼は半魔族となった者を殺すことに良い思いを抱いていない。そうすることが手っ取り早く、また、誰に非難を受けることではないと理解していながらそうはしないのだ。今回もきっとそれに倣い――窮地に陥る可能性は高い。
(だが、俺たちはその甘さに救われた)
だからこそ、リースベットは彼の旗下につくことを決めた。
だからこそ、アンブロシウスは彼を好ましい男だと感じた。
命を救われたのはアンブロシウスとリースベットだけではない。ネリーもまた境遇としてはよく似ている。
その上で、どうするかを問う。容赦無く殺すのか。それとも。
「――――だれも殺すわけないだろ、何言ってんだ!!」
そして、一拍の間を置いて、言葉が返ってきた。
懊悩があった。逡巡があった。それでも結局のところ、ネリーは心のままに、その言葉を吐いた。
そもそも、最初から恩は感じていたのだ。それを言葉にするのがひどく、気恥ずかしかっただけで。
そもそも、いつからか彼のことも認めていたのだ。そんなことを言うと、レーネが不機嫌になりそうだったから言わなかっただけで。
彼の言葉の一々に突っかかっていたのは、そうしなければ過去野性に生きていた自分を否定されているようだったからだ。
資格は十全にあった。面倒を見て、ずっと気にかけてくれていた。今もなお、矢面に立って戦い続けている。
その姿を見て、今。ネリーはようやく己の心を定めた。
「あいつはオレのあるじだ! いまさら、言うコトきかないワケがないだろ!」
「――――そうか」
ネリーの言葉に満足そうに頷きながら、アンブロシウスは腰に佩いた剣を抜く。
黒曜石の如く黒い輝きを放つ長大な剣だ。鎬と鍔の部分にそれぞれ琥珀色の宝玉が埋め込まれている。
アンブロシウスにとっては、魔族となった時から常に共にある――文字通り、己の分身とも呼ぶべき剣だった。
「行け」
「オマエは?」
「俺の姿は目立つ。人間でないと気付かれる以上は行けん」
だが、とアンブロシウスは剣を地面に突き立て、告げる。
「――――お前たちが逃した者は、全て俺が引き受ける」
威圧感と、重厚感とを伴った言葉だった。
自然、ネリーの首が縦に動く。こうまで断言するなら任せられると、そう信じて。
「任せるぞ」
「ああ、トーゼンだッ!」
言葉と共に、ネリーの体は音を遥かに超える速度で飛び出した。
――――彼女の「主」を、助けるために。




