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ヒトと獣の兼ね合い

「いいかげんにしてっ!!」



 ――――その日。俺は初めてレーネが大声を上げるのを聞いた。


 元々、レーネは大人しい子だ。人見知りも激しいし、自己主張も少ない。なんというか、人畜無害で臆病な小動物――とでも表現するべきだろうか。そんな印象を抱いていたおかげで、レーネの怒号を聞いたその瞬間、何が起きたのかも理解できずにただ立ち尽くしていることしかできなかった。



「な、なんだよぅ……」



 よく見れば、その怒声は俺に向けられたものではなかった。


 レーネの視線の先には、わずかに身を縮めたネリーがいる。なるほど、恐らくはネリーが何かしでかしてレーネを怒らせてしまったのだろう……と、容易に推察はできた、が……。



(――――何をした!?)



 レーネがここまで怒りを(あらわ)にするなんて、ただ事じゃない。

 あのオスヴァルトでさえ――あ、いや。オスヴァルトはあの早口とわけのわからなさのせいで、むしろ怯えられていたな。除外。


 ……ともかく、事情を聞き出す必要があるな。



「ど……どうしたんだ、レーネ。ちょっと落ち着――」

「リョーマさまはだまってて!」

「ゴフッ」

「リョーマ様ぁ――――!?」



 思わず、吐血しかけるほどの衝撃に見舞われる。次の瞬間には、床が目の前にあった。


 あまりの事態に、ミリアムもオロオロしている。レーネを(なだ)めるべきか、ネリーを諫めるべきか、まず俺に状況を説明するべきか、判断に迷っているようだ。卒倒してしまったことで優先順位が俺の方に傾いたようではあるが。



「俺はもう駄目だ……レーネに嫌われるようじゃ他の誰にも受け入れてなんてもらえない……」

「もののはずみで出たような言葉にそこまでショックを受けないでください、リョーマ様」



 そうは言うが、あのレーネだ。

 いつも俺の後ろに隠れいて、穏やかで、ヨナスの時でさえあまり強い主張をしなかったあのレーネが「黙ってて」と……これがショックを受けずにいられるものか。


 ……しかし、とはいえ、だ。



「何があったんだ?」

「その倒れ込んだ姿勢のままでお聞きになるんですか」



 ちょっとまあ――なんだ。精神的ダメージのおかげで立ち上がろうにも立ち上がれない。

 だけど、それでも状況だけは把握しておかないと。曲がりなりにも、俺は魔族を統率する立場にあるのだから。



「…………」



 青ざめた顔で、助けを求めるようにネリーがこちらを見つめる。

 ――対して、レーネはますます激した様子でネリーに詰め寄った。



「こっち見て!!」

「ひっ」



 レーネの怒声に、思わずといった様子でネリーが軽く悲鳴を上げた。同時に、ネリーの姿勢が正され……あと、俺の視線もレーネの方に向かってしまう。

 が、そこでようやく、彼女の異変に気付いた。


 と言っても、怪我をしているとか、病気をしているとか――そういうことでなく。単に、レーネが四六時中身に付けているはずの……元は、俺のものだった、血染めのパーカーを着用していない、というだけのことだ。

 洗濯でもしているのだろうかと思ったが、どうも違うらしい。丸めた状態で、かばうような格好でレーネの腕に抱きかかえられている。



「ちょ、ちょっとやぶっちゃっただけじゃないか……」

「ちょっと!?」



 その瞬間、ミリアムが苦虫を噛み潰したような顔をして見せた。


 なるほど――この状況の原因は、そこ(・・)にあるか。

 何かの拍子に、うっかりネリーがレーネのパーカーを破ってしまった。文字にして表せばただそれだけのことだ。けれど、納得はいく。着ていると安心するから――と、レーネはずっと、あのパーカーを手放そうとしなかった。新しいものを買ってやると言っても、なお頑なに手放そうとしないほどに。


 もっとも、個人的なことを言わせてもらうと……あの血染めのパーカー、元々は俺のお古だし、あまり清潔な印象も無いので、買い替える良い機会だとも思っている……が、レーネの気持ちを考えると、そういうわけにもいかないというのが実情だろう。


 ……しかし、こうなると、ミリアムが口出しをしかねているのも納得がいく。レーネには黙っててと言われはしたが、元々あのパーカーの持ち主は俺だ。なら、俺の言うことなら多少は聞いてくれるだろう。



「レーネ」



 起き上がってレーネに呼びかけると、その小さな肩が僅かに震えた。

 思ったよりも、俺の発した声は大きかったのだろうか。それとも、今から叱りつけられる……などと、身構えさせてしまったろうか。だとしたら、申し訳ないことをしてしまったが――同時に、俺の話を聞く姿勢にはなってくれただろう。


 レーネの視点と高さを合わせ、なるべく優しく――語り掛けるように。



「そんなに怒らないであげてくれ。ネリーはまだ、良いことと悪いことの区別もついてないんだからさ」

「でっ、でも、でも! この服、リョーマさまがわたしにくれて、大切なものだって、むかし住んでたところの、思い出があるからって、だから、わたし、大事に、なのに、これ……」



 (せき)を切るように、レーネの目から大粒の涙がこぼれる。


 ああ――そうか。だから、こんなにも怒っていたのか。いや、怒ってくれた(・・・)のか。

 そりゃあ、大事なものだった。あちらの世界にまつわる物品というものは少ない。だから、あればうれしいもの――ではある。間違いなく。

 けれど、なくてはならないものではない(・・・・)


 あえて言うなら、あれは俺が感傷に浸るために残していただけのものだ。レーネに譲ったのは、あくまでそうする必要があったから。ボロ布一枚で過ごすのは辛いだろうという……言ってしまえばなんだが、同情と憐憫の気持ちがあったからに過ぎない。だから、気にする必要なんて無い。今は他の服だって買ってあげられるのだから。



「…………」



 と、一口に言ってしまえるならどれだけ良かったことか。

 そういう理屈とは別に、あのパーカーを受け渡した()、レーネがあのパーカーについてどのように感じ、どれほどの思い入れがあるのかまでは流石に知らない。


 推測のしようはあるが……あるにしても、俺の感情とレーネの感情が常に一致するものじゃあないし……。

 ……どちらにしても、レーネはこの年代にしては聡い子だ。まずはある程度理詰めで(なだ)めてみて、それでもなお怒っているようなら、感情も交えて説得するとするか。



「レーネ。その服、ちょっと見せてくれ。大丈夫。怒ったりしないから」

「は……はい」



 恐る恐る、と言った様子でパーカーを差し出してくるレーネ。


 怒らない――と言いながら怒り出すとでも思ったのだろうか。目を瞑って差し出してくるその姿は、どことなく痛々しい。

 けれど、本当に俺に怒ったり叱ったりするつもりは無い。破れ具合と、問うべき非の割合にもよるが……。



「……ふむ?」



 まず、左腕の袖が肩口から裂けていた。引っ張るか何かして糸の継ぎ目をそのまま千切ってしまったのだろう。

 それから、部分的に爪で切り裂いたような跡が窺える。これだけ鋭利な爪跡だ。確かに、ネリー以外の誰がこんなことをするだろうか。


 視線を向けると、ネリーは後ろめたさをひた隠しにするように顔を逸らした。事故にせよ意図的にせよ、ネリーがパーカーを破ってしまったことは紛れも無い事実だと考えてもいいだろう。

 しかし、爪跡それ自体は、刃物でも使ったのかと聞きたくなるほどで――――余計な損傷が少ない分、縫い付けて修繕する余地もある。



「これなら、縫えばまたすぐに着られるよ。うん――なんとかなる」

「ほ、本当ですかっ!?」



 断定はできないし、糸や布の問題もあるが……俺の裁縫スキルでもなんとかなりそうだ。

 最悪、手順や手法に関しては、フリーダさんや村にいる詳しい人に教わればいい。



「よかったぁ……!」



 再び手渡したパーカーを抱きしめ、穏やかな笑顔を見せるレーネ。


 よし――この感じなら、機嫌も直してくれるだろう。



「お、オレもう行っていいか?」



 そう考えた矢先、燻っていた火種に風を吹き込むように、ネリーから一言が放たれる。

 当然のように、再びレーネの表情の怒りの色が差し込んだ。


 何余計なことを言いだしてるんだお前……!?



「ちょっとまってネリーちゃん。まだ言いたいことがあるから」

「だ、だって、レーネが怒ってるのって、その服をやぶっちゃったからじゃ――」



 オイこの期に及んで何かあるのか勘弁してくれ。



「レーネ。何があったんだ……?」



 それでも、聞かざるを得ない。

 同じ家の中で暮らしていれば、そりゃあ問題の一つも出てくるのはしょうがないが……胃を痛めることを恐れて解決しないでいるよりは、少しでも問題を解消していった方が、後々のためになる。


 胃が痛いことには変わりない。



「ネリーちゃん、お風呂に入らなくって……」

「おいネリー」

「お、オレのナワバリのにおいが分からなくなるだろ!?」

「縄張りが分かるなら石鹸の匂いでもいいだろうが。不潔だから風呂には入れ」



 そも、体臭というのは風呂に入って体を洗った程度で全部きれいさっぱり消えてなくなるわけじゃない。もしそうなら香水なんて普及しない。


 ……しかし、ネリーにとってはもしかすると、香水のようなものは不快なにおいに感じるのだろうか。

 例えば、犬は柑橘類の臭いが嫌いだという話も聞いたことがあるが……いや、だとしても風呂に入ろうとしないのは不潔極まりないな。



「それと、地下においてあるお肉、かってに食べちゃったり……あと、わたしがお世話してる苗、ふんじゃったり……」

「ネリー?」



 目を逸らされた。


 悪気が無かった――いや、というかそれが悪いことだとは認識していなかった、というところか。

 今まで、人間社会の常識なんて欠片も知らなかったんだ。理解はできる。同時に、これだけのことをやらかしてしまった以上、ネリーがここまで怒ってしまうのも理解できる。


 いや正直に言うと苗を踏んだことは俺としても許しがたいが。許しがたいが! それはそれとして頭ごなしに叱りつけても仕方ない。


 (もと)が野生動物のネリーの場合、感情的に叱りつけるよりは実利を交えて語る方が効果は高いだろう。



「……レーネ。とりあえず、ミリアムと一緒に苗を植え替えてきてくれ。俺はネリーと話をつける」

「うげ」

「は、はい……お願いします……」



 ちらとネリーに視線を向け――しかし、何を言うということもなく、レーネはミリアムと共に家の外へと駆けて行った。


 それを見送るネリーは……どこか気落ちしているようにも見える。同じ年頃のレーネに怒られた――嫌われそうだということに、ショックでも受けているのだろうか。レーネにもイヌミミが生えてしまっているし……ネリーから見た時に、僅かにでも仲間意識のようなものがあったのかもしれない。


 もっとも、今はレーネの方が拒絶するような素振りを見せてしまっているが。

 それ自体は仕方がない。なんだかんだでレーネもまだ子供だ。感情的になることがあったって当然だ。

 しかし、ネリーは本当に「自分が何をしてしまったか」ということが理解できていない。ネリーがこの家で過ごし始めたのが昨日の今日だということもある。物事の善悪を判断するための常識が、絶対的に不足しているのだから、そりゃあ何をしでかしてしまっても不思議なことじゃない。


 一つ、溜息をつく。



「な、なんだよ……」



 不安そうに俯いていたネリーが、こちらを見上げた。


 気を落とすな――と言ってやるのも、なんというか、違うな。うん。

 事実として、ネリーはそれと知らずに良くないことをしでかしてしまっている。ここで慰めていては、どこまで行っても自分の行動の是非というものは分からない。



「何だってほどじゃないけどさ……ネリー。あの服さ、ずっとレーネが大事にしてたものなんだ。えーっと……」



 ネリーに分かり易く「大事なもの」を伝える比喩――何かあっただろうか。


 豚に真珠、猫に小判――は分不相応なものの例えだ。だいぶ違う。

 飢えている時の肉……いや、食料に例えるのも馬鹿げている。そもそもそういう消耗品じゃない。

 じゃあ何だ? 誰かにとっての大事なもの……無くしたり、壊したりできないもの……。



「――――掌中(しょうちゅう)(たま)という言葉がある」

「わからないぞ何言ってるんだオマエ」



 分かってた。こうなることくらい。

 しょうがないじゃないか。ちょいどいい喩えが思い浮かばないんだから。ことわざとか故事から持ってくるしか思いつかなかったんだ。

 ……というか、たとえ話に拘泥(こうでい)して本題を忘れちゃいけないな。うん。


 ともあれ。



「……さっきの言葉はともかくさ。あれだけ怒るくらい、大事なものなんだよ。それは分かっただろう?」

「う、うん。さすがにオレもそれは分かった。大事にしてるんだな、うん」

「だから、今度から気を付けて……それから、レーネにも謝ろう」

「ゆ、ゆるしてくれるか? だいじょうぶか?」

「ちゃんと謝ればな」



 レーネだってずっと怒ってるわけにもいかないし、誠実に謝れば十分、許してくれるだろう。あくまで「何が悪かったのか」をネリー自身が認識して反省したことを示せば………………渋々ながら許してはくれるだろう。多分。服は直ると言ったし。きっと。うん。大丈夫。なはずだ。



「で、だ。お前が踏んだ草だけど」

「うん。何なんだ? ナエとかいってたけど」

「あれは食い物だ」

「……え?」



 さっ、とネリーの顔から血の気が引いた。


 動物にとって重要なのは、言うまでも無く種の存続……だが、そのためには当然、体を維持する食料が必要になる。元々が野生動物で、基本、本能に基づいて行動しているらしいネリーにとって、意図せずとはいえその食料を無用に踏みつけてしまったのだ。ショックを受けても――というか、もういっそ愕然としてても仕方がない。

 見れば膝が震えている。うちの食糧事情を理解して……ないこともないし、ようやく自分のやったことについて理解したのだろう。



「正確には、食料になるものが生える、だけど……まあいいか。ともかく、レーネはあの苗も大事に育ててたんだよ」

「あ……あう……お、オレ……そんなものを……ふんずけちゃって……」



 座り込んで頭を抱えるネリー。


 やはり、というか……ネリーは常識が無いだけで、それほど俺たちと感性が異なっているわけじゃあない。もっとも、それが致命的とも言えるのだが――こうして話せば互いの意識の乖離もある程度は解消できるようだ。他に野生動物なんかを魔族に引き込む場合には役立つだろう。



「……まあ、そう気を落とすな。分からなかったんだから、しょうがないよ」

「でも、レーネが……」

「今は怒ってるかもしれないけど、謝れば許してくれるって」

「わ、わかった。今から行って、あやまって…………」



 と。部屋を出ていきかけたネリーの動きが止まった。


 そのまま、錆びた鉄を擦りあわすような音が鳴るような錯覚に見舞われるほどにぎこちない動きでこちらを振り向く。



「……あ、あやまる……って、どうするんだ……?」

「――――そこからかよ」


 つい言ってしまったが、分からないではない。


 そりゃあ、教えられなきゃ謝り方なんて分からないだろう。そこに関しては誰だって同じだ。

 もっとも、幸いなことに謝ろうという気持ちと罪悪感は持ち合わせているようだ。無駄に意地を張って謝らず――では、話がこじれてしまうところだった。



「頭をこんな風に下げて、『ごめんなさい』って言えばいい。レーネなら、それで許してくれるさ」



 何度も言うようだが、レーネは聡い子だ。こうしてわざわざネリーが頭を下げて謝ってきたとなれば、その裏で何があったかを察することはできるだろうし、それ以上怒る必要が薄いということも理解するだろう。それで、この件は解決だ。



「わ、わかった!」



 顔を上げ、レーネたちの出て行った方へと駆けていくネリー。

 先程までの恐れは鳴りを潜め、今はとにかくレーネに謝ろうという一心が見て取れた。

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