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傷を伴い

 ――――数十分ほどして。


 満身創痍の(テイ)で山小屋に帰り着いた俺を待っていたのは、三者三様、それぞれ表情に驚きの色を浮かべた三人だった。


 アンナは当然に、あのような化け物と戦って生きて帰ることができたから。

 ミリアムは、もう少し時間がかかるか、ないしはもっと無傷で帰ってくるものと考えていたからだろうか。想定と違う状況に戸惑ってもいるようだった。

 レーネは……単に状況を理解していないだけだろう。俺があの狂犬と戦ったことは……外から聞こえてくる喧噪で気が付いていてもおかしくないが、だからといって実際にそれを見たわけでも聞かされたわけでもない。外に出て行った俺が突然血塗れで帰ってきたのだから驚くのは当然だ。


 壁に背を預けずるずるとへたり込む俺に、最初に駆け寄ってきたのはアンナだった。



「リョーマ!? 大丈夫なの!?」

「あ、ああ……まあ……死んではない」



 右腕は爪に引き裂かれてズタボロになって、一応の止血を施したにも関わらず、血液は染み出すように溢れ出ている。着地の際の衝撃で傷めた足は、今頃になって痛みを訴えかけていた。押さえつける前か後か、ともかくどこかのタイミングで引っ掻かれでもしたか、左脇腹にも爪跡が見られた。


 見るだけで、もう痛々しい。アンナが、眉を顰める……を通り越して、もう目を覆ってしまっていた。



「傷口……見るのなんて、慣れっこだろ……?」

「無理。人間は無理」



 野生動物……もっと言えば死体なら割り切りはできるけど、人間にはできないか。

 まあ、理解できないこともない。知人が血の滴るほど生々しい傷口を晒していて、平常心でいられるかという話だ。少なくとも俺には無理だ。実際、遠巻きにやり取りを見ているレーネは涙目になっているし、ミリアムも腕をくんで思案顔……な風に見せかけて、自然な風を装って傷口から視線を逸らしている。


 お前らもうちょっと耐性持てよ。俺が言えたこっちゃないが。



「そ――それより手当て! 手当てしないと!」

「あ、アンナさん……そ、それはちょっと、むずかしいかも……です」

「何で!?」

「……包帯も薬も取り置きが無いからですよ」



 ……我が家の現状についてミリアムが告げると、アンナはとびきり濃いお茶でも飲んだかのような渋面を浮かべて見せた。



「……明日の朝、すぐ、お医者さんとこ行きなよ」

「……金が無い」

「今回のコトがコトだし、あたしが出したげるから。行くよ」

「お、おう」



 さっきまで暗さにビビッて震え上がってたくせに、屋内に戻ってきたら突然強気になったなこいつ。

 いや状況が状況だけに仕方ないが。多少自分のことは棚上げしてでも強気に出なきゃいけない場面でもあるが。


 しかし面倒見がいいな。そこまで抱え込む必要も無いだろうに――と、思いはするが、面倒をみられる側の俺たちが助かっているのもまた事実。ここは素直に甘えておくとしよう。


 と、話が終わったことを察し、不意にミリアムが立ちあがった。



「――では、そろそろお帰り願います」

「えっ」



 有無を言わさぬ、はっきりした口調。右手には火の灯った……元々はアンナのものだろうランタンが握られている。

 多分、ミリアムが油を差して火種も入れなおしたのだろう。だろう、けども。



「……み、ミリアムさん、せめてリョーマの応急処置だけでもして、から、帰ろうかなって……思ってたんだけど……」

「私がやりますのでどうぞお帰りなさって結構です。というか油も有限でして、特に当家では非常に……ええ、非常に、貴重ですので……無駄遣いする前に帰っていただきたいと思っているのですが」



 理屈としては、まあ、その。間違っていないわけじゃあない。


 アンナはハンスさんやフリーダさんが気付く前に早く帰ってしまうべきだし、応急処置ならわざわざアンナの手を煩わせなくとも、こちらでもできる。油なんかはどうしたって料理するには必要になるものだし、事実そんなに安いものでもないのだから、無駄遣いする前に帰るのが一番いい。


 ただ……ちょっと急ぎすぎじゃあないだろうか。いくらこっちにも思惑があるとは言っても、疑念を抱かせてしまっては本末転倒もいいところだというのに。


 他方、アンナはというと。



「……お、怒らせちゃった……?」

「…………」



 一言、どことなく怖がっているような様子で耳打ちしてくるアンナへ、俺は無言を以て応えた。

 当然と言えば当然に、アンナにはこちらの思惑など知る由も無く……実際、現実に起こっていることでしか判断もできないだろうし、ミリアムがまくしたてるのを見て「怒らせた」などと勘違いを起こしていた。


 いや、そうなるのも当然というか。俺たちも狂犬への対処を行うべく行動していたわけだし、別に俺自身は何も気にしていないのだけれども。それはともかくとしてあの狂犬が襲い掛かってくるきっかけを作ったのはアンナとも言えるし、足を痛めたのも結果的にはアンナがいたから、かもしれない。と言ってもそんなの、状況からすれば仕方がないことだし、俺自身が望んでやったことだ。後悔も遺恨も何も無い。


 それでもこの状況を利用するってのも、やっぱり詐欺師じみてるな。今回ばかりは俺がやったことじゃないが。

 いや、無言でそのまま進めて実質的な援護を送っているあたり、結局変わらないともいえるけども。


 嘘は嫌いなはずなんだが、なぁ。



「ミリアム、そう邪険にするなよ。アンナも、悪い。今日のところは、帰った方がいい。医者にはちゃんと行くから」

「……うん、そう言うなら……そうしとく」



 不服そうに、しかし不承不承といった雰囲気を見せて、アンナはミリアムからランタンを受け取った。



「レーネちゃん、またね。……あと、ミリアムさんも」

「あっ、はい、また、です……」

「ええ、またいずれ」



 片や、おずおずと。片や、やっぱりぞんざいに一言ずつを述べて、俺たちはアンナを見送ることとなった。


 扉が閉まり、それに伴ってミリアムも応急処置を始める。

 傷口に真水を注いで、上から綺麗な布で縛る――消毒の工程は無いし、そもそも消毒用の薬品も無いのだし仕方がない。


 言葉にすればたった二工程ほど。ごくごく単純な作業だが、それでも俺にとっては刺激が強すぎた。ぬあ、とかぐう、とか。時にはとても言語化できないような悲鳴を上げていたような気がするが……もう覚えていない。というか覚えてなんていられなかった。どんな情けない声を上げていたかは……全部終わった後のレーネとオスヴァルトの何とも言えない表情を見れば、否応にも知れるだろう。というかオスヴァルトめ、いつの間に出てきた。


 そうして、しばらく。数分ほど経った頃だろうか。



「――では、そろそろよろしいですか」



 流石にもうアンナが戻ってくるということも無い、と確信したのだろう。応急処置を終えたミリアムはそう切り出した。



「あ……出る前に、『話がある』って言ってたことですか?」

「いや、そっちじゃないよ。それもおいおい話すけど……問題はそっちじゃなくて」



 言いつつ、一度家を出て、玄関から見て死角になる位置――ちょうど、山小屋の裏手に放置せざるを得なかった「それ」を左腕で抱え上げる。


 結局のところ、「これ」がアンナを早く帰らせなければならなくなった理由だ。ただあの狂犬を駆除したその成果、というだけならまだしも……そいつを魔族にした姿(・・・・・・)など、見せられるはずがない。



「……こいつのことだ」



 小屋に戻り――俺は、その少女(・・)を床に転がすようにして寝かした。


 少女……そう、少女だ。


 年齢は、恐らくレーネと同年代くらい。身長もおおよそ同じくらいだろう。肌の色は、見る者に健康的な印象を与えてくるような、褐色に近い小麦色。髪は……元の犬が割合長い毛をもっていたせいだろうか。肩甲骨あたりまで髪を伸ばしているミリアムと比べても相当に長い。腰……いや、膝裏に届くくらいまであるのではないだろうか。当然、手入れなどされていないせいでボサボサだが。

 頭頂部には、レーネと同じように獣耳が鎮座している。ただ、レーネの狼に似たそれとはまた違って犬耳だし、人間の耳は見られない。この辺りは人間が基になったか犬が基になったかという違いだろう。


 ともあれ。先の狂犬は生物の分類としてはメスだった……ということだが、こうして改めて見てみると――首を折りかけたり、その状態で地面に叩きつけて押さえつけたりしたことにひどく罪悪感を覚えてしまう。姿かたちでものごとを判断するのもいささか卑怯な姿勢だが、そこは人間の……というか、曲がりなりにも若者なのだから少しばかりはそういった偏見があるものとしてほしいところだ。


 問題は、この少女の格好がほとんど全裸に近いということか。


 着せているのはボロ布一枚。当然だ。そもそも動物は衣服なんて着ない。実際、こう(・・)なった直後は本当に全裸だった。それに、俺が元々着用していた上着を着せて体裁だけ取り繕ったのが、今の姿だ。



「どちらさまですかっ!?」



 ……と、レーネが状況を把握しきれずにそんなことを叫んだ。

 うん――まあ、何も知らずにホイと見せられても「誰だ」だろうな。そりゃあ。



「先の『犬』ですか」

「ほう!」



 対して。比較的精神的に成熟している二人の方は、この状況も難なく理解してくれたようだった。

 置いてけぼりになってしまっているレーネが少し不憫だが……いや、説明せずにおくのも可哀想か。



「ど、ど、どういうことなんですか?」

「こいつが、俺たちの探してた『怪物』。魔族じゃないのにとんでもない魔力を持ってた……『犬』、だったんだけど」

「え、犬……え?」



 混乱している。そりゃあそうだ。俺だってちょっと混乱している。


 魔族化すれば知性を持つようになる――とは思っていた。思っていたが、しかし、こういう方法で知性を獲得するとは。


 いや、そりゃあ人間に近づけばそれだけ思考能力もグンと上がることだろう。考えるべきことも増えるし。しかし、俺はそもそもあの犬の姿のままで知性を持つものと思い込んでいた。レーネのように多少姿かたちが変わることはあっても、それも常識の範疇だと思っていた。それがまさか、ほとんど人間そのものの姿に変ずるとは……。


 


「……魔族化の術式を使ったら、こうなっちゃって、な」

「こう………………なるんですか」

「こう、なったんだ」



 なってしまったんだ。


 なってしまったんだが――流石に今回は俺も切羽詰まってたし、術式を使う際にも余計な考えは無かったはずだ。だというのにこういう結果になったというのは……どういうことだ?


 助けを求めるようにミリアムの方に視線を向けると、仕方ないとでも言いたげに軽く一つ息をついた。



「なんだかんだ、人型の方が便利ですし……動物を魔族化する際は標準設定(デフォルト)人型に(そう)なるんですよ」

「……便利か?」

「ええ、まあ。今の社会は人間を中心に形作られていますし……生産される道具なども、人間が消費・使用することを前提に作られています。それから、食料面の問題ですね。嗜好の問題もありますが……食性も変わりますし、ある程度どんなものを食べても生きていけるようになります」



 なるほど、利便性の問題か。それなら理解もできる。


 元々、魔族化の術式がどのように成立したかは定かではない。しかし、術式それ自体はどのようにでも改変がきくものだし、時代の変遷や技術革新に合わせて……あと、俺を召喚するのに合わせてそうした改良が為されていても不思議じゃあない。元々は、適当な動物を見繕って新たな冥王に据えるというだけの話だったわけだし、むしろそうなっていると考えることが自然だろう。レーネにこの術式を使った時に――「他の生物・非生物を魔族化させるとき、魔力と融和性を持たせるために肉体が変容するもの」と説明されたあたりで想定しておくべきだったかもしれない。


 ……だからと言って納得できるわけじゃあないがな!



「ふむなるほど確かにそれも然り、ですがご存知ですかな王よ、それとミリアム殿も! 元来人間というものは消化器系や歯の形状から雑食性の動物ではなく草食性の動物であると研究されており、まあ実際には現代に至るにつれて食性も多様化が進み雑食性になったということではありますがいえしかしッ!」

「そこまで聞いてないぞオスヴァルト」



 物知りだなあと感心しはするが。話を逸らすのはやめてほしい。



「……ともかく、です。リョーマ様。いつものようにただなんとなく哀れだからとか、そんな理由で魔族にしたわけじゃあないでしょう」

「まあ……一応」



 それも無いわけじゃあないけども、わざわざ口に出して言うことでもないだろう。

 多分ミリアムはその辺も想定して言っていることだろうし。



「普通、あんな怪物がいたら大なり小なり痕跡があるはずなんだ。犬は成長が早いなんて言っても、一日や二日であそこまで大きくなるわけがない」



 だいたい、俺の腰元くらい……大型の成犬だとしても、あそこまで育つには半年か一年くらいはかかるはずだ。犬を飼ったことは無いから、あくまで「そういう話を聞いた」という憶測程度のものだが……どちらにしても、一朝一夕で成り立つ身体ではない。

 犬は元来肉食の動物だ。生きていくには狩りをする必要があるだろう。



「どこか、その、よそから来たんじゃないですか?」

「うん……かもしれない。けど、犬っていうのは縄張り意識の強い動物って聞いたことがあってさ。そう簡単に、他の場所からやってくるってことは無いと思うんだ」



 勿論、例外はあるだろう。外敵に追われて逃げ出してきたとか――食料となるものを食い尽くしたから別の地域に移った、とか。


 しかしそんなもの、どちらも先の狂犬に関しては当てはまるものではない。必要な食料も普通の犬と同じ程度だろうし、あれだけの能力を備えていれば大抵の外敵を排除できる。どちらにしても、わざわざここまで来るような理由は無い。



「でも、もしもこの辺りで生きていたって言うんなら……グレートタスクベアの死体ってだけじゃない。もっと大きな、分かり易い痕跡が残ってないとおかしいんだ。何せ、アンナが罠を仕掛ける時の金属音一つで、怒って襲い掛かってきたようなヤツなんだから」



 一切の躊躇なく、障害物を破壊しながら文字通り「まっすぐに」向かってくる狂犬の姿が思い返される。


 たかが金属音一つであれだ。縄張りに踏み入ったり、狩りの獲物を横取りしようとする動物でも見かけようものなら……その後にどうなるかは、想像に難くない。



「なるほど、この犬を魔族にも至らない半端者に仕立て上げた人間が存在する、と」

「どうだろう。人間の可能性が遥かに高いけど、そうじゃないかもしれない」

「……というのは?」

「ミリアムが生きてるんだ。他に生き残りがいて――例えば、ノウハウの失われた魔族化の術式を再現するために、野生動物を利用して試している。そういう可能性もありえないわけじゃあないんじゃないか」



 俺の言葉に、ミリアムは納得したような表情を浮かべた。もっとも、僅かに憂いを含んでいるようにも見えるあたりは……同族がそんなことをしでかしているかもしれないという事実を否定しきれないためか。


 もっとも、どれも憶測に近い想像だ。明確にこれと言い切れるものは無いが、可能性を頭に留めておいて損はないだろう。

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