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その牙を折れ

「ぐぅ……ッ!!」



 地面に到達したその瞬間、落下の衝撃をそのまま俺の体で受け止める。

 足先に激痛が走り、聞いたことの無いような音が体内でこだまする。足の指の骨でも折れたのかもしれないが、この状況では些事に過ぎない。現実的な話、足指の骨を折ったところで日常生活に支障が出ないどころか、骨折したことにすら気付かないような者もいるくらいだ。なら、今ここで走ることには何の問題も無い。


 ……はずだ!



「だ、大丈夫なの!?」

「問題ない!!」

「顔真っ赤だよ!?」



 距離が近いし、月明かりも届いているからこちらの顔意をも見えてしまっていたのだろうか。恥ずかしさで思わず、声が大きくなる。だからと言って致命的に行動に支障が出ているというわけではない。ただちょっと……いや、かなり……結構……うん。少しばかり痛いだけだ。

 顔が真っ赤になっているとしたら、それはアレだ。さっき、着地するためにアンナがしがみついてきて密着していたせいだ。


 ……そっちの方が尚更悪いな!



「――――……」

「グァァァァッ!!」



 些細な言葉のやり取りの最中、犬が着地した方へと視線を向ける。


 当然、俺ほど下手なことにはなっていない。体捌きで衝撃を逃がし、殺し、全くの無傷のまま、ヤツは俺と並走を続けていた。

 こちらは、痛みで僅かに速度が落ちてきている。対してあちらは万全――このまま走り続ければ、どうあっても必ず追いつかれる。


 無論、それは――どこまでも、永遠に走り続けることになったなら、だが。



「……見えた!」



 こうしてわざわざ逃げ続けてきたのは、あくまでアンナを山小屋まで送り届けるため……一切の憂いなく、この犬と相対するためだ。



「で、でもどうす――」

「ミリアム!」



 問いかけられるよりも早く、まず間違いなくそこにいるであろう彼女へ声を放つ。

 魔族の五感は非常に鋭敏だ。僅かでも、日常に聞くはずの無い音や、感じるはずの無い臭いなどがすれば、その時点で……たとえ眠っていてもすぐにわかるほどに。


 この犬の唸り声、俺が跳躍し、落下した際の音……「判断材料」は充分にバラ撒かれている。ならば、俺の行動パターンを理解して先読みして行動できるミリアムが、この状況を想定していないはずがない。


 実際――既に何らかの異変が起きていることだけは、察知していたのだろう。既に、ミリアムは小屋の外で腕を組み、こちらに走りくる俺たちを視界に収めていた。


 ……もっとも、目を剥いて驚きの感情をそのまま表情に出してしまっているあたり、(くだん)の怪物――俺を追跡し続けている狂犬を引き連れていることだけは、どうも想定外だったようだが。



「何事です!?」

「説明は後!」



 言葉と共に急制動をかけ、抱きかかえたアンナをそのままミリアムへと受け渡す。

 交錯するその一瞬、ミリアムとアンナの表情が苦虫を噛み潰したような苦渋に満ちた表情になっているようにも見えたが…………考えずにおこう。二人が互いを苦手に思ってることくらいは知っている。


 しかし、速度を一時的に抑えると一口には言っても、音速にまで迫ろうかという非常識な速度だ。殺しきるには相応の修練か――ないしはもっと分かりやすく、魔法の介在が必要になる。だが、俺はどちらも持っていない。


 ならば――この勢いのままに地を蹴り、背後。再び、視界に狂犬(ヤツ)の姿を収め。



 ――――激突する。



「おおおおおおおぉぉッ!!」

「グウウゥゥァァァッ!!」



 どれだけ相手が「半端」な存在だとしても、戦闘の経験……どころか、一切の武道や体術の訓練を行っていない俺にとっては紛れもない脅威だ。無理にでも自分自身を奮起させるべく、叫びを上げる。


 喧嘩もまともにしたことは無い。ほとんど、漫画やアニメの見様見真似だ。振りかぶった手はしっかりと握られてすらおらず、(カリゴランテ)を現出することすら忘れてしまっている。バランスを崩して前に傾いた姿勢も、見栄えが悪いことこの上ない。


 恐れはある。だが、眼前の脅威に戦慄(おのの)き、震えているだけでは何も解決はしない。何よりも、俺は脅威(それ)を取り除きに来たのだ。経験の浅さなど、言い訳になるものか――――!



「らァッ!」

「!」



 横薙ぎに振るった右腕は、音を置き去りにするほどの速度で狂犬へと襲い掛かる。

 だが、それすらも正しく認識し――実際、見えているのだろう。ほんの薄皮一枚、寸でのところで身を捻り、躱される。



「ゴアァッ!!」



 既に、こちらの体勢は崩れてしまっている。無茶苦茶な状態から強引に背後に向き直り、攻撃にまで移ったせいだろう。空振りに終わった右腕が勢いのままに空を切り、右の半身は既に地面に接そうかという状態にまで陥っていた。


 更に、狂犬は身を捻ったその体勢のままに、牙を剥き出しにしている。狙いは首だろうか。確かに、頸動脈でも断ち切りさえすれば、致命傷を与えるには充分だ。


 ――だが。



「ッ!!」



 左の掌を思い切り地面に叩きつけ――反動で、自分自身の肉体を跳ね上げる(・・・・・)

 飛び上がった体は宙で回転し、放り出された右の腕は回転する勢いのままに……裏拳のような格好で、狂犬の顔面へと叩き込まれた。



「ガフッッ!?」



 流石に、先程の「置く」形で蹴り飛ばした時と同じ、派手に吹き飛ぶ「だけ」の一撃。

 どうせあの狂犬のことだ、瞬時に体勢を立て直して再び襲い掛かってくるだろう。


 それでも、一拍置くだけの間は作ることができる。狙いは「そこ」だ。

 どうせ俺の体勢も崩れてしまっている。ここで一度仕切り直せなければ、あの狂犬は速度と地の利を活かして延々と攻撃を続けるに違いない。そうなればジリ貧だ。いずれは首に食いつかれることになる。その前に一度距離を離す。


 何より、このままこの山小屋の周囲で戦っていては……レーネが世話をしている作物や、山小屋にまで被害が発生する……!!


 幸い、ミリアムもアンナも既に山小屋の中に隠れている。万が一そうなっても、命の危機は無いだろうが……。



「ええいッ!!」



 先程から感じているが――この体は文字通り、俺の思った通りに動く。


 多少のイメージとの相違はあるにはあるが、それもほんのわずかなものだ。それに限っては、俺に体術の心得が無いからだが……それでも、まったくのイメージ通りに体を動かすことができる。多少の無理な姿勢は元より、普通の人間には到底成し得ないような動きまでも。


 それでも、魔法を使う……カリゴランテを形成する余裕すらも無い。それは、俺が魔族の戦いというものに慣れていないという以上に。



「ガアアアアアアアアアァァッ!!」

「く……ッ!?」



 この狂犬が、文字通りの「狂犬」に過ぎるからだ。


 体勢を立て直すと同時、恐ろしいほどの勢いで飛び掛かってくる。当然、俺の方は迎撃の用意はできているし、攻撃をいなすことそれ自体は難しくない。剥き出しになった強固な爪も、それに自体に触れさえしなければ何も問題は無い。横から、足を押すようにして体勢を崩してしまえばそれで終わる話だ。


 だが、それ自体はこの犬でも理解していて然るべきことのはずだ。野生動物なら尚更……相手の隙を突くということがどれだけ狩りにとって重要な要素か、分かっていないはずがない。たとえそれが本能から生じる行動だとしても、無意味に、無秩序に攻撃を仕掛けてくるなんてことは、普通ありえないことのはずだ。


 ……攻撃が苛烈に過ぎる。先程からの執拗な追跡もそうだが――そもそも、グレートタスクベアを殺した件に関してもそうだ。いくらテリトリーに入ってきた敵対者だからと言って、取って食うこともせず殺して放置しておくなど、野生の動物としては不自然もいいところだ。あれだけの巨体、巣に持ち帰れば数週間は食いつなぐことができるのだから。


 野生の動物は無益な殺生をしない、というのはあくまで迷信だという話を聞いたことがあるが……それでも、無暗矢鱈に狂暴性を発揮することなどはありえないだろうと思う。


 やはり、何かがおかしい。この犬は異常だ。


 だからと言って病気……狂犬病という線は薄い。魔力を多量に持つことで、生物は身体的に強化されるが――そこには当然、免疫系も含まれる。実際に、俺が自分の身をもって証明したことでもある。以前、空腹に耐えかねて食べてしまい、腹を下した毒林檎……あれは、普通の人間が食べたら文字通り喉を焼くような痛みに見舞われるほどの、腐食性の毒を持っていたらしい。それをただ「腹を壊す」程度に抑えられるほどの強靭な体だ。


 たとえ半端な状態であっても、半端なりに頑丈なことは確認できている。ここまでの俺の攻撃に対して殆どダメージを受けたように見えないこの狂犬が、まともな(・・・・)病気に罹るとは到底思えない。こちらの世界の病気についてはそれほど知識は深くないが……もし万が一魔族にすら感染するような病気があるようなら、人間はとうに滅び去っているだろう。


 考えうる原因は、それこそ「半端」であることだろうか。しかし、それならエフェリネもそうなっていないと……。



「ゴアアアッ!!」

「――――!」



 聞こえてきた唸り声に、思考を中断させられる。


 やはり、狙ってくるのは首……それも、先程と同じく、両の前足をこちらに突き出した形での猛進。

 動きは、直線的に過ぎる。迎撃するには僅かにタイミングが遅いが、回避するだけなら十分に間に合う――と、認識したところで、狂犬の進路上に「あるもの」を目にした。



「くそッ!」



 吐き捨て――同時。


 狂犬の爪が、俺の腕に突き立った。



「づ……!!」



 左腕に鋭い痛みが走る。表皮が破れ、肉が裂け、同時に僅かな量の鮮血が周囲に散った。


 ――だが、それだけだ。

 犬が、人間に飛び掛かって爪を立てた……その程度の軽傷でしかない。


 もっとも、それは俺が魔族だからという前提がある。普通の人間なら即座に腕を落とされているだろうし――何より、どこにでもあるような家庭菜園が、この狂犬の突撃に耐えられるわけがない。


 野菜というのはデリケートなものだ。ただでさえ、俺たちは人外の能力を持っているのだから、細心の注意を払って栽培しなければならない。そこに無遠慮に突撃でもされようものなら……どうなるか、結果は見え透いている。



「ガッ!!」



 業を煮やして、狂犬が腕に食いつくべく牙を剥く。

 首を狙って殺すには骨の折れる相手だと認識したのだろう。先に腕や足を潰してから確実に殺すことを考えた……か、どうかは定かではないが、どちらにしてももう遅い。

 その顎が腕に食いつくと同時に首根を掴み、絶対に離れないように(・・・・・・・)鷲掴みにしながら、全力で走り出す。



「っ……おおおぉッ!」



 見る間に山小屋が遠ざかっていく。音速を遥かに超えた猛烈な速度での走行……咄嗟の出来事に、突き立てられた狂犬の牙が抜け、顎の力が僅かに緩む。


 それを認識した瞬間には、左腕が動いていた。狂犬の前足――ちょうど、掴みやすい位置にあったそれを握り締め、走る勢いそのままに、力のベクトルを、そのまま下へ。狂犬の体を魔力によって固め、硬化させた地面へ。



「せええええええェェッ!!」



 ――――叩きつける。



「ゴフッッッ!!」



 腕の下で、どこか湿り気を帯びた呻き声が放たれた。


 首が折れたか、それとも内臓に傷でも負ったか……いずれにしても、それでも意識を刈り取るには至らない。瞳から光は失われておらず、剥き出しにした狂暴性が衰えるような様子も無い。


 ここから仕留めきることはできる。(カリゴランテ)を現出し、首を刎ねればそれで終わりだ。


 ……だが、それではだめだ。恐らく、状況は何一つ改善しない。

 だいいち、前提からしておかしいのだ。そもそも、どんなに半端で魔族の「なりかけ」だからといって、こうまで狂暴性を剥き出しにする理由が無い。野生動物なら尚更に。だからずっと、人為的な干渉(・・・・・・)を疑っていた。


 そもそも、魔族なら意思の疎通ができて然るべきはずだ。ミリアムの言葉の通りなら、当初はその辺にいる野生動物を魔族化して、新たな冥王として据えるはずだったのだ。魔族化すれば相応に知能が増し、少なくとも意思疎通は可能になる……ということでなくてはおかしい。


 加えて、こんなヤツが近くの山にいるのならば、それこそこの周辺の全生態系がズタズタになっているのが道理だろう。そんな兆候がこれまで見られなかったということは……つまり、こいつは文字通り突然、何の前触れもなく現れたということになる。物理的にも生態的にも、そんなことはありえるはずがない。


 ――だからこそ、「当事者」に話を聞かなければ。



「――――……」



 体幹から肩、肩から腕、腕から掌へ――魔力を通し、放出し、全意識を集中してその形を変えていく。


 元々、温度を下げる「だけ」の術式ですら数十秒を要する術式の形成……既に二度経験しているとはいえ、ミリアムの使うような魔族化の術式(・・・・・・)の形成など、俺一人では難しい。


 だから、はっきり言ってこれは力技だ。俺はミリアムのように、ごく最小限の魔力で微小な術式を作ることはできない。できないが――それはあくまで、「同じように」できないというだけのことだ。俺が描きうる大きさで、それ相応の時間をかけさえすれば、術式を組み上げることは充分にできる。



「……っ」

「グアアアアアアアアァァッ!!」



 首根を押さえつける右腕に、狂犬の前足の爪が突き刺さる。痛みに思わず顔をしかめるが、術式の形成を止めるわけにはいかない。


 自然発生したならそれでもいい。だが、仮に何らかの異常な原因があるとするなら、特定して取り除かなければならない。それを知るためには、この狂犬の体内の魔力を安定化させ、魔族にすることで意思疎通が図れるようにする必要がある。


 勿論、魔族化の原則である「両者の合意」が為されていないのでは、という問題はある。しかし、自意識もクソも無いような狂暴化した野犬に合意を求めることができるとも思えない。だから、これは一種の賭けだった。


 右腕に収束した魔力を放つ。ミリアムが以前そうしていたことを思い出しながら、徐々にその形を整える――が、当然、術式のの大きさはミリアムの作るものの比ではない。何十倍、何百倍……魔力それ自体が放つ淡い光で周囲が照らされるほどに巨大な術式が、ゆっくりと組み上がっていく。


 同時に、狂犬からの抵抗も増す。「何をされるか全く分からないが、何かされる」――などというのは、底知れない恐怖だろう。だから反撃する。蹴り、掻き、抉る。右腕はヤツの爪に幾度も切り裂かれている。どこか、血管を損傷してしまっただろうか。術式が構築されていく速度に比例して、血が流れる勢いも早まっていく。必死こいて狂犬の首をわし掴みにしてはいるが、既に右腕には痺れが走っている。もって数分――いや、数十秒。痺れすら消えてしまえば、この狂犬を押さえつけておくことはできない。


 血の飛沫が周囲に散り――術式が完成に近づいていく。同時に、徐々に右腕の感覚が失われていき、狂犬の拘束が緩んでいく。


 そうして、手が首から離れる、その刹那。



「大人しく――しろォッ!」



 完成に至った術式を、掌底を叩き込むように、狂犬に向かって打ち放つ。


 ――――そして、強烈な光が辺りを包み込んだ。

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