モディ・ドゥー
「大丈夫リョーマ!? そこにいるよね! まずはお互いがいる位置を把握して、ちゃんと伝え合って歩いていくのが森の中では重要なんだけど! リョーマはそういうこと知らないだろうしこんな暗くて周りが見えないと焦って安全確認もおろそかになっちゃってはぐれて遭難しちゃったりするようなことが」
「お前が大丈夫かよ」
……森の中に向かって歩き出して、十数分。先程からアンナはずっとこんな調子で俺の後ろでびくびくしながら歩き続けていた。
うん。――――うん。まあ、別段おかしなことでもない。山の中についてよく知っているということは、その恐ろしさについてもよく知っているということでもある。視界が制限されている現状、普段はっきりと見えているはずのものが見えない……というのは怖いだろうというのも、まあ分かる。決しておかしなことでもない。
しかしあれだけ威勢よく飛び出して来ておいてこの醜態はどうだ。
俺はどんな反応をして返せばいい。
「うぅ……だ、だって普通、夜に山になんて入らないし……夜行性の動物の方が多いから、入っちゃいけないっていうのが普通だもん……」
「そりゃそうだ。でも、それを承知で来たんだろ?」
「そうだけどぉ……!」
……まあ、今のところ、怖がっているだけで案内をしてくれていないわけじゃあない。
指示の一つ一つは的確だし、怯えて足がすくんで動けないというわけでもない。ただちょっと体の震えが尋常じゃなくて、口数が多くなってしまっているだけで。
しかし、そう思うと先程――クラインから出てすぐにアンナと出くわしたあの時、妙に足が震えているように見えたのはこういう理由か。ランタンを持っていてなおこの様子となると、風に吹き消されでもしたらどれだけ気が動転してしまうことやら。
「じゃあ、ほら。手でもつなぐか?」
からかうつもりで……実際アンナが応じるとも思えないし、なんとなしに手を差し出してみる。
冷静さは失わないだろうとしても、ちょっと怒っていつもの調子に戻るならそれが一番だし、何より俺がこの空気に耐えられない。
軽く笑いながら、そんなことを思っていたのだが。
「……うん」
――――本当に応じるところまでは、全く想定していなかった。
「お、おう……」
左手に細い指の感触が絡む。思わぬ行動に、顔が熱くなるのが感じられる。
元々、弓を引いたりナイフを扱ったりと……たこができたりして固くなっていそうなものだが、想像していたよりはよっぽど柔らかい。年頃の女の子――というのがどんな風なのかは分からないが、元の世界の基準で考えると、部活動を真剣にやっている女の子なんかは、こんな風でもおかしくはないんじゃないかと思う。
ミリアムからは散々ムッツリだのヘタレだのと言われてきたが……やっぱり、否定はできそうにない。そもそも、高校に上がってさえ自分のことに手いっぱいで、他の何事かを考えるような余裕ができたのもつい最近のことだ。当然、女の子に慣れるなんてことはできるわけもないし……ヘタレとか言われるのもムッツリとか言われるのも、単に距離感が図り切れていないだけだ。だから何事にも躊躇せざるを得ないのだし、発するべき言葉も分からず内に溜め込んでしまう。今もどうしたらいいのか分からない。誰か助けてくれ。
「こ……こんなもんで、落ち着く……か?」
「まあ……誰かいると思ったら、少しは、うん」
ちくしょう。俺の気も知らずに落ち着きやがって。
いや、別に悪いことじゃないけども。それでもなんだか納得いかない。いや、そういう気持ちになってしまうのもどうだ? もしかして今、俺の方がよっぽどアンナよりも混乱していないか?
「落ち着いたんなら、いい」
結局、その一言を告げるので精いっぱいだった。
意気地なしと笑わば笑え。しかし、出会って二か月程度しか経っていないような女の子と手を繋ぐなど、俺にとっては過去に例のない出来事だ。いや、あったかもしれないけど、少なくとも記憶には無い。混乱くらいするし、動揺だって尋常なものじゃない。心臓が早鐘を打つのが止まらない。急いで終わらせないと、卒倒してしまうかもしれない……。
「と、ともかく行こう。早くしないと――」
「あ、待ってリョーマ、そろそろ罠を仕掛けないと」
と、腰に提げたトラバサミに手を伸ばすアンナ。
金属同士の擦れ合う特有の音響が周囲に響いた。
「もう……か?」
「あんまりグレートタスクベアの死体のあった場所に近すぎても、生息範囲は分からないしね。それに、もうだいぶ歩いたと思うんだけど……?」
周囲を見回すと、確かにもうほとんど、今日の昼頃に来た場所だった。足元の山菜の摘み跡は俺が採取した痕跡だろうし、二人分の足跡も見える。
……なるほど、俺が気付いていないだけでもう随分歩いてきていたのか、俺たちは。
俺はどれだけ「女の子と手を繋いでいる」という事実に動揺していたんだ。
「それより、ちゃんと周り見ててよね。万が一なんてそうそう無いと思うけ……ど……うぐ、堅い……」
当然だが、トラバサミは持ち歩く際には流石に閉じた状態で携行される。罠を仕掛けるべき所定の場所に置いてはじめて開くことになるのだが、どうにもアンナの筋力では独力で開くのは難しいらしい。元々、あまり使わないと言っていたと考えると錆びつきもあるのだろう。先程から、金具から聞こえる不快な音が鳴りやまない。そういう音が鳴るだろうと想定して身構えていてなお、顔をしかめてしまうほどだ。
――故に、我慢ならなかったのだろう。魔族に近い状態となり、聴覚が強化されたそれには。
「――――――」
風の音。木々の葉の擦れる音。それと、金属音――そのいずれとも違う異音を聞いた。
木々の枝の折れる音。風を切って、「何か」が進み来る音。そして、近づいて来る地の底から響くような唸り声。
その正体について推測するよりも早く、体が動く。
「えっ?」
呆けたような声を出しかけたアンナを抱き寄せ、横抱き――いわゆるお姫様抱っこのような形で抱え上げた。驚きに目を見開いたアンナを尻目に、音の方向へと意識を向ける。
常識の埒外の速度で猛進するそれを、ただの獣だとは到底思えない。一歩一歩の踏み込みで地面が抉れ、進路上にある木の枝も――果ては幹諸共に折り、破砕して突き進む。
一方で、今の俺の動体視力は、その破壊的な猛進を一瞬たりとも見逃すことは無い。いかに人知の外にある力を有していようと|俺自身もまた紛れもなく人外だ。どれだけ走る速度が速くとも、その姿を正しく認識するのには全く問題ない。
それは、一言で表現するならば「大きな犬」だった。
夜闇の中にあってなお、その輪郭までもがはっきりと見て取れる深い黒の体毛。対照的に、闇の中でひときわ輝いてすら見える色味を放つ、青い瞳――……一見すると、ただの大型犬のようで大して異常な風には見えない。
だが、確かにそいつは「走る」という行動一つで地面を抉り、蹴り飛ばした石で木をの幹の一部を爆ぜ飛ばすほどの力を見せている。現に、俺の姿かたちは普通の人間と変わらないが、この犬のやったこととそう変わらないことでも簡単にできてしまう。ならば、見た目だけで判断することは許されない。
だからこそ、だろうか。ごく自然に、体は次の行動に移っていた。
アンナを抱えたその状態のまま、左へ半歩ほど踏み込んだ位置に足を置く。そうして「置いた」足を軸に、足を投げ出すようにして――迫りくる犬の、その顔面に直撃させた。
「ガアアァァッ!」
木々が砕け、「ヤツ」の肉体が壮絶な勢いで山の斜面を抉っていく。あれだけの……体が磨り潰されるかのような勢いでの激突、普通の生物ならば、到底耐えられるはずは無い。それでもなお、ヤツは苦悶の声を上げるだけで済んでいる。
痛みはあるかもしれないがそれだけだ。ほとんど自然に体が動くのに任せて迎撃の一撃を与えはしたものの、アンナを抱え上げたこの体勢では上手く力が入らない。状況が状況だけに、細かいことを四の五の言ってはいられないが……逃げるにしても立ち向かうにしても、アンナに走らせるよりは俺が抱えて走った方が遥かに速い。
「逃げるぞ」
「えっ、ちょ……!?」
横目で犬の方を見やると、既に崩れた態勢を立て直しているところだった。復活が早い――そもそもダメージ自体がそれほどじゃあないか。あの脚力を考えると……こっちもそれなりに本気で走らなければ、追いつかれる。
両足に魔力を集中し、それ「っぽい」外見の術式を組み上げる。無論、魔力は消費されないし、何の効果もない。……こんなもの、アンナに何を見られても言い訳ができる状況を作るための、姑息な状況作りに過ぎない。
それでも、やらないよりはマシだ。不用意なことをして俺の正体に感付かれたくはない。
「ふっ――――」
右足に力を込め、元来た道を戻るべく走り出そうと、地面を蹴って踏み出そうと――したところで。
踏み込んだ足は思い切り地面を踏み抜いた。
山の地面は柔らかい。数週間前のこととはいえ、大雨が降って土砂崩れも起きたばかりだ。そこへ人外の力を込めて踏み込めば……まあ、足の一つも埋まるだろう。
何をしてるんだ俺は。
「何してるの!?」
「言葉にしてくれてありがとう! 改めて逃げるぞ!」
こんな時ほどツッコミが欲しかったことは無かった。
犬がこちらに突進する――その前に、改めて少しだけ思考を巡らせる。
ミリアムも言っていたとおり、魔族は音速を遥かに超える速度で……それも、周囲の環境に大した影響も与えることなく動くことができる存在だ。それだけの速度で動こうというのなら当然、それ相応の力が必要になる。だが、それだけの力で地面を踏みしめようものなら、先に俺がそうなったように、足が地面を踏み砕いてしまう。
そうならないように作用するのが魔力だ。ミリアムに言わせてみれば、それは魔族が当然にできて然るべき技術だということだが、魔族になってから日の浅い俺にはその技能が身に付いていない。
だが、魔力というものが生物の「意思」に結びつき、現象を起こすということを理解している今なら……!
「――――……」
両足に充填された魔力が地面へと伝播する。力強く左足で踏みしめるも――さっきのように陥没するような様子は無い。これなら、問題なく走ることは――できる。
「……よし!」
声と共に、左足を踏み込んで右足を引き上げる。その勢いのままに前に向かって踏み出し――。
「うぇ!?」
腕の中で、アンナが悲鳴を上げる。それも仕方ないことだろう。たったの一足……一瞬にも満たないほんのわずかな間隙に十メートル以上も離れた場所に到達していたとなれば、普通は驚くだけでは済まない。前提として俺が精霊術師だという認識がアンナにあるからこそ、この程度の反応で済んでいるのだ。
二歩。加速していくにつれ、前に進む距離も伸びる。これでおおよそ十五メートル弱、と言ったところだろうか。このまま行けば、逃げ切ることも――と思ったが、それも甘かった。
態勢を立て直した犬は、当然のようにこちらの速度に追従していた。
「チッ……!」
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと! どういうこと!?」
「俺に聞くな!」
言ってはみたが、推測はできる。
そもそも動物というものは、人間よりも相当身体能力が優れているものだ。普通の人間が全力疾走で走ったとしても、小型犬に敵うかどうか――今、並走しているこの犬は大型の、それも多量の魔力をその身に帯びた、言うなれば魔族に「なりかけ」の存在だ。本物の魔族と比べるといささか劣るとはいえ、本来、基準となる身体能力は人間より遥かに高い。
恐らく、結果的にではあるが、脚力という一点に限ってこちらとあちらの能力が拮抗したのだろう。
逃げきれない。が、同時に距離を詰められることもそうは無い。このまま逃げ続けて体力勝負、というわけにもいくまいが……それ以前に。
「――――っ」
一瞬、足元の太い木の根に足を取られかける。
相変わらず、俺は山の歩き方に疎い。多少のことで躓きかけるし、場合によっては体勢を崩すこともある。それに対して、あの犬はこの山中がテリトリー……コケたりするようなことはまず無いだろう。もし一度でも態勢を崩してしまえばそれだけで追いつかれる確率は上がるし、この速度で地面に激突すれば、俺はともかくアンナが危ない。
「アンナ、最短距離で山小屋まで行けるルートは!」
「え、えぇっ!? ちょ、ちょっと待って! こんな速度で動いてちゃわかんな……ぎゃー!!」
……流石に無理か!
パニックを起こしていないだけでも上出来だ。いくら肉体的に保護されているとは言っても、音速で走る中で周りを見て適切な指示を出すなど、実際、普通の人間には不可能だろう。俺だって、今はこの速度に順応するので精一杯なんだ。自分にできないのに人にやれというのは無責任に過ぎる。
というか女の子がその叫びというのはいかがなもんだ。
「じゃあ跳ぶぞ!」
「飛ぶ!?」
ちょっとニュアンスが違う気がするが……これから起こることを考えればそれでも間違いじゃあない。
駆け抜けるその足を、音速で前に進む力でそのまま地を踏みしめ、踏み込み――俺にできる全力でもって――――
「……だあァッ!」
「ええええぇぇぇ――――ッ!?」
跳躍する。
木々を超え、山頂にまで届くかというほどに高く、高く。
アンナの叫び声が、尾を引くように周囲にこだまする。ヒトの身には到底達しえない高空。果たして、着地の際の衝撃はいかほどか――にわかに疑問が生じるが、今はそれを気にするほどの余裕は無い。
「見えるか、アンナ!」
「見え……!?」
「山小屋だよ!」
これだけ高く跳躍したことにも意味はある。俺たちの住処――例の山小屋から漏れ出る明かりを見つけることだ。
方向さえ分かれば、あとは文字通り最短ルートで踏破するだけでいい。撃退、あるいは討伐……他の手段を取るにしても、まずはアンナをうちに預けてからだ。少なくともミリアムの近くにいさえすれば、確実に安全だろう。
だが、問題は……これだけ高く跳躍してしまうと、今の俺には着地に意識の全てを向けなければならないという点だ。それにしたって、現状の俺――それも、アンナを抱えたままのこの状態では、どう上手く転んでも二度も三度も成功しやしない。だからこれは一種の賭けだ。アンナが混乱から立ち直って状況を把握してくれさえすれば、確実に、最短の道を突き進める。無理なら……無理だったとして、別の手段を考えるしかないが。
「ガァァァッ!」
「こいつ――ッ!」
と、案の定と言うべきか。まごついている内に例の犬もまた、俺と同じようにして跳躍――追いすがってきていた。
完全に意表をついての行動だったはず。可能なら見失ってくれれば……という程度に淡い期待は抱いていたが、それにしたって追いかけてジャンプしてくるのは、少々どころじゃなく頭がおかしい。普通なら着地予定地点に先回りでもしているはず。
……いや、そもそも頭がおかしいのか?
普通の動物なら、一度痛い目を見れば深追いはしてこないはずだ。蹴り飛ばしてやった時点で、逃げ去っているのが自然なはず。野生動物なら尚更――自分の力に溺れて調子に乗る、なんてことはまずありえない。
ならばこうまで俺たちに執着する理由は何か。アンナが不快な音を立てたことが発端であるにしても、ここまで執拗に追いかけてくるのは異常に過ぎる。何かしらの原因があるのは明白だが……。
「あ、リョーマ! あっち……!」
「……!」
思考の間隙を縫うように、アンナの声が聞こえてくる。
指差す方角を見れば、淡いながらも確かな家屋から漏れ出す光が視界に入った。それと同時に、加速度的に地面が近づく。
「掴まれ!」
鋭く指示を飛ばし、着地に備える。しがみつく力が強くなるとともに、俺の体に押し当てられる面積も大きくなるが……お互いにそんな余計なことを考えていられるほどの余裕なんて無い。残り一秒――いや、ほんの瞬きほどの間。
衝撃を逃すためにパルクールのように転がるのは無しだ。それこそ、アンナを危険に晒すだけだ。だからと言って一度手を放し、空中にアンナの体を投げて地上でキャッチ――もできはしない。俺の体にしがみついているこの状態だからこそ、アンナの体にも魔力保護が機能しているだけであって、一度離れればその効力は及ばないからだ。となれば……。
――そうして、爆発的な衝撃を迎える。




