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偉大な牙持つ熊

 ――そうして、数十分後。



「ごめんなさいでした」

「諦めるの早っ!?」



 無理だった。


 所詮、元はコンクリートジャングルの住人だ。本物の森の中に入り込んだとして、何を為せるというのか。

 獣を見つけるとかそんなの無理だ。探せるアンナがありえん。



「まったく、しょうがないなぁ」



 と、一言。苦笑しつつ再びこちらに近づいてきたアンナは、まず近場にある木の幹を指差した。



「あれ、あの木の幹の……ほら、下の方。泥がついてるのが見えるでしょ?」

「あ、ああ。でもあれって自然になるものじゃ……この前雨も降ったし」

「自然……と言えば自然だけど、ちょっと違うかな。あれは猪がやったの」

「あれが?」



 冗談だろ、と言おうとしたが、山についてはアンナの方が遥かに詳しい。無駄なことを言って話を中断させないためにも、ここは堪えておいてアンナの次の言葉を待つ。



「猪って、体についた虫を落とすために泥浴びするんだけど……その後に体を木の幹に擦りつけて泥を落とすわけ。で、体を綺麗にするの」

「なるほど。ってことは、少なくともこの辺で猪が活動してるのは間違いない……と」



 言われて考えてみると、ある特定の木の幹にだけ泥跡がついているというのもおかしな話だ。


 更に、アンナは別の方向……地面を指差して言う。



「それから、あそこ。土が掘り返されてるでしょ?」

「誰かがここに来てたんじゃ?」

「ううん。だったら靴の跡があるはずだし。あれ、イノシシが掘り返した跡なんだ」



 目を凝らしてそちらを確かめると、確かにその跡は人が作ったものにしては少々不可思議だ。

 人間がやれば多少なりとも規則性が現れるはずだが、そういったものが見られない。



「じゃあ、あれは?」

「あれは円座って言うの。あの大きさからするとグレートタスクベアかな……」



 ちょっとヤバげな名前が聞こえたぞ。

 何だグレートタスクベアって。明らかに出会ったら死ぬ系統の猛獣か何かじゃないか。


 実際、言い終えたその直後、アンナは見てはいけないものを見てしまったかのように、目を見開いて体を強張らせた。



「……グレートタスクベアじゃん」

「おいちょっと待て。何なんだグレートタスクベアって。まずそれを説明してくれないか」

「リョーマは知らない? 人間三人並べても届かないくらいの巨体と、岩みたいな重さの熊……」

「ご存じありません」



 いつになく真剣な表情で告げるアンナに、僅かながら身震いを覚える。

 そんな恐ろしげな存在は創作上くらいでしか知らない。いや、創作でも普遍的な存在なのかどうか。


 やはりというかなんというか、アーサイズの生態系は地球上のそれとはかなり異なっているらしい。そうそう簡単にそんな巨体が維持できるわけがないし、仮にそんなのが一匹でもいればそれだけで周辺の生態系の危機だ。



「そんなのがいるって……?」

「どこにでも……いる可能性はあるんだけど」



 なんだその超存在は。究極生物か何かか。

 効率のいいエネルギーの補給法でもあるのか。いや、別にあちらの常識とこちらの常識とは違うのだし、あってもおかしくはないのだけども。



「それにしたって、この辺じゃあんまり見たこと無かったし……見かけてもライヒの術師の人たちに駆除をお願いするくらいだし……出会っちゃったらまず死んじゃう……」



 人間一人の力で敵う相手じゃあない、と。いや。五メートル強はあろうというような生物だ。そうそう単独で駆除できる人間がいてたまるものか。



「なんか……狩りどころじゃなくなったな」

「まあ、うん……けど、しょうがないよ。それに……その前に」

「うん」

「生きて帰れるかなあたしたち」

「……うん」



 そして、その辺りは俺たちも例外ではない。


 もっとも、それは「人間だったら」という話だ。今の俺の膂力ならば撃退、もっと言えば駆除も可能かもしれない。

 しかし、それは少なくともアンナに俺が「普通の人間でない」とバレることに繋がる。それだけは避けたいところだし、避けなければならない。


 それでももし出遭ってしまったような場合は――躊躇することなく、この力を振るう他無いだろう。命に代えられるものは無いのだから。



「急いで戻ろ。おじいちゃんたちにも報告しないと……」

「ああ、分かってる――――」



 と。


 軽く駆けだそうとしたその瞬間に、においを感じた。

 土の臭い。木々と草の青臭さ。花々と果実の甘い匂い。そこに混じって、嗅ぎ慣れたあるものの臭いがあった。



「血……?」

「ど、どうしたのリョーマ?」



 血液。


 レーネが未だに例のパーカーを着続けているせいでとうに臭気には慣れてしまったが、それでも急にこんな強烈な臭いが漂えば分かる。

 魔族(おれ)の方が五感が鋭いためだろう。アンナはまだ気づいているような様子は無いが……それはそれとして、この周辺が危険なのはまず間違いない。


 言っておくべきか? いや、そうすると俺が人間じゃないとバレてしまう可能性が……だが、人外そのものの腕力を振るって見せるよりも、ただ「そういう臭いがした」と報告するだけの方がまだマシか。それに、アンナも猟師だ。例の……グレートタスクベアとやらが近くにいるということを伝えておけば、それを踏まえて行動案を示してくれるかもしれない。



「今、血の臭いがした」



 意を決して切り出してみる。


 俺たちの素性がバレないこと。それに加えて、アンナも含めてクラインまで逃げ帰ること。それが現状の目的だ。多少怪しまれる程度なら、許容しておくべきだろう。



「……ホント?」

「ほんの少しだけどな。でも、こんな山の中でこの鉄臭さは……普通、ありえないと思う」

「だったら、急いで村に戻らないと……」



 かつて魔族がこの近辺に宝石の原石を埋めていたという話はあったが、鉱山があった――というような話は聞いていない。

 互いに頷きあい、村に戻るべく周囲を見回しながら歩き出す。



「……なあ、アンナ。理解してなくて悪いんだけど、そのグレートタスクベア? っていうのは村一つ潰しかねないほど危険なんだよな。今までそんなのにどうやって対処してきたんだ?」

「対処……っていうか、あたしもそこまでは知らないよ。前に現れたのは二十年くらい前だって話だし」

「二十年?」



 えらくスパンが長い。いや、熊の被害という話に限れば、そんなものだろうか?

 俺たちが生まれるよりも前、となればハンスさんたちは知っていてもおかしくはないと思いはするが……。



「なんでも、七十年くらい前の魔族との戦争の後から出てき始めたみたいなの。地上の魔族を治めてた、冥王っていうやつの領地……この山を越えたところなんだけど、そこから出てきたって話で……」



 先代冥王(ぜんにんしゃ)が死んだことが原因で外に出てきた……となると、管理としつけをおろそかにした先代冥王のせいという見方もできるし、その巨大熊を押し留めていた先代冥王を殺害した人間が原因という見方もできる。どちらにしても俺に直接的には関係ないが、今の俺の立場が立場だけに迂闊なことは何も言えない……!


 俺には関係ないはずの話なのに、急に胃がキリキリしてきた!



「……歴史が浅いわけか。でも、だからって対策をおろそかにしてきたわけじゃないんだろ?」

「うん。あたし以外にも猟師のひとはいるし、定期的に森の周りを見回ってグレートタスクベアがいるかいないかも確かめてる。何せとんでもなく大きいから、痕跡は見ればすぐに分かるしね」



 素知らぬ顔をして問いかける。罪悪感が胸を締め付けるが今は致し方ない。今の俺にできることなど、たかが知れている。



「で、痕跡を見つけたら、ライヒにいる術師さんたちに言って駆除してもらうらしい……っていうのはさっき言ったよね」

「ああ。でも、こう言っちゃなんだけど……そんなバケモノが出没するって分かってるなら、ライヒに移住した方がいいんじゃないのか?」



 ふと感じた疑問をそのまま口にする。


 前に出没したのは二十年前という話だった。いくら次に現れるまでのスパンが長いと言っても、人間の寿命は大雑把に見積もっても八十年……こちらの衛生環境を考えれば六十年と言ったところだろうが、単純に計算しても三度は出くわす可能性がある。いくら精霊術師を集めれば対処できるとは言っても、六メートル弱はあろうかという巨大な肉食獣を相手に全く被害を出さずに終えるというのは難しい。

 だが、少なくともグレートタスクベアとやらの生息範囲から逃れれば、脅威におびえながら過ごす必要も無くなる、そのはずだ。


 しかし、その意見に対してアンナは苦虫を噛み潰したような顔をして見せた。



「故郷を捨てろって?」

「……ごめん。無神経だった」



 結局のところ、それは感情を排した「最適」でしかない。


 当のクラインに住んでいるアンナからすると、不快に思っても仕方がない。睨まれたとしても、それは言葉を止められない俺自身の落ち度でしかない。



「リョーマだって、そういうのはあるんでしょ?」



 だけども。

 その言葉を止めきれなかったのは――――。



「いいや、無いよ」



 致命的なほどに「共感」が欠けていたからなのだと、今更になって気が付いた。


 ふるさと、というものが無い。

 確かに元の世界、元の国――というものはある。俺だって元は日本国籍を持った日本人だし、たまに味噌汁を飲みたくなるような、味付けに醤油を少し垂らしたくなるような、そんな気分に陥ることはまあ、ある。


 しかし、それはあくまでこれまでの食習慣が未だ抜け切れていないというだけのことだ。故郷、と聞いても正直に言ってピンと来ない。

 物心ついたころからアパート暮らしだったし、父も転勤の多い人だったので各地を転々としてきた。祖父母は俺が生まれる前に他界していて、資金繰りのために父の実家は既に売却されていた。母は諸事情により論外。


 そうした事情もあって、どうしても俺は土地を心の拠り所にできなかった。



「ごめん……」

「……いや。俺が悪かった」



 怒ればいいのか、それとも慰めるべきなのか……そんな複雑な面持ちのまま、アンナは押し黙ったままにじっとこちらを見ていた。


 その目を、見ることができない。


 それは俺の独りよがりな考え方を押し付けたことによる後ろめたさ故のものだろうか。それとも、反論されたことに無意識のうちに苛立ちを覚えている、とか。

 どちらにしても、こうなることを事前に想定できず、アンナにこんな顔をさせた俺が何よりも悪い。


 俯いたまま、言葉を交わすことも無く歩き続ける。その重苦しい空気に耐えきれなかったのか、唐突にアンナが口火を切った。



「あのね。別にみんながみんなそういうわけじゃなくって……その、お金が出るから、クラインに住んでる人も結構いるの」

「……は?」



 どういうことだ、と言いたげなこちらの表情に、申し訳なさげにアンナは続ける。



「土地柄……ってわけじゃないけど、ここって、昔魔族が住んでた土地に近いでしょ? だから、領主様が魔族が復活しないか監視してくれるなら、お金出してくれるって……」

「ゴフッ」

「リョーマ!? 何、どうしたの!?」



 思いもよらぬ不意打ちに、喉の奥から酸っぱいものがせり上がってくるものを感じた。


 復活してるじゃねえか魔族。

 監視できてないじゃねえかクライン民。


 いや、そこできっちり監視されていても困るのは俺たちなのだが、曲がりなりにもそういう役割を持たされているというのにこの現状はどうなんだ。



「……汚い話になるけど、それっていくら……」

「季節ごとに一人三百万……」



 そのままひっくり返りそうになった。


 アーサイズにおいて、暦の単位は季節によって区切られる。春夏秋冬、それぞれを九十日として数え、年間は三百六十日となる。年始は春の一日目ということになっているが……それは一旦置いておこう。

 四季ごとに三百万ということは、一年で千二百万。クラインの人口は百人前後いるかどうかという程度だったはずだから、経費としては十二億ルプス必要になる。

 日本円に換算すれば年間一億――自衛隊の予算が……いくらだったかよく知らないが、たったの一億で周辺諸国に対する警戒網を構築することは不可能なはずだ。


 しかし当然、クラインに住んでいる人々は基本的には素人に過ぎない。……あるいは、人命を「数」としてだけ捉えるならば、百人程度の犠牲で(・・・・・・・・)魔族の復活を察知できるということかもしれない。

 村が一つ消えたとか、徐々に村から人が消えているとか……そうした異変は領主ならば耳に届きやすいことだろうし、迅速に対応を行えば、初期段階で鎮圧、殲滅できる……わざわざ素人に金を渡して、拙い監視の仕事をさせる合理的な理由と考えると、そんなところだろうか。


 非情だと思いはするが、直接的に自分と関わりのある相手でなければ、「数」として捉えるしかないだろうとも思える。時には自分や、その周囲冴え良ければそれでいいと思う者もいる。……というかそういう人間が大多数だろう。


 魔族に対して地力で劣る人間の考えた苦肉の策と言えるかもしれない。役目を終えた代行者がアーサイズに残るとは考えづらいし、実際にエフェリネ……様も、代行者の落とし(だね)のその子孫……だという話だ。魔族を滅ぼすだけの力を持った彼らがいない以上、被害を出しながらでも人間が生き残る、そのための策だと思えば致し方ないようにも思えてくる。


 もっとも、少なくとも俺には人間を滅ぼそうとか、害する気持ちは無いのだけども。

 というか、俺はもしかすると日給としてその金を貰っていたのだろうか。

 魔族の助けになっちゃってるじゃないか。



「三百万か……」



 もしかしてクラインの住人として認められればそのままそっくり俺が受け取ることもできるのだろうか。

 いや、住居の場所的にはできないかもしれないし、監査が入ってもおかしくはない。この案は保留だ。



「なんかリョーマ、今までで一番真剣な表情な気がする……」

「金のことだからな」

「うわぁ」



 ドン引かれた。


 でもしょうがないじゃないか。俺以外にももう二人……いや、今は三人を食わせていかなきゃいけないんだし。直接的に生き死にに関わる問題な以上、真剣に考えなきゃしょうがない。



「……ん?」



 ふと、そこで血の臭いが徐々に濃くなってきていることに気付く。


 俺たちはグレートタスクベアの痕跡を見つけた後、そのまま元来た道を戻っていたはずだ。それで臭気が強くなってきているとなると……もしかして、この道の先に件のバケモノがいるということになるのか?



「ど、どうしたの?」

「こっちはダメだ。臭いが強くなってきた」

「何その犬みたいな……いや、でも……言われてみると、何か……」



 もう、随分と強まってきている。俺の嗅覚が人間以上だからということもあるだろうが、アンナがこうして気付きつつあるということは、それほどまでに強烈な臭気だということだ。


 近くにいる。その事実は既に疑いようがない。こうなってしまえばあとはどれだけアンナの安全を確保できるかだ。

 かつて魔族の領土にいたという生物だ。魔族がこのバケモノの脅威に晒されていたなどという話は聞いてこともないし、一応は魔族である俺が足止めできないことはないはずだ……と思う。



「別の方向から戻ろう。こっちは危ない」

「う、うん」



 血の臭いから少しでも離れるために、アンナを先導するようにして村へ戻るための別ルートを探すべく、周囲に視線を向ける。


 このあたりのことはそこまで詳しいわけじゃあない。アンナに任せた方が村へたどり着くには早いだろうが、アンナの安全を想うなら俺が前に出るべきだ。そう考えたことを間違っているとは思わないが、「それ」を見つけてしまったのは俺が前に出てしまったがためだとも思う。


 視界の端、普通の人間には捉えきれない程度の遠方。薄暗い森の中にあってその赤い色彩はなお目立つ。

 巨木のような胴回り、人間が二人で手を回してもまだ足りないほどの太さの、二対の腕。その名を示すように口から突き出た、象牙のような長大な牙。


 一目見ただけでも分かる。そいつがグレートタスクベアと呼ばれる存在であり――――



 つい先ほど、何者かに殺された(・・・・・・・・)のだと。

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