はじまり
「――――おはようございます」
優しく、赤ん坊を揺り起こすような声が聞こえる。
微睡の中にあって、なお、頭の中に響くような美しい声。しかし、その音は夢見心地でいる俺にとっては――どこか、夢の中へと押し戻されるような心地よさを感じていた。
「……おはようございます」
再び、言葉がかけられる。
先程よりも強い語気の、どこか……寝坊を諫めるようなニュアンスを感じる。
しかし、深い眠りから目を覚ますにはいくらか足りない――いや、そもそもこんなことを感じて考えている時点で、もう起きているようなものだが。
なんというか、ここまで来ると意地でも見ず知らずの他人の声なんかに起こされてやるものか、と。そんな無駄な抵抗をしてしまう。
「……はぁー……」
そんな中、深い深いため息が聞こえてきた。
もしや、諦めたのだろうか。そんなことを考えていると、ごそごそという衣擦れの音と、こちらに近づいて来るような足音――それから、何故だか足音に伴って、妙に湿った音が聞こえてくる。
何だろう、と訝しんで薄目を開けかけた、その瞬間。
「おはようございまーす」
――――そんな、古い時代の早朝ドッキリを思い起こさせるような声音の挨拶と共に。
爆音が、耳元で炸裂した。
「うおああああああぁ!?」
「あ、起きた」
同時に、強烈な頭痛と耳の痛みに見舞われる。
超音波攻撃でも食らったような……恐ろしいまでの威力を伴う音だ。
思わず、床――硬さを考えると石床だろう――を転げ回る。その中で、どこかげんなりとした様子でこちらを見据える少女の姿が目に映った。
――――それは、果たして「人間」と形容していいのだろうか。
黒い髪。金色の瞳。それだけなら、まだ理解は及ぶ。しかし、側頭部から生えている羊のそれと似た角が、彼女が人間とは違うものだということを如実に示している。
やけに多い肌の露出は、彼女の趣味だろうか。それとももっと別な理由があるのか……どちらにしても、目に毒だ。
急速に、意識が現実へと引き戻される。
「な……」
驚きに、開いた口が塞がらない。
だからと、状況を把握するべく周囲に目を向けると――これもまた、驚くべき光景が広がっていた。
荘厳な雰囲気を醸し出す、石造りの建築物だ。
長い年月そこに建っていたせいだろう。壁面はあちこち苔生しているものの、その威容に一切の陰りは無い。床の埃の溜まり具合から、まともに人の手が入ったような雰囲気も無いが――そこに敷かれている豪奢なカーペットのおかげで、辛うじて体裁は保たれていた。
カーペットの先には、やけに華美な装飾の施された椅子があった。玉座、と表現するのが正しいだろうか。主の姿の無い空白の座は、それを見る者に嫌でも寂寥感と虚無感を与えてくる。
そして、もう一つ。
――――俺の足元に、血だまりが広がっていた。
「うっ……!?」
それは、俺が今の今まで、この血だまりの中で眠りコケていたという事実を示していた。
こみ上げる吐き気を――しかし、強引に抑え込む。
まずは考えよう。何故、こんなことになっているのかを。その状況について知る者がいるとするなら、この、眼前にいる少女――――。
「君は……」
「あ、少々お待ちを」
と。意を決して言葉を発した俺を制し、少女は血溜まりから一歩抜け出して居住まいを正す。
そして、軽く気取ったようにポーズを付けて、一言。
「――――おはようございます」
まさかのリテイクであった。
「早朝ドッキリじみたこと仕掛けておいてそれはどうなんだ」
「初対面がそれでは流石に問題でしょう、と思ったのですが。初対面のやり直しというのはお嫌いですか?」
「少なくともこの状況でやるこっちゃねえだろ!?」
美少女、と言って差し支えない容姿だった。怜悧な印象を受ける、どこか冷たい雰囲気のある少女だ、と思った。
……一気にその印象は、残念な方面へと下降線を辿っていった。
というか、他人が血溜まりのド真ん中で血まみれでいると言うのに、平然としているこいつは何なんだ一体。
「大した問題でも無いでしょう。それよりも、円滑に進行した方が貴方としても都合が良いのでは?」
「……そりゃ、そうだが」
釈然としねえ!!
思わず頭を抱えるも、当然に腕も服も血塗れであることを思い出し、踏みとどまる。
本当に、何で俺はこんなことになっちまってるんだ。
「では、おはようご」
「挨拶はもういいから」
「……私の名はミリアムと申します。以後お見知りおきを」
と、不服そうに少女――ミリアムは、彼女自身の名を告げた。
……そんなに俺に話を遮られたのが不満なのだろうか。
ともあれ、相手に名乗られた以上は、俺も名乗らないのは不自然だし無礼だろう。
「……新地良真だ」
「アラジ様ですね」
「いや、そっちは名字だよ。良真でいい」
「承りました、リョーマ様」
僅かに、俺の知る発音とは異なる……外国人が日本名を読むような発音。
西洋系の名前もそうだが、どうやらこの場所は少なくとも日本の文化圏には無いらしい。
「ここは、アーサイズと呼ばれる大陸――あなたから見れば、異世界にあたる場所です」
「異世界……異世界!?」
その言葉に馴染みがあるわけじゃあない。しかし、一般的な知識としてそういうものがあることくらいは知っている。
例えば、並行世界。例えば、剣と魔法の世界に呼び出させるとか……知識それ自体に偏りはあるが、異世界と言われて思い当たるのはそのくらいしか無い。
ひどく漫画的だ。目が覚めたら、突然異世界にいた――だなんて。
「異世界って……何でさ!?」
「見ての通り、私は人間ではありません。それはお分かりですね?」
「あ、ああ、まあ……」
頭部に生えている角が、否応なしにそれを認識させて来る。
しかし、それ以外はまるきり人間のそれと変わらない、とも思う。
少し「違う」というそれだけのことであるにも関わらず、人間の精神はここまで違和感を覚えるものらしい。
「私を含め、人間と多少違う特徴を有し――魔法というものを扱える存在を『魔族』と言います」
「魔族……」
また漫画的だなこれが。
「魔族は人間と比べ非常に強い力を持っていたのですが、そのために迫害され――いつしか戦争にまで発展していました」
「……頻繁に、ってほどじゃないけど……よく聞く話だな」
被差別側が差別側へ反発し、戦争へ――よくあるシナリオだ。どうしたって、肯定はできそうも無いが。
「……結果、魔族は私一人を残して全滅。現在に至るまで、他の生き残りも見つけることができず――世界も崩壊に至ろうとしています」
「ちょっと待て」
「はい?」
「理論が飛躍しすぎてないか!? 何で魔族がいなくなったら世界が滅ぶんだよ!?」
風が吹けば桶屋が儲かる理論じゃねえんだぞ!
せめて俺にも分かるように説明しろよ!?
「魔族には三人の王がおりました。その王がこの世界を維持していましたので……」
「皆死んじゃったから、世界を維持する力が無くなった、ってことか……」
ようやく理解できた。いや、納得は出来ないが。
何で特定の一個人が――三人だが――世界を直接どうこうできる力なんて持ってるんだとか、そんな力があるのに何で戦争で負けてるんだとか、色々言いたいことはあるが――とりあえず、この辺りの感情は全部飲み込んでしまおう。重要なのはそこじゃない。
「で、何で俺がこの世界に?」
「それに関しては、簡単なことです」
言うが早いか――次の瞬間、ミリアムの姿は俺の眼前から掻き消え、玉座のすぐ隣に移動していた。
俺が意識を外したその僅かな間隙に、跳躍して移動したのだろう。本人も言う通り、人間を遥かに超えた力を持っていることは明らかだが――その行動が意図するところが読めず、俺はただその様子を見つめることくらいしかできない。
……別にカッコいいからなんとなくそうしたというわけではないだろうが。
と、益体も無いことが頭の隅を通り抜けたその時。
「――――あなたに、魔族の王になっていただきたいのです」
――ミリアムは、そんなことを告げてみせた。
これは転移と言うのでしょうか。転生と言うのでしょうか。未だに判断がつきません。
遅筆ではありますが、どうかお楽しみいただければ幸いです。