第11章
(1)
翌日、私は仕事の打ち合わせをするため、出版社を訪れた。
「色々大変みたいだけど、真生ちゃんはいつも、期限通りに原稿上げてくれるから助かってるんだよ」
編集長が嬉しそうに言う。
「今、次の取材に関係する資料を渡すからさ。座って待っててよ」
「わかりました」
私は、隣の開いている椅子に腰掛けた。
編集長は、今にも崩れ落ちそうな書類の束から、器用に何枚かのコピーを抜き出している。まさに神業だと、いつも私は感心しているのだが。
「これなんだけどさ、ちょっと、印刷が薄くて申し訳ないんだけど」
「全然、構わないですよ。ありがとうございます」
私は頭を下げて、差し出されたコピーを受け取った。
「別府ですか? それで、締め切りは?」
「再来月号に載せるつもりだから、今月一杯ってことで。取材費は、いつもみたいに実費で払うから、領収書、忘れないでね」
私は頷いた。
「本当に、真生ちゃんの書く旅行のレポート、好評なんだよ。読んだらみんな、行きたくなっちゃうもん」
編集長が相手を持ち上げるのは、何か頼みがあるときと決まっている。
「ところで」
編集長が、私の顔を見た。
「真生ちゃんってさあ、便秘がちな方?」
突然何を聞くのだろう。私は驚いて編集長の顔を見た。
「いやいや、セクハラだとか思わないでくれよ。今度、うちの雑誌で、便秘解消法の特集をやるんだよ。体操の仕方とか、よく効く薬とかを紹介していこうと思うんだけどね。もし真生ちゃんが便秘がちなら、モニターをやってもらえないかなあ、なんて思ったわけよ」
やっぱり、と思いながら答える。
「たしかに、便秘気味ですけど。モニターって、何をやったらいいんですか?」
すると、編集長は嬉しそうに話し出した。
「市販の便秘薬を飲んで、効くかどうかをレポートほしいんだよ。あの、『おなかで溶けて胃で溶けない』って、コマーシャルやってるでしょ。DDS――ドラッグ・デリバリー・システムとかいう新製法の薬。あれを試して欲しいんだ」
「おなかで溶けるって、どういうことですか?」
「なんでも、普通の薬っていうのは、胃で溶けるらしいんだけど、薬に特殊なコーティングをして、大腸で溶けるようにしたって話だよ」
「なるほどねえ。胃で溶けないんですか。――え? 胃で溶けない?」
自分で言った言葉に、私はひらめくものを感じた。
「ああ。素人考えだけど、その方が、胃への負担も少ないし、大腸で直接効くからいいんじゃないのかな」
身を乗り出した私を見て、編集長は不思議そうな顔をしながら補足する。
「そうですよね。胃で溶けなければいいんですよね」
私は勢いよく立ち上がると、お礼もそこそこに編集室を出た。後ろから、何か叫んでいる編集長の声がしたが、頭の中は、そのDDSとやらのことでいっぱいだった。
(2)
「DDS? 何だそれ?」
出版社を出た私は、その足で相田家に戻った。そして今、編集長から聞いた話を洋介に聞かせている。
「だからね、カプセルに青酸カリを詰めて、それに特殊なコーティングをするの。胃で溶けずに大腸で溶ければ、胃から青酸反応は出ないでしょ?」
私は、口から唾を飛ばして言った。
「理屈で言えば可能だけど、残念ながら実現するのは無理だろうな」
「どうして?」
洋介の意外な答えに、思わず聞き返す。
「俺、前に製薬関係の会社で、バイトしてたことがあるんだ。製薬の世界って、特許だ何だってややこしくてね。特に新薬の製法は、企業秘密ってことで外部には漏れない。その特殊なコーティングっていうの、誰にでも出来るってもんじゃないと思うな」
「そういうものなの? ちょっと勉強すれば、誰でもできるものなのかと思ってたわ」
私が口をとがらせるのを見て、洋介は優しく微笑んだ。
「それからもうひとつ、お前の考えた殺害方法が不可能な理由があるんだ。ロシアのラスプーチンって怪僧、知ってるか?」
「誰それ?」
私は尋ねた。
「青酸カリを1オンスも飲んだのに死ななかったっていう、実在の人物だよ。何で死ななかったのかっていうのが、論争の的になってるんだけど」
洋介は、私の顔を見た。
「青酸カリが古かったんじゃないかとか、胃壁が厚かったんじゃないかとか、色んな説があるんだけど、その中に、彼は無酸症だったんじゃないかっていう説があるんだ」
「無酸症?」
「ああ。胃酸が出ない体質のことさ。青酸カリや青酸ナトリウムっていうのは、酸と反応して初めて、有毒な青酸を発生する。つまり、胃酸が出なければ無毒のままなんだ。そう考えると、大腸の粘液は弱アルカリ性だから、大腸で青酸カリが溶け出したとしても、恐らく毒性は発揮されないだろうな」
「そうかあ。いい思い付きだと思ったんだけどなあ」
私は大きく溜息をつく。
洋介は、両手を頭の後ろに回して、何やら考え込んでいた。
(3)
翌日、私は取材のために飛行機やホテルを手配し、相田家に戻った。
「おい、やったぞ」
居間に入るや否や、洋介が待ってましたとばかりに私の手を握りしめる。
「何なのよ」
呆気にとられながら聞き返すと、彼は嬉しそうに話し出した。
「見つけたんだよ、大腸で分解されて、青酸を発生する物質を。青酸配糖体っていうんだ。詳しいことはあんまりよくわからないんだけど、これ、酸の他に、腸内細菌が出す酵素にも分解されるそうだ。そして、青酸を発生する」
「その青酸何とかって、すぐに手に入るようなものなの?」
「ああ。モモとかウメとか、未熟なタケノコの先っぽとか、豆類とか、千種類以上の植物が、青酸配糖体を持っているらしい。これらから抽出すれば、DDSを利用しても青酸は発生する」
「そういうものから抽出すればいいって簡単に言うけど、そんなにたくさんあるんだったら、特定は難しいわね」
「ヒントはあるさ」
洋介は手帳を広げた。
「まず、個々の植物が含む配糖体の量は、微量だってことだ。だから、大人1人の致死量まで抽出しようと思ったら、かなりの量が必要になる」
「つまり、希少性の高い植物では不可能だということね」
「ああ。それから、配糖体っていうのは、未熟なものほど多く含まれるんだ。だから、本来配糖体を持っている植物でも、店頭に出回る頃には熟し切っていて、毒性は全くと言っていいほど無くなってしまっている。配糖体を抽出しようと思ったら、店頭に出回る前の未熟なものを手に入れる必要がある」
「じゃあ、農家から直接、仕入れるとかしなくちゃダメなのね」
洋介は、手帳から顔を上げて頷いた。
「そういうことだな。まあ、でも、この話は、とりあえず後に回そう」
洋介はソファに座り込むと、置いてあった封筒からファイルを取り出して、私に手渡した。
「親父の部屋で見つけたんだ。見てくれよ」
表紙には、「1998年 研究日誌」と書かれている。私は、表紙をめくった。
「伯父さんの研究室で行われていた研究が、全部書かれてるわね」
「ああ。3つのグループに分かれてるだろ? そのうちの、友川さんのグループで行われていた研究、読んでみてくれ」
私はページを繰り、友川助教授の研究内容を探していった。ようやく辿り着き、書かれている文字を見て、思わず息を飲んだ。
「DDSの研究、だって」
洋介の顔を見ると、彼は大きく頷いた。
「記録によると、とある企業と一緒に、DDSの開発に携わっていたようだ。結局、企業側がその開発を断念したもんだから、中止になったらしいんだけど」
「じゃあ、友川さんは、コーティングの方法を知っていたのね」
私の言葉に、洋介が答える。
「ああ。しかも、友川さんは、消化器官関係にはかなり詳しいそうだ」
私が頷くのを見て、洋介は続けた。
「これなら、親父が眠いって寝室に戻った時に、犯行を行った説明が付くよ。友川さんは、煙草を吸う振りをして居間を出たが、実は親父の寝室に向かったんだ。横になっている親父に、上手いこと言って、配糖体の入ったDDS薬を飲ませる。そして、親父が眠り込んだのを見計らって、どこかに用意しておいた蝋燭や新聞紙で、時限装置を作った」
「それは無理よ」
私は口をはさんだ。
「何でだよ」
洋介が、心外だという顔をして私を見る。
「一般のカプセルなら、それも可能かもしれないわ。胃まではすぐに到達するんだから。でも、DDS薬は大腸で溶けるのよ。胃の内容物が大腸へと到達するには、何時間ってかかるんだから、その場ですぐ効くってわけにはいかないわ」
「そうか。じゃあ、その時間を逆算して飲ませる必要があったってことか」
洋介はしばらく考え込んでいたが、何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ、それだったんだ。それがまさに、犯行がその時間じゃなければならなかった理由だよ」
「どういうこと?」
「消化器官に詳しければ、胃の内容物が大腸へ到達する時間は大体わかるだろう。でも、個人差がある。友川さんは、あの薬がもう少し後で効くように親父に飲ませたはずだった。しかし、予定よりも早くに効いてしまったんだ」
洋介は一旦、言葉を切った。
「彼はあの時、寝室に戻った親父の様子をこっそり見に行って、既に呼吸が停止していることを知った。それで、急いで火をつけたんだ。食事会がお開きになるまで待っていたのでは、死亡推定時刻がずれてしまう可能性があるからな。これが、危険をおかしてまで、あの時間に放火しなければならなかった理由だよ」
「なるほど。それで説明はついたわね。でも、すべて推測でしょ? 証拠は何もないわ」
私の言葉に、洋介が微笑んだ。
(4)
「そう言うと思ったよ。実は今日、警察に行って、保管されてる親父の手帳、見せてもらってきたんだ。親父、メモ魔で、研究室のメンバーの出張まで全部書き込んでたの、思い出したもんだから。で、友川さんが行った先、全部書き出してきた」
彼はカバンから、1枚のレポート用紙を取り出して私に渡した。見ると十数カ所、日付順に並べられている。
「日本中、飛び回ってるのねえ」
「ああ、学会だ、シンポジウムだって、いろんな所から呼び出されるからな。それでね、真生ちゃん」
洋介は、頼み事があるときだけ、私を真生ちゃんと呼ぶ。嫌な予感がして、思わず返事をためらった。
「お前、旅行記事書いてるんだったら、色んな所に行ってるだろ? 友川さんの行った先の特産品、調べてもらえないかなあ。配糖体を含む植物のうち、主なヤツを書き出しといたから、その収穫時期と出張の時期が合うものを見つけ出してよ。あとは俺が、その植物を栽培してる農家に、友川さんから注文がなかったか聞いてみるからさ」
予感的中。私は大きく溜息をついた。
「あのねえ、洋ちゃん。今は、電話もインターネットもあるのよ。わざわざ農家まで出向く必要なんてないの。残念だけど、こんなこと、やるだけ無駄よ」
「そうかなあ。やっぱ、無駄かなあ」
洋介が悲しそうに言ったところで、孝子が顔を出した。
「お夕食のお飲物、何になさいますか?」
「ビールちょうだい、ビール」
洋介が、食卓の椅子に座りなおして言う。
「お嬢様はどうなさいます?」
私も食卓の椅子に腰を降ろして答えた。
「孝子さん特製の梅酒でももらおうかな。去年の分、そろそろ飲み頃でしょ?」
「ええ、美味しくできあがってますよ。じゃあ、お持ちしますね」
孝子は嬉しそうに微笑むと、台所へと消えていった。
「どうしたらいいかなあ」
洋介がつぶやく。
少しして、孝子が、ビールと梅酒をお盆に載せ、居間に入ってきた。
「今回は梅が違いましたからね。美味しいはずですよ」
孝子が言う。
「梅でそんなに、味って変わるものなの?」
私が梅酒を受け取りながら尋ねると、彼女は頷いて答えた。
「ええ。いつもは、この辺で売っている梅を使うんですけどね、実が柔らかくて、漬かり具合も今ひとつなんですよ。でも、今回は、大分のおみやげなんです。『豊後』っていう、梅酒には最適の品種なんですよ。若いから実もしっかりしていて、よく漬かってくれました」
孝子が、嬉しそうに説明する。
「青梅って、未熟だと毒性があるのよね?」
私は尋ねた。
「ええ。でも、お酒に漬け込んだりすれば、毒性は消えてしまうから大丈夫ですよ。お嬢様、意外と心配性なんですね」
孝子が微笑む。どうやら彼女は、私が青梅の毒を恐れていると思ったらしい。しかし、洋介は私が言った意味を悟ったらしく、急いで手元のメモを見た。
「青梅って、いつ頃できるんだっけ?」
孝子に聞く。
「普通は5月の終わりから6月の初めくらいですか。この梅は、5月の中頃頂いたと思うんですけど。1.2キロほど、籠に入っていましたよ」
「5月の中頃? ああ、5月5日から9日まで、大分に研究室全員で研修旅行に行ってるぞ。友川さんも一緒だったみたいだ」
「ええ。この梅は、友川さんがあちらの農家で手に入れられて、旦那様に下さったものだって、お聞きしましたけど」
私達は顔を見合わせた。
「孝子さん、友川さんがどこの農家で購入したのか、わからないわよね」
私の質問に、孝子は首を傾げながら答えた。
「わかりますよ。たしか、この農家の住所と電話番号が書かれたカードを、旦那様から頂きましたから。わざわざ、友川さんに聞いて下さったらしいですよ。来年も、もし欲しいようなら、ここに頼んだらいいとおっしゃって」
「それ、見せてくれないか」
洋介が立ち上がった。
「ええ、すぐ持って参ります」
孝子が大急ぎで居間を出る。と、2分もしないうちに、カードを持って現れた。洋介はそれを受け取り、受話器を手にする。
ボタンを押してしばらくすると、相手が出たようだった。
「――そうですか、どうもありがとうございました」
色々質問した後、洋介は受話器を置いた。
「伝票見て調べてくれたんだけど、友川さんが、5月8日に農園で10キロも梅を買ったらしい。研究室まで宅配便で届けるように、名刺を渡して行ったって」
「研究室じゃあ、伯父さんにもばれてしまうんじゃないの?」
「いや、それが5月10日必着で頼んでいったらしいんだ」
「その日にちが、どうかしたの?」
「9日に帰ってきて、翌日だろ? さすがに大変だということで、お疲れ休みにしたらしい。普通、院生達は、土日も関係なく研究室に来てるもんだけど、この日は全員休みってことになってるんだ」
洋介が、手帳を写したメモを見ながら答える。
「じゃあ、その日だったら、大量の梅が研究室に届いても、誰にも知られずに受け取ることが出来たってことね」
「ああ。これで、材料も手段も揃ったな」
厳しい顔で黙り込んだ私達の姿を、孝子が不安そうに見つめていた。




