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三題小説

三題小説第四十八弾『壁』『骨』『硬貨』タイトル『壁守人のハルビナ』

作者: 山本航

 ハルビナという女がいた。〈壁守人〉の娘として生まれ、〈壁守人〉の見習いとして生きている。遥か古よりの慣わしに従い、青黒い髪を伸ばし、頭の上に蛇の如くとぐろを巻かせている。その衣もまた伝え聞くとおりに、遠い時代に任じられた使命と共に与えられた文様をあしらっている。

 見習いと言えども〈壁守人〉を継ぐハルビナは、始祖の戴いた〈初めに去りし古の王〉の命に従い、〈薄暮の壁〉を守護していた。傍らに〈古王〉の勅令を刻み込んだ石剣を携えている。分厚く、鈍い刃だが補って余りある幾重もの呪文が刻み込まれている。そしてその胸中には〈古王〉に授けられし、彼女の代まで受け継がれた魔法を抱いている。


 十五オルクにもなる〈薄暮の壁〉はヒーニアの谷の奥深くに広がるグイム・トエと呼ばれる杉の森に、ほとんどの場合聳え立っている。というのも、そもそもが〈古の王〉が有り得べき場所を〈薄暮の壁〉が囲っているのであり、〈古の王〉がそこにいなければ、その周りにもまた〈薄暮の壁〉は存在しない。壁の向こうは人間の野原ではなく、壁は地上との境、世界の涯てだ。


 師が狩りに森にでかけたり、郷に降りていたりする時、ハルビナは〈薄暮の壁〉の〈眷属の門〉に造り付けられている開いたままの潜り戸の隣に置かれた椅子に腰掛ける。

 そうして昼でも薄暗いグイム・トエの森の向こうからやって来る者共をじっと待つ。その瞳は爛々と輝き、獲物を待つ蛇のように揺れる薄闇を睨め付ける。


 初めにハルビナの魔法が近づく何かに感づく。次に耳が空気の震えを聞き取り、鼻が空気に混じる臭いを嗅ぎ取る。最後にその目が亡者を見とめる。


 五人の亡者がナメクジのようにゆっくりと歩を進めてくる。その表情は虚ろで、その目は門の向こうに囚われている。年齢も性別も歩調も不揃いで何も共通する点はないが、門の向こうへ行こうという意志だけは同じだ。


 ハルビナは立ち上がり、先頭の女のもとへと歩いて行く。


「〈初めに去りし古の王〉への崇敬を示したくば、そこに止まれ」と、ハルビナが呼びかけると女はそこに立ち止まった。

「彼の王への感謝を沈黙に乗せて口を開け」と、ハルビナが命じると女は口を開いた。


 その口の中、舌の上には二十五イント硬貨が乗っている。十二代皇帝アムス・テナ・キウウスの図像が描かれていた。


「よろしい。通れ」


 次の男もまた命令に従って口を開き、硬貨を見せ、ハルビナの隣を通っていく。しかし三番目の男は口を開いたが、そこに硬貨がなかった。


「お前に人の野原を出る資格はない。戻れ」と、ハルビナは言った。

「私は死んだのでしょうか?」と、男は言った。

「お前の事情までは知らん。まだ死んだばかりなのかもしれんし、人知れず野晒しだったのかもしれん。いずれにせよ祝福された二十五イントを持たぬ者がここを通る事は罷りならん」

「ですが、私は壁の向こうへ行きとうございます」

「やめておけ。魔法で命じられる事は良いものではないぞ」

「しかしあの壁の向こうへ。私は時と戯れる事に疲れ果てた者です」

「私が命じているのではない。お前は〈古の王〉を煩わせるか」


 ハルビナは剣を横に振り、男の足元に一つの線を引いた。男は線とハルビナの顔を交互に見る、

 そして男が一歩を踏み出し、線を越えると、突風に巻かれる木の葉のように、大波に抗えぬ小さな貝のように、そのか弱き人の体は遥か後方へ転がってゆき、ついにはハルビナの目も魔法も届かない所まで吹き飛ばされた。


 ハルビナがため息をつき、次の四番目の男のもとへ行こうとした瞬間、五番目の男が唸り声を上げた。深い地の底から響いてくるような、分厚く巨大な釣鐘の音のような、重く低い声で吼えあげた。五番目の男の総身から湯気のように黒い影が立ち昇っている。そして四番目の男を背中から殴りかかる。四番目の男はもんどりうって鈍重に慌てふためく。

 ハルビナは石剣の腹で五番目の男を打ち倒し、その隙に四番目の男の口を開かせた。そこには二十五イント硬貨が納まっていた。二人の男の間に立ち、刃を立てて剣を構える。

 五番目の男は剣の一撃をものともせずに再び立ち上がった。体から溢れる影はその量を増し、最早男の姿は見えない。ただ鈍い眼光だけが揺らめいている。その瞳はただの亡者のそれと違って怒りとも悲しみともつかない色を秘めていた。五番目の男が野獣のような咆哮を放ち、ハルビナに踊りかかる。

 ハルビナはその首元に狙いを定め、全身全霊の力を込めて石剣を突き立てようとしたが、何者かの魔法に阻まれ弾き飛ばされた。


「無闇矢鱈と悪鬼を打ち払うな、と言っているだろう。ハルビナよ」


 ハルビナと五番目の男の間に威風堂々とした青毛の馬が割って入った。馬上にはハルビナと同じ格好の老人がおり、名をメドといった。メドはハルビナの祖父であり、真正の〈壁守人〉だった。その老人の魔法がハルビナの石剣を止めたのだった。


「ですが悪鬼となっては最早」


 メドは威厳に満ちた重々しい声でハルビナを制止する。


「瞳をよく見よ。まだ生死を彷徨っている。地上にとどまる可能性はまだあるだろう。そのような事では私が認める事はおろか、〈壁守人〉になる事すら叶わぬ夢よ」


 ハルビナは何かを言い返そうとしたが、メドは瞬く間に綱で影に覆われた悪鬼と成り果てた男を縛る。そうして一つ荘重にいなないた馬に乗せ、弾けるような蹄の音と共に軽快に走り去ってしまった。メドのひりつくような魔法の残滓がハルビナを苛立たせる。己の未熟さに腹立つ。

 杉の森を背に壁の方を振り返ると四番目の男が潜り戸を抜けるところだった。

 一番背の高い杉よりもさらに高い〈薄暮の壁〉は畏れを知らない地衣類にそこかしこ覆われ、またその所々の表面は人間の野原を忙しなく飛んでいく〈時〉に削り取られている。しかし世を二つに分かつという与えられた偉大な役目に相応しい森然たる佇まいに欠けるところはなかった。




 〈眷属の門〉から少し離れた所に〈壁守人〉の家系が代々住んでいる小屋がある。沈黙帝の時代までは八の氏族が住まう村であったが、〈古の王〉が瞬きする間に数百年の時が流れ、いまやただ二人のみが済む小屋と犬小屋があるだけだ。


 師メドの狩ってきた兎の肉を焼き、郷で分け与えられた野菜や豆を粥にして、その日の夕食を摂った。どちらかといえばよく喋るメドが今晩は口数が少なかった。向かいの椅子に深く座り、何か考え事をしているのか、時折食事の手を休めて、物思いに耽っている様子だった。

 ハルビナはそんな師を不思議そうに見つめ、師の首元に掛かっている二枚の二十五イント硬貨を見つめた。師はそれを首飾りにして肌身離さず持っている。


「また父と母の事を考えているのですか?」


 メドは今その存在に気づいたかのように目を丸くしてハルビナを見つめ返した。


「うむ。いや、そうだな。無関係ではない」

「二人が亡くなったのはとても悲しい事ですが、多数の悪鬼に立ち向かった両親を私は誇りに思っています。私もまた両親のような誇り高い立派な〈壁守人〉になってみせます」

「だが彼らはまだ立ち去るべきではなかった」

「かといって悪鬼として星影も届かない闇の中を彷徨う存在になるよりは、まだしも救われます。私は父母を打ち払ってくださった師に感謝しています。そして必ずや父母のように勇ましく、師のように力強い〈壁守人〉になってみせます」


 ハルビナは止めていた手を再び動かし、肉汁滴る香ばしい肉を咀嚼する。メドは己の首飾りを弄ぶ。本来ハルビナの両親の死に祝福を与えるはずだった硬貨が番いで今もここにある。


「今日、追い払った悪鬼だが」

「ああ、そうでした。その後どうでした?」

「無事息を吹き返した」

「そうですか。私の見極めもまだまだですね」

「あの男に気づかなかったのか?」


 ハルビナは首をかしげた。あの時あの男が悪鬼だと思った以外には何にも気づかなかった。自身の魔法も何かに感づく事はなかった。


「何かまずい事が?」

「いや、ヒーニアの郷の者だった」

「ああ、そうだったのですか。知人ではないはずですよ。全く見覚えがありませんでした」

「国主の息子だ。名をセニード」


 それなら見た事があったはずだ、とハルビナは思ったが、やはり記憶が呼び覚まされる事はなかった。


「そうですか。しかしそれでは何故悪鬼などに? 祝福されないなどという事がありましょうか?」

「狩りの最中に足を滑らせて沢に落ちたそうだ。何日も郷に戻らず皆心配していたと聞いた」

「王子が従者も犬も連れずに狩りですか。かといって師のような強さもお持ちでないでしょうに。国主様はいかにも賢明なお方だったと思うのですが」

「その国主の息子セニード様にお前が嫁ぐ事になった」


 ハルビナの食事の手が止まり、信じられない物でも見るような目でメドを見た。


「婿に貰うならまだしも嫁に行く? 何故勝手にそんな事を決めたのですか?」

「セニード様を助けた事で国主様に恩を売れた。私が国主様に頼んだのだ」

「問いの答えになっていません。私は〈壁守人〉の最後の血筋です。〈壁守人〉がいなくなれば〈薄暮の壁〉はどうなりますか?」

「全ては〈初めに去りし古の王〉が決める事だ。〈壁〉を守る必要があれば新たな策を講じられるだろう」

「使命を打ち捨ててただで済むのでしょうか?」


 メドは真っ直ぐにハルビナを見る。


「かつてこの森に住んでいた他の〈壁守人〉の子孫に会ったことがある」


 ハルビナが聞いたことのない話だった。


「その一族は健やかに人間の野原で繁栄していた。それまでに〈古王〉の魔法や呪いが及んだ事など無かったという」

「いずれにせよ、誰に嫁ごうとも婿を貰おうとも〈壁守人〉をやめるつもりはありません。私は父母のような立派な〈壁守人〉となる事を決めているのです」

「明日迎えに来るそうだ」


 それ以後どちらも互いに口をきかなかった。沈黙の立ちこもった小屋の中に寂しげなミミズクの鳴き声が忍び入る。幼い時分にハルビナはその夜の闇の奥から運ばれてくる寂しげな鳴き声に怯えていた。慰める母の優しく温かい声をハルビナは思い出す。




 日が上がり、木々の葉の隙間から差し込む陽光が森や〈壁〉を斑に黄金色に照らし出す。深緑の苔が疎らに煌き、縦横に走る亀裂の黒は深みを増している。ハルビナはその輝かしい大気を思い切り深呼吸した。


 師は朝早く何も言わずに郷に出かけてしまった。国主の息子の道案内でもするのだろうと、ハルビナはあたりをつけた。


 正午を過ぎた頃、ヒーニアの谷の方から馬の足音が等間隔に聞こえてくる。それはハルビナの魔法でも感づいたので腰に佩いた石剣の柄に手を触れた。しかしその姿が見える前に馬の蹄の音は消えた。足の無い生き物や羽虫、夜飛ぶ鳥、〈壁守人〉に飼われる馬や猟犬を除けば、多くの動物は迂闊に〈壁〉に近寄ったりはしない。


 しばらくして歩いてきた三人の男のうち、一人はハルビナにも見覚えがあった。悪鬼と化していた国主の息子セニードだ。残りの二人は従者だろうと見当をつける。メドの姿は無かった。

 三人はいずれも貧しいヒーニアの郷においては立派な上着を着ている。そして三人が三人とも〈壁〉に目をやらぬように歩いていた。まるでそちらには何も存在しないかのように恐る恐るハルビナの方へ歩いてくる。しかし壁より遥か前で立ち止まってしまう。それは壁の高さよりも長い距離だ。

 まごついている三人を見てハルビナはため息をつく。石剣の柄から手を離し、訪問者の元へ歩いていく。ハルビナがいくら近づいても三人の男は〈壁〉の方へは目を向けない。ハルビナはセニードの前で片膝をついて頭を垂れた。


「お初にお目にかかります。セニード様」

「楽にしてくれ。君。まずは礼を言いたい。私を助けてくれてありがとう」


 ハルビナは立ち上がり、しかし面は下げていた。


「私は何もしておりません。いえ、むしろセニード様のお命を危機に晒したと言えましょう。貴方様をお助けしたのは我が師にございます」

「そうなのか。貴女もまたその崇敬されうべき職務を全うされたと聞いたのだが」


 ハルビナはそれには返事をしなかった。


「して、婚姻の件だが」と、セニードが言うと、

「申し訳ございませんが貴方様に嫁ぐ事は出来ません」と、間髪いれずにハルビナは顔を上げて断った。


 少しの静寂が辺りを通り過ぎ、セニードが豪快に笑った。ハルビナは顔を上げて不思議そうにしている。


「いや、すまない。実は私も断ろうと思っていた。命の恩人の頼みとはいえ、そう簡単にはいかぬ」

「左様でございましたか」

「本当のことを言うと、この婚姻は我が父の思惑と合致していたのだ。魔法を持つ者が国主の妻となれば自ずと諸国が我が国を軽んじる事もなかろう、と」

「セニード様はよろしいのですか?」

「ああ、構わぬ。己の力で守れぬようなら何れ滅びよう。ところでメド様は?」

「郷に行ったものと思っておりましたが」

「そうなのか。入れ違いになったのだろうかね」

「あるいは狩りかもしれません」


 犬小屋には犬がいたが、獲物によっては連れて行かない時もある。


「待たせてもらっても構わないかな?」

「ええ、よろしければ小屋へどうぞ」


 相変わらず壁のほうには一切目を向けない。そこに決して見てはいけないものがあるかのように。


「ううむ。そうだな。うん。少しは頑張ってみるか。知りたい事が沢山あるんだ。〈壁守人〉や君自身について」

「私自身から語るべき事は何もありません」


 セニードは木陰に沈む地面か杉の木そのものかハルビナの翠の瞳を見るばかりだ。


「では私の方から尋ねても良いかな?」

「ええ、どうぞ」


 二人は〈壁〉の方へと歩き出すがその歩みは遅々としていて、その速さでは日が暮れても小屋にたどり着けそうに無い。


「例えば、そうだな。〈壁守人〉とはどういう仕事なんだい?」

「壁を守り、祝福された亡者を壁の向こうへと通すのです」

「ああ、それだ。祝福されなかった亡者は悪鬼になり枯野を彷徨うとメド様に聞いたんだ。そして私はそうなっていたのだ、と」

「ええ。悪鬼は生前の全てを忘れ、生者と死者と〈薄暮の壁〉を憎みます」

「そしてそれらに分別なく襲い掛かる、と」


 二人はほとんど立ち止まっている時の方が長かった。


「その通りです。それらを打ち払い、〈壁〉を守るのが我々の使命です」

「しかし私は打ち払われずに済んだ。それは何故かな?」


 ハルビナは戸惑った。事を単純に考えすぎていた自分に気がついた。


「それは、師の見極める目が優れんが故に、です。まだ助かりうる者もまたここに彷徨い到る事があるので。私はそれと知らずセニード様を打ち払いそうになりました」

「もしかして腹を打ったか?」

「覚えておいでなのですか?」

「ぼんやりとだが、それほど強烈な一撃だったのだろう」


 セニードは豪快に笑い、ハルビナは頬を染めて俯いた。


「申し訳ございません」

「なに。それでもやはり私は感謝しているのだ。ヒーニアの谷の者だけでもなかろうが、多くの者が死の縁よりそなた達に救われた。今更私一人を助けて恩を感じたなどと、遅すぎる話だ」


 救われた、という言葉がハルビナの胸にしみこんだ。今までのハルビナに救おうなどという考えはどこにもなかった。

 セニードは遠い日を振り返るように杉の木の幹を見つめている。


「ところで、祝福されぬ者が悪鬼となるとすれば、十数年前の流行り病の時などは大変だったのではないか? 祝福されずに埋葬された者も多かったと聞く」


 ハルビナの表情は曇り、すぐには言葉が出てこなかった。セニードはそれを察したが出した言葉を引っ込める事は出来なかった。


「あの時、私の父母は死にました。まだ幼かったので話に聞いただけですが、多くの悪鬼が襲い掛かってきたといいます。父母は勇敢でしたが祖父と比べれば未熟だったそうです」

「それはすまない事を聞いた」

「いえ、この家系においては生まれた時より覚悟するべき事です」


 二人は馬を下りた所から壁まで半分の距離まで来たがセニードはそこできっぱりと立ち止まった。


「すまない。ここが限界だ。〈壁〉の荘厳さに私の足は萎縮してしまった」


 セニードは申し訳無さそうにそう言った。


「いいえ、私が無理を言いました。やはり馬の所で祖父を待ちましょう」


 ハルビナが従者の方へ目をやると、彼らは道の脇で下草を食む三頭の馬の面倒を見ている。

 戻ろうとしたその時、〈薄暮の壁〉の方から骨の髄にまで響くような重い地響きが起こった。グイム・トエ全体がその響きに身震いをしたようだった。その音が、震えが、その場にいた者の根源的な部分を鷲づかみにした。まだ昼前にも関わらず辺りは急速に暗くなり、森の中に息づいていた生命の気配は遠くへ消え失せた。三頭の馬は地響きが鳴るやいなや即座にどこかへ逃げ去ってしまった。

 セニードば大地に釘付けになったように立ち竦み、ハルビナはゆっくりと振り返って壁を見た。そこには動き得ぬ壁が緩慢に動きだすのが、〈眷属の門〉が砂煙を立てて開きだすのが見えた。ハルビナ自身、そのような状況を目にするのは初めてだったが、全ては師に聞いていた。それが何で、人は、〈壁守人〉はどうすべきかをハルビナは知っていた。


「貴方達! 森の中へ退避してください!」


 従者たちはその言葉に従っておずおずと森の中へ下がって行った。


「行きますよ! セニード様!」


 ハルビナのその言葉は、しかしセニードの耳には届いていなかった。その瞳の光も虚ろになっている。より〈壁〉に近いセニードは、その〈門〉の向こうの未だ見ぬ威容に当てられて萎縮しまったのだった。〈門〉が開くと共にハルビナの心も熱を吸われるように活気を失い、冬の夜のように静かになっていく。ただハルビナの中の魔法だけが彼女を急き立て、急き立てられた彼女は何かを諦めずにいられた。


「無礼をお許しください」


 ハルビナはそう言うとセニードの背を引っぱたき、するとハルビナの魔法が縮こまっていた国主の息子の体を解し、森の中へと駆けさせた。ハルビナもその後ろをついていき、道から外れると跪き、待った。


 杉の木の間から〈眷属の門〉が開き切ったのが見えた。その向こうから馬よりも大きな狼が三頭進み出てくる。その三対の瞳は満月のように煌々として、覗き見える牙は三日月のように鋭い。新月のような漆黒の体毛は霧のように揺らめいていた。しかしその威風も後から顕れた者の前に霞んだ。その三頭の狼より二回りは大きい黒馬と、それに騎乗する偉丈夫が門より出てくると獅子の咆哮のような強風が吹き荒び、厳しい鐘のような音が鈍くも響き渡った。


 黒衣に身を包んだその者の姿は純白の骸骨で、しかし人間のようでも獣のようでもあり、また鳥のようでも、魚のようでもある。異形の骸骨は黒馬と共に無数の武器を身に纏い、また幾つかは肋骨や髑髏の中に供えている。右手の指の半分は短刀で出来ていた。

 ハルビナの頭の中に様々な音が吹き荒れる。嵐のようにざわめき、雷のような轟き、大浪のようにどよめく。


 その中に師から聞いた言葉がしっかりと聞こえた。〈人狩りの狩人〉、〈追い遣る者〉、〈災いの御方〉、様々に形容した師は特に〈御方〉と呼ぶことが多かった。〈初めに去りし古の王〉に仕える眷族の中でも唯一人、人狩りを許可されているという。その行いに慈悲はなく、その行いに恣意はない。ただただ気まぐれに選び、獲物からすれば偶然に選ばれ、門の向こうへと連れ去られる。そして大半は連れ去られる事もなく、祝福を得られなければ悪鬼と成り果てる。


 〈御方〉は三頭の大狼を引き連れて、ヒーニアの谷の方へと突風のように走り抜けていった。去っていって尚その威厳を秘めた気配がそこここにこびり付いて消えないようだった。

 〈眷属の門〉はまた誰に引かれることなく鳴動と共に閉じていく。完全に閉じ切った時、初めてハルビナは呼吸をしていなかった事に気づき、必死に息づいた。セニードも遠くに見える従者達も茫然としていた。


「すぐにお戻りになってください。セニード様」

「一体何が起こるのだ?」

「分かりません。ただ以前に〈御方〉が門よりお出でになった時は流行り病が起こりました」


 その言葉を聞き、はっとした様子のセニードは一度ハルビナを見て頷き、従者たちの元へ駆けていった。




 数日経ってもメドは戻って来ず、とうとうその夜が来る。ハルビナはメドが戻ってこない理由をあれこれと考えたがどれも考えたくない想像だった。〈壁〉から〈壁守人〉が離れるわけにはいかない。ましてや〈御方〉が出門された後とあっては、一時とてどこかへ行くわけにはいかない。師に鍛えられた猟犬達もまた、犬小屋が開け放ったままであってもどこかへ行くつもりはないようだった。


 西の山影に太陽が沈む頃には、その気配に気づいていた。森の奥深くに誰にも知られずひっそり息づく沼のような重く冷たい感情が〈壁〉の方へ流れて来る。

 太陽が全て沈むと、ヒーニアへ続く道の奥から人影の群れがやってきた。百や二百は下らない数の悪鬼が〈壁〉を目指して進軍してくる。彼らの放つ黒い影が揺らめきながら押し寄せてくる。ハルビナは悪鬼達の姿を見て、〈御方〉がどのような災いを齎したかを知った。そのほとんどが男で、鎧を身に着けたり、剣や槍、弓を携えていた。


 ハルビナは石剣を抜き放ち、刻み込まれた呪文に息を吹きかけた。渦巻く魔法がその呪文の文字一つ一つに浸潤していく。すると輝く文字の刻印から驚異と幻想が竜巻のように渦巻き立ち昇った。ハルビナがそのまま石剣を振るうと古来に紡がれた魔法が起き上がり、朝ぼらけの小鳥のように歌い、犬を前にした赤子のように笑い、悪鬼の黒い影へと打ち寄せた。魔法と影のぶつかり合った辺りで小さな嵐が吹き荒れ、雷が鳴りはためいた。


「それより先へ進めば〈初めに去りし古の王〉より賜りし剣が熟した果実をもぐより容易く首を刎ねるだろう。心せよ」


 悪鬼たちもようやくハルビナの存在に気づいたようで弓持つ者は矢を放ち、槍持つ者は突撃する。

 ハルビナは父母と祖父の為に祈りの言葉を呟き、己を鼓舞するおまじないを唱えた。剣を構えて悪鬼の群れへと走り出す。そのハルビナを追い抜いて五頭の猟犬が悪鬼めがけて疾駆していった。ハルビナの心は高鳴る。己の力で守れぬようなら何れ滅びよう、という言葉を思い出した。その言葉を核にした魔法を犬たちに結ってやる。


 影から離れた矢は全てハルビナの魔法に捉えられ、元来た方向へと放たれた。最初の犬が最初の悪鬼の首元に噛み付いた時、もう一度ハルビナは剣を振るう。解き放たれた魔法は黒い影と踊るように悪鬼の間を駆け巡り、一人ひとりの口の中を覗きこんでいく。二十五イント硬貨を口に含む者を連れ去る魔法は、その役目を果たす事無く消え失せた。


 ハルビナもまた悪鬼の群れに飛び込む。槍は一つとしてハルビナの肌に触れることはなく、逆にハルビナの石剣は一振りで五人の悪鬼を打ち払った。悪鬼の剣を石剣で受けると、その衝撃は風のようにハルビナの肌を清清しく吹き抜けて、むしろ彼女自身の冷静さを取り戻すばかりだった。ハルビナが悪鬼を打ち払えば打ち払うほど、悪鬼たちは犬への注意を失い、その首を失うことになった。ハルビナの舞について来られぬ者の大半はその姿を目で追うだけで精一杯のようだった。さらに一振りで十人が打ち払われ、さらなる一振りでもう十人が打ち払われた。ハルビナの悲しみもまた高まるばかりで、この戦いに何の希望も見出せずにいた。誰一人救えない無為な戦いに思えた。


 〈災いの御方〉がまだ戻ってきていない、という事はこの悪鬼たちは第一陣でしかない。今日の戦いを生き延びても明日、明後日と悪鬼たちが攻め込んでくるのだ、と思うと気持ちは沈むばかりだ。

 悪鬼達の数はみるみる減っていく。ハルビナや猟犬たちは疲弊してゆくがその数が欠ける事はなかった。ハルビナの石剣は振られ、犬の牙が打ち鳴らされる。とうとう最後の一人になった悪鬼に一頭の犬が躍りかかる。ハルビナは咄嗟に犬を制止して最後の悪鬼に駆け寄り抱きしめた。その瞳にはまだほんの微かな命が宿っていた。


「ようやく救えます。貴方ももう少し命を大切にしてください。セニード様」


 ハルビナは己の涙と真心を調合した魔法を呆けた表情のセニードに振りかけた。悪鬼となったセニードの瞼が落ちて泣き疲れた赤子のように眠りに落ちた。ハルビナは打ち漏らしがないか確認してセニードを抱き上げた。そしてヒーニアの谷へ降りていく。




 ヒーニアの郷自体は建物も畑も無傷だった。切妻屋根が青空に向けて鋭く伸びている。金色の穂群が柔らかな風に優しく揺れている。

 戦火は谷の中にまでは及んでいない。しかし確実に影が落ちている。死傷者が道に転がっていて、女子供が忙しそうに立ち働いている。ハルビナを見ないようにしていた郷の女達の一人がセニードに気づいて駆け寄ってきた。


「セニード様! どうして〈壁守人〉様と一緒にお出でなんです?」

「死に瀕していた所をお救いしました。後を任せてもよろしいでしょうか?」

「ありがとうございます。ありがとうございます。後はお任せください」


 ハルビナはセニードを見送り、改めて郷の惨状を見た。使命に戻らなくてはいけないが、ここでいくらでも役に立てるだろう、人を救えるだろうと思うとハルビナは後ろ髪を引かれる思いになった。しかし自分を引き剥がすように〈薄暮の壁〉へと帰る。その時ハルビナを呼ぶ声が聞こえて振り返った。走ってきた郷の女は見知ったシアトという女だった。たまに郷に降りてきたハルビナの面倒をよく見てくれた。


「ハルビナ様! メド様が! メド様が!」


 シアトは郷の入り口の方向を指差して泣き崩れてしまった。ハルビナはシアトを残して走り出す。郷の惨憺たる様子もハルビナの目には入らなかった。ひたすら郷の入り口を目指して駆け抜ける。郷の入り口には比較的傷の浅い男数人が倒れた者の周りにいた。


「ハルビナ様だ!」と、誰かが言った。

「ハルビナ様を通せ!」と誰かが言ったがハルビナには聞こえていなかった。


 男達がハルビナに場所を譲る。そこには深い傷を負い、眠るように横たわったメドがいた。ハルビナは縋るようにメドの肩を掴んで揺する。しかしメドは身動き一つせず、目を開く事もない。ハルビナは乞うように周りの男たちを見るが誰の瞳にもメドの生きる可能性は宿っていなかった。ハルビナは涙をこらえた。人を生き返らせる魔法は無かった。これで二度と師に認められる事はない。師を超える事は出来ない。

  ハルビナは震える手でメドの首飾りを外し、三枚の二十五イント硬貨の内の一つを抜き取る。その硬貨をメドに銜えさせようとした時、ハルビナの腕を男が掴んだ。顔だけは知っている男だ。


「メド様の最後の言葉なのですが、その……私に祝福を与えるな、と」


 ハルビナにはとても信じられなかったが、周りの男達も同意するように頷いた。その顔には誠意が見られた。誰も嘘などついていない。


「どうしてですか? 一体何の為に?」

「それが私達にもさっぱり。最初は聞き違いかと思って何度も確認しましたが、はっきりそう遺しました。他の者も聞いています」


 男達はもう一度、そして何度も頷いていた。ハルビナは三つの二十五イント硬貨を見つめた。内二つは父母に与えるべきだった硬貨で、残り一つは祖父のものなのだと思っていた。それは息子夫婦を死なせたばかりか、祝福さえ出来なかった祖父の後悔と懺悔を意味するのだ、と思っていた。つまり。それは。そして。


「祖父を任せてもよろしいでしょうか? 遺言どおりに祝福することなく、この郷に、我が父母の隣に埋葬していただけますか?」

「もちろんです」と男達が口々に同意した。


 ハルビナは謝辞を述べ、二十五イント硬貨の首飾りを身につけ、暇乞いを告げてその場を去り、戦火迫るヒーニアの郷を去り、グイム・トエの森へと戻っていった。




 あれから三日三晩を戦い抜いた。和平交渉は続いており、戦火は収束し始めているが小競り合いがまだまだ起きている。そこでは青く深い空の底で人間が殺し合い、死んでいる。

 〈眷属の門〉の潜り戸の横に置かれた椅子にハルビナは深く腰掛ける。疲労は溜まる一方で終わりは見出せないでいる。猟犬を二頭失い、残った三頭がハルビナの足元で丸くなって眠っている。


 四日目の朝が忍び寄っている。白み始めた東の空にホシガラスが鳴いている。三頭の犬が同時に起きてヒーニアの方に鼻を向ける。ハルビナの魔法がメドの接近を歌い上げる。夢見心地だったハルビナは古い歌にある最初の〈壁守人〉を思い起こした。

 ここに来るまでとても長かった。息子夫婦に挨拶でもしていたのだろうか、とハルビナは想った。三頭の犬を抱きしめ、頭を撫でてやる。


「ここで待っていてくれ。きっと師を越えてみせるからな」


 犬達はハルビナに甘え鳴き、鼻面を擦り付けた。

 ハルビナは石剣を抜き、ゆっくりと歩いてくるメドの影を睨み付けた。ハルビナもまたメドの方へと歩き始める。同時にメドは走り出し、追ってハルビナも走り出す。魔法に押し出されて二人は加速し、二振りの石剣がぶつかり合う。

 鈍い音と共にお互いの体は離れるが、メドの素早い足運びは体を回転させ、二撃目を畳み掛ける。石剣の刃に結びつけた魔法でそれを受け止めたハルビナは光を受けた鏡のように衝撃を反射し、メドを吹き飛ばした。地面に空いた穴のような真っ暗な姿で倒れこむメドに追い討ちをかけるが機敏に躱され、足を払われる。

 尻餅をついたハルビナは振り下ろされた石剣を受け止めたはよかったが、影に押さえつけられた魔法は働かず、取り落とした石剣は影を纏った足に踏みつけられた。改めてハルビナはまじまじとメドの顔を見る。黒い影に覆われた顔に浮かぶ虚ろな瞳が感情なくハルビナを見て、剣を振り上げている。

 遠く後ろの方で猟犬達が遠吠えをすると、一瞬気がそれたメドに、ハルビナは魔法の突風を叩き付けた。堪えるメドから溢れる黒い影が剥がれていく。ハルビナの目にメドの顔が見てとれた。

 瞬間、メドの胸に石剣が穿たれる直後、朝日の光条差し込む杉の森でメドから放たれていた影が霧散した。


「ありがとうよ」と師メドは言った。


 ハルビナの目に涙が止め処なく溢れた。ただただ首を振るしか出来なかった。メドは跪き、ハルビナの肩を掴んだ。


「お前は未熟だが、私よりはマシな〈壁守人〉だ」


 メドから温かい魔法が流れてきてハルビナの体を浮かび上がらせた。


「師よ。一体何を?」

「すまぬが加減が出来ぬ。達者に暮らせ」


 メドが何をしようとしているのか、メドの後ろに迫るそれを見て分かった。ハルビナの体が杉の森の方へ吹き飛ぶ。杉の木に叩き付けられたハルビナはよろめき立ち上がろうとする。杉の木の間からメドが微笑みかけた。次の瞬間蛇のような鎖がメドの老体に巻きつき、後からそこを山のような黒馬と三頭の巨狼が轟音と共に駆け抜けた。メドの小さな体は塵のように引きずられ、いつの間にか開いていた〈眷属の門〉に吸い込まれて消えた。

 ハルビナは涙が枯れるまで泣いた後、首元に揺れる三枚の二十五イント硬貨を握り締め、その場を後にした。

ここまで読んでくださってありがとうございます。

ご意見ご感想ご質問お待ちしております。


久しぶりの異世界ファンタジー。やっぱり好きなジャンルは書いてて楽しい。

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