桜語り
文芸部部誌・題「四字熟語」より。
タイトルを「未来永劫」から「桜語り」に変更。
彼との出逢いは私が十四の誕生日を迎えた、春の夜のことでした。その日は、月の綺麗な夜で、月の光が満開になったばかりの桜を優しく照らしていました。
『君はどうして泣いているのだい?』
それが、彼が私に初めてかけた言葉でした。
頬を濡らしていた私は、はっとして顔を上げました。そこに居たのは、月の光を集めたような銀髪をした麗しい容姿の青年でした。
「あなたは、誰…なの?」
私の声は少し震えていました。
『私かい?』
返ってきたのは、体温のこもっていない、冷たい声。それは、人間とは思えないようなものでした。彼は、私に柔らかく微笑んで答えました。
『私は、桜の精霊だよ』
「ハル」
『やあ、清葉』
彼に出逢ってから、もうすぐ四年が経過する春の夜のこと。
桜の精霊である彼と逢えるのは桜の蕾が芽吹いてから、散るまでの僅かな期間。一年間の内の十日ほどだけでした。彼は、儚く消えてしまう泡沫のようで、そのことが一層彼を美しく魅せているのではないかと思いました。
『綺麗になったね』
「ハルの方が綺麗だよ」
あの頃、照れくさくなると、私はすぐに言い返していました。〈ハル〉というのは私が彼に付けた名前です。初めて逢った夜、彼に名前を聞いてみたら、好きに呼べばいい、と言われてしまったので、季節の春からとりました。
『今年も逢えて嬉しいよ』
ハルに逢うのは今年に入ってから初めてのことでした。
「私も嬉しい」
優しく笑う彼に、私も思わず笑顔になってしまうのが不思議でした。出逢った頃、彼に冷たい印象を抱いていましたが、今では優しく穏やかな人であることを知っていました。清葉、と呼ぶ優しい声にいつの頃からか私は胸をときめかせていました。彼と過ごしているときには胸がふんわりと温かくなりました。この気持ちが何であるのか、私は気付くことが出来ませんでした。
別れの時は、突然でした。私は遠方へ嫁ぐことになったのです。それが決まったのは、次の春に会おう、と、ハルと約束して別れてすぐのことでした。相手の男性は、私より二つ上で学校の教師をされている方でした。彼は、父の親友のご子息で優しく穏やかな善い人でした。この縁談を断る理由はありませんでした。
重陽の節句を迎える頃、住み慣れた生家で過ごす最後の日。真夜中に、私は桜の木の下へ行きました。ハル、自然に口から呟きがこぼれました。けれど、私の声音は真っ暗な闇の中に消えていきました。その時、私は初めて気付いたのでした。
ああ、私は恋をしていたのだな、と。
こうして、私の初恋は終わりを迎えたのでした。
――清葉
あれ。どこからか私の名前を呼ぶ声が聞こえて、私はゆるりと瞑っていた目を開きました。身体は軽く、なんだか温かいものにくるまれているような、不思議な感覚がしました。
「清葉」
また、声がしました。けれど、人影はどこにもありません。仕方がないので、声のする方向へ歩いていくことにしました。それにしても、誰が呼んでいるのでしょう。何故か、とても懐かしく感じているのです。
ずっと歩いているうちに冬だった季節が春になっていました。目の前には、大きな満開の桜の木があります。と、人影がちらりと見えました。
「…ハル」
知らぬ間に、言葉がこぼれ出ていました。ノルタルジア。遠い過去に閉まっていたモノクロの記憶が極彩色のように、鮮やかになっていきました。
「ずっと待っていたよ」
私の呼びかけに答えるように、彼は振り向いて私の元へと歩み寄ってきました。
「まさか、五十年も待たされるなんて思わなかった」
そう言って、彼は私の髪を撫でました。若い頃に比べれば艶を失い、白髪も混じる黒髪を。彼は、記憶の中の容姿と全く変わっていませんでした。ああ、そうだったのか。
「ここは、永遠なのね…」
私の言葉に彼はあの頃と変わらない優しい笑みを浮かべて私の耳元で言葉を紡ぎました。
桜の花びらは、くるくると舞い散っていました。