少女は少年と出会う
1.
可哀想な少女がいた。
名をエリザベートという。本来はエリザベート・クリスティーネ・フォン・ロレーヌ=ヴァレンタインという長ったらしいのが本名となるのだが、ここで重要なのは、このエリザベートという少女がその名前が示すように相応の身分、というよりは公爵家令嬢であるというのが問題であった。
十歳の頃までは良かった。エリザベートの母親は側室ではあるが、国家に重要な大商会の娘であり、本人にもその才があったのか、ヴァレンタイン家の運営には欠かせない人物である。先にヴァレンタイン家の第一子として正室が女子を産んでいるが、それでも周りは異常なまでにエリザベートに取り入り、持て囃した。エリザベートはそれが当たり前のものとして過ごした。あれが欲しいと言えば誰かが頭を垂れてそれを差出、これが欲しいと言えば誰かが慌てて走り出しそれを持ってきた。何が欲しいといわなくても、誰かが美しい何かをエリザベートに献上した。
幸せな生活であった。こういった生活を一生続いていくものだと思っていた。
しかし、それは正室が男子を生んだ時点で儚く脆く崩れ去る。
誰もが彼の誕生を祝福した。祝福しなかったのはエリザベートの母だけであった。エリザベートですら、訳のわからないまま祝福した。そんな娘を見て、エリザベートの母は軽蔑の視線を娘に向けた。
最初は何故母が冷たくなったのかわからなかったが、次第に、エリザベートも祝福しなくなった。むしろ憎悪すら沸いた。
エリザベートの周りには誰もいなくなった。誰も何も持ってきてくれなくなった。自分の我侭を笑顔で聞いてくれていた侍女は、誰も見ていない所でエリザベートの髪を掴み、「ざまぁみろ」と凄惨な顔つきと高笑いを見せ、エリザベートの部屋から高価なものを盗み出し、それ以来一回もみたことがない。
それでも、いやだからこそか、エリザベートの我侭は落ち着くどころか一層激しくなった。
実の母親には愚かと切り捨てられ、媚を売ってきた物たちも消え去り、ヴヴァレンタイン公爵とは食事を共にすることもなく、隔離されるようにヴァレンタイン領の首都を離れ、別の居へと移されたエリザベートは、少ない味方である、母方であるロレーヌ家から付き従ってくれている従者達に我侭を言うようになった。
初めは可哀想なお嬢様と思いなんとか願いを叶えていたその従者達も、少しずつ限界を悟り、多くの場合、心優しいものから辞めていく物で、残った者は給料のことしか考えない、事務的なことしかこなさないものだけが残った。彼らはもちろんエリザベートの言うことなんか聞かず、それに対してエリザベートが母に話そうとしても、その時点でエリザベートの近くに母はいなかった。
そうして、エリザベートはたまらず家を飛び出した。
彼女は十二歳であった。
2.
ヴァレンタイン公爵の保有する家は沢山ある。まず、基本的な住まいと仕事場はヴァレンタイン領首都ヴァレントにある城となる。そしてプライベートと接待用としてヴァレントの街の貴族街に邸宅を構え、もちろん王都にも一軒あり、さらに別荘がありと、かなり数の家を保有している。
それなりに大きな街には確実にあるのだが、冒険者の街、ヴァレンタイン領フェスカにももちろんあり、エリザベートは使用人を除けば一人暮らしの様に住んでいた。単純に言って、邪魔だからと切り捨てられたのだ。
エリザベートの母にももちろん野心はあるのだが、それ以上に忠誠心も強ければ非道な手段を使って伸し上るタイプの人間でもなかった。ヴァレンタイン家の後の禍根となるならば、非情となって娘を切り捨てられる、いうなれば有能な政治家であったのだ。
もちろん、エリザベートはそんことはわからない。今まで耐えに耐え抜いて、いつ爆発してもおかしくない風船が、爆発した。当たり前のことではあるが、我侭を伝えたい時に身近に母親がいない状況というのは、我侭で高慢ちきで他者を省みない少女と育ったエリザベートに多大なるストレスとなって降りかかったのだ。
その結果の、家出である。
あるいは、そうあるいは。
その家出の結果、賊にでも襲われ、エリザベートの母もヴァレンタイン公爵もその存在に目を向け、物語の様に救出され、多少の恐怖を与えられど、同様に愛情を向けられるようになったのかもしれない。
あるいは優しいながらも芯のある老夫婦が保護し、エリザベートを愛し、矯正し、平穏で豊かな擬似家族が形成されたかもしれない。
一種、不幸なのは、母親譲りの現実主義的な精神がエリザベートにはあったということだ。
十二歳ながらも、家を飛び出し走り出したはいいが、エリザベートはすぐにその歩調を緩め、不安げに現在の自宅へと視線を向け、それでも、重くありながら足は自宅を離れ、誰の顔も見たくは無いと思う一方で、誰か追いかけてこないかと思い。
しかし、そこに人影はなく。
悲しみと激情に意識は支配され、またもエリザベートは一心不乱に走り出した。
それでも、思考の端っこで、意識は冷静で。
ここは冒険者の街フェスカ。荒れくれ者は多い。大きな通りを離れるのはあぶない。とはいえ、街の連中だって我侭お姫様の評判はよくない。お得意の商人達だって私身柄を使ってヴァレンタインやロレーヌから金銭を炙り出そうとするだろう。今までだって、迷惑は一杯かけているが、それでも、こんな形で家に迷惑をかけるのだけは嫌だ。
虐げられても、私はヴァレンタイン家の令嬢。貴族として誇りはある。
どこかへは行きたい。しかし行く当ては無い。まさしく自分を表した現状だ。
泣きたい気持ちをグッと堪え、行く当ても無い足を小さく重く進める。
そんな折、一人の少年を見つける。
3.
昼間を少し過ぎた時間である。
エリザベートは自身が思いのほか歩いていることに気付いた。ここは街を少し外れた住宅地だ。それなりに大成した冒険者達が居を構えるところ。平民にしては、それなりに良い暮らしをしている。
エリザベートは自分の住んでいる所の知識はきちんと持っていた。高慢で我侭ではあるが、だからこそ、その所以たる貴族として、支配者として勉学にも励んでいたのだ。偉大なる敬愛なる母に追い縋るように。
同い年くらいの少年は一人、住居の壁に背を預けて地べたに座り、空を見上げていた。平民にしてはマシな顔をした少年ではあるが、それも呆けているせいで台無しであった。
エリザベートの胸にまたも怒りが湧いてきた。
自分がこんなにも苦しんでいるというのに、この平民の子供は何も考えていないような顔でボヤッと空を見ている。その状況に無性に腹が立った。
「ちょっと、そこのアナタっ!!」
「へ、はぁ。もしかして、僕ですか?」
「他にいないくらいわからないの!? 一体、あなたは何をしているというの!?」
「はぁ。まぁ、そうですね……」
ボヤッとした顔のまま、思案気に視線を上向かせた少年は、悪戯っぽく笑う。エリザベートがその所作に怒鳴ろうとする機先を制して、少年は言う。
「表面的に見れば、僕は空を見上げていましたが、内面的にみれば、己を見つめていた。ということになるでしょう。さらに具体的に言えば、自分がまさしく生きているのか、死んでいるのか悩んでいたということかもしれません」
その様に滑らかに言い放つ少年に、エリザベートは怒りを忘れ、おもわずキョトンとした。
それを見た少年は、フッ、と非常に柔らかな表情で笑む。
「ねぇ、お嬢様。よろしければ、僕と一緒に空を見上げませんか?」
そういうと、少年はエリザベートの返答も待たずに、先ほどまでと同じように建物に背を預け、何も考えない顔をして空を見上げ始めた。
エリザベートは、呆気にとられながらも、この小さな賢者に対して思いをめぐらした。
平民ながらも、妙に学のある言い方をしていた。両親があるいは学者なのか。子供がこんな風であるというぐらいに、ここは安全な場所なのかもしれない。足も疲れたし、休むには丁度良いのではないだろうか。どうせ、いく当てもないのだし。
普段のエリザベートであれば、まずしないだろうことを、このときのエリザベートは選んだ。いや、おおよそ、どんな人物であれ、こんな変な人物に「一緒に空を見ませんか?」と誘われて、誰がそうするというのだろうか。
それにしても、先ほどの、あの柔らかい微笑みがエリザベートは気になった。決して人に好意を与えない類の、それでいて柔らかい微笑み。例えるなら、死者が生者に向けるような、そんな笑み。
フン、と鼻でそんな色々なことを吹き飛ばして、ぶっきら棒にエリザベートは少年の隣に座った。高級なドレスを身に纏ったエリザベートではあるが、今はそんなことはまったく気にしてなかった。
ふと横を見れば、少年は目を見開いてエリザベートを見つめていた。
「何よ」
「本当に隣に座ってくれる人がいるとは思わなかったんです」
「フン、なら、感謝しなさい」
「ええ、ありがとうございます」
変な会話であった。すぐに会話は途切れた。
少女が空を見上げると同時に、少年も同じように空を見上げた。
建物で区切れていてる、四角い、抜けるような青空には、白い雲がぽつぽつと浮かんでいる。建物の影にいる所為か、熱気も感じず、静かで涼しい。石畳も固さも気にならない。辺りには人がいない。世界がこの二人だけで閉じてしまっているようだ。時折通りを風が抜ける。同時に、緑の匂いも運ばれてくる。
4.
「ねぇ、君」
「なに?」
「僕はね、結構これでも人に助言するのが上手いんだ。みんなうんうん頷くんだけど、けれども一度だってその通りにしてくれたことなんてないんだ」
「ふぅん」
「そんな僕の言葉だけど、君に助言をしようと思うんだ。どう、聞いてくれる?」
「いいわよ」
「……本当?」
「面倒くさいわね、この私が聞いてあげるっていうんだから、言いなさいよ」
「う、うん。えっとね、そうだね……」
「なによ、人のことじっと見て」
「いや、こうして、相手を見てると、なんとなくその人のことがわかってくるんだよ」
「固有魔法か、何かかしら?」
「いや、うん、そういうのとは違う、なんていうのかな、経験則みたいなものなんだけどね」
「ふぅん」
「うん、そうだね……ねぇ、嫌いな人を思い浮かべて?」
「え、そうねぇ……」
「その人の容姿や性格ってさ、欠点が多くない?」
「う~ん……」
「まぁ、いいよ。それにしても……なんだか、本当に君はお嬢様なの? そんなドレスみたいな格好に、ふわふわなロングの髪の毛。初めてみたよ」
「まぁ、お嬢様みたいなものね」
「へぇ……ねぇ、何をどうしたい?」
「え?」
「うん、僕の場合ね、結局自分と相手を重ねることで、こう、距離を測って要点を見つけるんだけどね。そこで重要なのが、『人が僕より、何に諦めてないか』ってのを測るんだ」
「……そう、それで?」
「でも君はいまいち良く分からない。何をどうしたいのかが上手くみえてこないんだ。まぁ、でも、少なからず、誰でもそういったものは抱えているから、当てずっぽうもいいところなんだけどね」
「随分と自信の無い占い師さんね」
「隣にいる女の子が微笑んでくれるくらいまでは、頑張れる占い師なんだ」
5.
気付けば、エリザベートは微笑んでいた。それもとても自然な形で。
ああ、と声を上げる。エリザベートはとても、非常に愉快な気持ちになっていた。
『この人は私のものだ』という気持ちを、エリザベートは至極素直に受け入れた。
なんだか、とても気分が良い。
興が乗り始める。
6.
……ねぇ、あなた。あなたは今度から私の下僕になりなさい。
……具体的には?
……あなたは私に全てを捧げるの。その生き方、人生、考え方、全部丸ごと私のものにするの。それこそがあなたの幸せで、私の幸せ。
7.
エリザベートの分水域だった。
これで少年が断れば、我侭で高慢な少女は終わり。全てを諦めて、ただ漠然と日々を過ごす可哀想な令嬢になろう。
少年の言葉、『何をどうしたいのかが見えてこない』というのは、確かにその通りなのだ。エリザベートは、ただ目の前にあるものに対して、我侭で高慢でありたいというだけなのだから。
だから、これで、綺麗さっぱり。
エリザベートは、終わるのだ。
8.
それは、とても、美しい姿だった。
少年たるコウは、完全に見惚れていた。
夏の青空、草木の香りを乗せた風が抜ける、石畳のひんやりとした影の中、初めて出会った少女、少年。辺りに物音はなく、人影もなく、ただそこには、片手を胸に当て、片手をこちらに差し出す少女。美しい髪、神の造詣とも思える容姿、豪奢なドレス。その対比として、所々はねた髪、憔悴した表情を乗せる容姿、皺だらけのドレス。
そして、それを跳ね除けた、純粋な、晴れやかな、表情と、誘いの言葉。
9.
少年は、エリザベートの手を取り、言った。
10.
どうぞ、喜んで。お嬢様。