6
ラズという男は変な男だった。
ルビーは自分のことを王子と呼び、彼も事情をある程度は把握している様子だったが、始終態度を改めることはなかった。カイアナイトを‘坊ちゃん’と呼び、口調さえ改めることはなかった。
ただ、こちらのことを詮索する様子もない。
口にすることと言えば「飯喰え」「寝ろ」「嬢ちゃんは気にするな」ばかりで、カイアナイトを探る様子すらなかった。そのくせ気付くと観察するような不躾な視線を自分に向けている。それが腹立たしくてならない。
それでも甘んじてその屈辱に耐えていたのはやはり体力の問題だ。日に日に回復しているとは言え、自分の体力は驚くほど低下していた。自力で歩くことすら困難なことには驚いたが、体力が回復し始め、根気よく続け、ようやくゆっくり歩けるようになった。
ラズは日中は家を空けていることが多かった。食事を作る為に戻ってきてはいたが、カイアナイトが休むとどこかへと出かけていった。
どこへとは詮索しなかったが、カイアナイトがここで目を覚まして三日目の昼簡易な旅装を手に戻ってきた。
「取りあえず坊ちゃん、コレに着替えてくれ」
「……私にこんなものを着ろというのか」
旅装は着古したようなものだ。
そう言った衣服を身につける機会があったために、強い抵抗感がある訳ではなかったが、男の言いなりになるのが気に食わなかった。
「多少アレなのは勘弁な。多分そう言う格好のが目立たない。その髪も隠した方が良いだろ。金髪の、十代半ばのガキは否応なしに疑われるからな」
「疑われる?」
「ここを出る。王都で騒ぎがあったとこの街でも噂が立ち始めた。かぎつけられるのも時間の問題だろ。坊ちゃんをそんな状態で動かすのはちょっと辛いトコだが、ま、動くなら今のうちだろ」
「……私に逃げろと言うのか?」
睨め付けながら言うと男はあっさりとした様子で頷く。
「当然」
「ふざけるな。私は何も後ろ暗いことはしていない。なれば体力が戻り次第、正面からアゲートを糾弾すべきだ」
ラズは髪の毛をかき上げて頭を掻く。
「そうは言ってもなぁ……」
ラズはちらりと気遣うようにルビーを見る。彼女は困ったような顔で彼に微笑みかけた。
少し、苛立つ。
「いいかい、坊ちゃん。王都では王子様が王様殺したって噂になってる」
「……そんな事実はない」
「それがホントにしても、だ。王子様が城から‘逃げ出した’以上……」
「逃げ出してなんかいないっ」
「……そうなってんだよ。まぁ、話は最後まで聞け。王都の民にとって王子よりアゲート大臣の方が身近で今までも何かあったとき親身になって働いてくれたって事実がある。事実如何はともかく、大臣の方を信じる風潮が出来る。ここまでは分かるな?」
カイアナイトは俯いた。
そう言った事を理解出来ないほど自分は愚かではない。アゲートはやるべき事をきちんとこなしていた。王族としてすべき事はカイアナイトもしてきたが、アゲートの方が経験も長く、一つ二つの‘事’を成し遂げただけのカイアナイトよりも大臣の方に信頼があることだろう。王家という大きなものがなければ自分を信じる者などあの場に居合わせたルビーとスターしかいないだろう。
「その大臣が弑逆の罪で王子を追っている。逃げ出した以上、王子様が罪を認めているって思っている輩も多い。この状況で正面から正当性を訴えても丸めてポイだ。取りあえず逃げて策を考えるんだ」
「策など………」
ある訳がない。
ラズは声を立てて笑う。
「俺が知る限り、この世の中で坊ちゃんが無条件で信じていいものが二つある」
「……まさか自分を信じて良いなどと言わないだろうな?」
「まさか。信じては貰いたいけど、坊ちゃんが無条件で信じられるもんじゃねぇだろ。一つは、無意識に加えたお嬢ちゃんのことだ」
ラズはルビーを示す。
「えっ……」
彼女は驚いて声を上げた。
悔しいがラズの言うとおりだった。無意識に彼女を信じて良いものに加えていた。彼女はカイアナイトと視線が合うと、顔を赤らめ、俯いた。
もう一つと言えばスターのことだが、ルビーが兄のことを知らせていなければ彼が知る訳もない。伺うように見ると彼は笑う。
「もう一つはネセセアの神様だ」
「……神など……いない」
否定するとラズは首を振る。
「神様は存在するよ」
「なら、何故このようなことが起きた? 何故争い事が減らない。……なぜ飢餓が起きる」
「そういうのは俺にはわからネェけど、俺も国内外色んなトコ旅して、色々知ってるからな。色んな国の色んな伝承を聞いたことがある」
彼は腕組みをし、壁にもたれ掛かる。
「大抵の国の神様は政治のために作られたまがい物だ。でも、稀に、本物としか思えないようなものがある。……ネセセアの神話は本物だと俺は思う」
「………根拠は?」
「奇跡が起こるんだよ、この国は」
「奇跡?」
カイアナイトは鼻先で笑い飛ばす。
そんなものが起きていたとすれば、自分はこんな風にはなっていなかっただろう。国王もあんな死に様ではなかったはずだ。
「………」
不意に思い出してカイアナイトは口を噤んだ。
奇跡。
自分があの場所から逃げられた事情をルビーは「紐を解いた」と説明した。サファイア総主から預かったと男がカイアナイトに渡してきたあの紐。
あれがなければ、自分はもう生きていなかっただろう。
それがもしも、奇跡というのなら。
ちがう、とカイアナイトは否定する。
あの男の言葉をそのまま信じるとすれば、あれはサファイア総主が起こした事で、ネセセア神ふが起こした奇跡ではない。ただ、サファイア総主はネセセア神に使え続ける者。王家の対となり、国を支える礎。
「神様は、人の事に手出ししちゃいけないって事になっているらしい。大抵の国ではそうなってる。祈って加護をくれるけれど、奇跡なんて起きやしない。たまに神の奇跡なんて大仰に言うことはあっても、偶然が重なって結果的に好転したから神様のおかげにしたに過ぎない。でも、この国の歴史を調べると、節目節目で神様が関わったとしか思えない奇跡が起きてる。……神様の声を聞けるっていうサファイアの民によって」
「………サファイアの民」
「彼らは王家を裏切らない。庇護を求めに行くべきだ。王子様はそのうち向かうことになっていたはずだし、今頼れるのはサファイアの民だけだ」
言いたいことを把握してカイアナイトは彼を見る。
「サファイア郡に行くと?」
「そうだ」
「……アゲートもその程度のことは想定しているはずだ。先手を打たれている可能性が高い」
「ま、だろうな。けど、あの場所は特別だから、連中の言うことを聞くとは思えないし、軍隊を待機させるには遠征までに少々時間がかかる。それ前に王子様がサファイア群に着けばいい。それだけのことだ。……分かったら着替えてくれ。昼の間に出発したい」