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「あーあ、まったく、坊ちゃんは困った人だ」
男は鍋の中の粥を温めながら言う。
カイアナイトが目覚めた事を知って、彼がすぐに食事の準備を始めた。優しい匂いが少し食欲をそそった。
彼はあのまま二日も眠っていた。熱を出し、うなされながらも彼は賢明に戦っていた。綿に染みこませた僅かな水分が唯一口から取れるものだった。彼の衣服を変えることこそラズの仕事だったが、それ以外のことは殆どルビーが行っていた。
ラズの作った薬と包帯を交換するのも、濃度の高い酒で消毒するのも彼女が全部行った。夜も殆ど眠らず、さすがに心配したラズが眠らせるために追い出すまで彼女はカイアナイトの側にいた。
その様子を見ていただけに、目覚めた後すぐに追い出されてきた彼女を見て男は苦笑いを浮かべたのだ。
蹲って涙を堪えていた彼女は顔を上げると微笑んだ。
「彼が目を覚ましてくれればそれでいいんです」
言うと彼が少し呆れたように言う。
「お嬢ちゃんは怒っていいと思うんだけどな」
「……今回のことは、私がいけないんです。顔を見たくなくて当然なんです」
「ルビーは自分を責めているんだな」
言われてその通りだと思う。
もっと早く、父親が何をしているか、何を考えているのかに気付ければこんな事にはならなかったのだ。娘である自分が一番彼を見ていたはずだった。兄のように兵士として働いている訳ではない自分の方が、よほどアゲートの近くにいた。
早く気付くべきだったのだ。
もっとちゃんと話して、父親の考えを聞いて、諫めなければならなかったのだ。それを怠り、国王を死なせてしまった。王子にとって自分は親の仇の娘であり、見たくなくて当然なのだ。
そう言う罰が自分には必要だと思っている。
「自分を責めて不幸に浸っているのは楽だけど、そこから行動しなければなんの意味もない。悩むのも後悔するのもあとだ。今はお嬢ちゃんがやるべき事を果たすべきだ」
「私のやるべき事?」
尋ね返すと彼は器に粥をよそうと彼女の前に差し出す。
「君自身が食べることと、王子さんに食べさすこと。……顔を見たくないって言われた程度で凹んでる場合じゃない」
彼は手際よく水差しと薬を準備すると、粥の載った盆を彼女の前に差し出した。
「取りあえず、行こう。俺も挨拶しておく必要があるからね」
※ ※ ※ ※
思い出すと現実だと認めたくないほど辛かった。
彼が着ている服は城下の子供が好んで着る簡素なものだった。何故自分がそんな服を着ているのか分からないが、古びた服を着ていること自体には抵抗はなかった。ルビーやスターと遊ぶために度々こういう衣服を着て遊び回っては怒られていた。
そう、怒られていたのだ。
アゲートに。
「……アゲート」
優しい男だった。自分を大声で叱るのは城内では彼くらいだった。みんな王子という立場に遠慮して強く言ってこなかった。母親は幼い頃に亡くなっていたし、父親は王であったから滅多に自分の前に顔を出すことはなかった。だから、アゲートはカイアナイトにとって父のような存在だった。
「……木登りは危ないと、叱ってくれたじゃないか」
あれも演技だったのだろうか。
アゲートが自分を大声で叱るのはいつも危険なことをしたときばかりだった。悪戯をしたときだってやんわりとした口調で叱るだけだった。真剣になって叱ったのは無茶な事をして、王子自信が危険にさらされた時ばかりだった。護衛も付けずに城を抜け出した時も、木登りをして降りられなくなって大泣きした時も、馬に無茶な乗り方をして落馬した時も、アゲートは大声で叱り、そして無事で良かったと抱きしめてくれたのだ。
だから、彼を信頼していたのだ。
ああして自分のことを心配して叱ってくれたのはこうして自分を信頼させるためのことだったのだろうか。初めからそのつもりで優しくしてくれたのだろうか。
父親以上に信頼していただけに衝撃が大きい。
彼が国王を殺したと言った時、自分に敵意を向けてきた時、信じることが出来なかった。
「王子………いい?」
ノックと同時にルビーの声が聞こえる。
彼は目尻を軽く指で押さえた。
「……なんだ」
半身を起こしてぶっきらぼうに答えると彼女は遠慮がちにドアを開いた。
ふわりと入ってきた匂いは暖かい食べ物の匂いだった。自分が空腹だと知らせるように微かに腹が鳴る。
「あの、食事持ってきたの。少し、食べた方が良いじゃないかって」
「………ああ」
先刻顔も見たくないと彼女に言い放ったというのに、今どんな顔をして彼女を見ればいいのだろうか。判断出来ずに一瞬彼女から視線を逸らそうとするが、彼女の背後にいる人物を認めてカイアナイトは険しい表情を浮かべる。
「……誰だ?」
不審そうに睨むと、男は肩を竦める。
男の手には包帯と白い小さな鉢がある。白藍の髪を持つ男だった。歳は三十代半ばくらいだろうか。恵まれた体格をしている男で、何か値踏みするような顔で王子の方を見ていた。
「ラズさんっていうの。助けてくれた人で手当もやってくれたのよ」
王子はちらりと腕を見る。
包帯に覆われた腕はどのくらいの怪我をしているのか分からなかった。軽く握ると、今まで何も感じなかった事が嘘のように強い痛みが走った。
痛みで少しだけ頭が冴える。
「色々世話になったようだ。だが、私は入室を許可した覚えはない」
男は天井を仰いだ。
「許可も何も、ここは俺の家なんだけどなぁ。それに、気を失っている状態で許可取れっつっても難しい話だろ」
男は平然とカイアナイトの近くまで歩み寄ると、ベッド脇のテーブルに包帯と小鉢を置いた。テーブルには粉の入った小瓶や紙袋が並んでいる。
カイアナイトは男の腰元を確認する。武器を持っている様子はないが歩き方は剣技を生業とする武人の足運びだった。
男は水差しからカップに水を注ぐと彼に差し出す。
「窒息するといけないから最小限しか飲ませてない。身体も欲しがっているはずだから飲めよ」
「………」
「どうこうするつもりなら、寝てる間にやってる。俺はお嬢ちゃんに雇われて坊ちゃんを守っているんだ。少しでもお嬢ちゃん信頼してんだったら、俺の事も少しくらいは信頼してくれると嬉しいんだけどなぁ」