第十七章 補給路を絶て
翌週から、補給路の戦争が始まった。
修道院の北棟の暖炉の前。俺は机に向かい、毎朝、午前五時に、
「点呼を始めます」
とひとり、声に出して儀式を開始した。
儀式の相手は、もう、栗山さんでも、所長でもない。ガリア砦からロウ・ベルケンの密偵が運んできた、昨日の補給路の報告書だった。
補給隊A、月曜日、リエル村方面。出発時刻、午前六時。御者、シャル。荷車、四両。積荷、米二樽、塩漬け肉一樽、衣料品一箱。
俺はそれを点呼簿の新しいページに、ひとつずつ書き写した。書き写したその下に、
「異常、なし」
あるいは、
「異常あり、補給隊A、二樽の塩漬け肉のうち、一樽が規定外の重量。確認要」
と書いた。
それを、その日の夕方、ロウ・ベルケンの密偵が受け取りに来た。密偵は俺の書類を、補給路の現場に運んだ。そして現場で、異常があった補給隊を密かに止めた。
止める方法は、簡単だった。
御者を「お願いだから」と酒場で捕まえる。御者を密偵団の宿に連れて行く。御者を丁寧にもてなす。そして別の、信頼できる御者と補給隊をすり替える。
不正な迂回ルートには、もう、誰も行かない。
ザールへの不正な補給は、最初の一週間で半分に減った。二週間目で、ほぼゼロになった。
勇者クリヤマ・グレントは、最初の一週間、まだ何も気づかなかった。
彼は王都の夜会で、戦勝を祝う貴族たちと、ワインを飲み続けていた。
ロウ・ベルケンの密使が修道院に届けてくれる報告書には、勇者の夜会の回数と、消費したワインの本数まで記されていた。週に四回。一回あたり三本以上。彼は自分の補給路の末端で何が起きているか、まったく気づいていなかった。気づく感性そのものが、ワインで麻痺していた。
二週間目に、彼の討伐の予定が立てられなくなった。彼の補給路の末端から、情報が来なくなった。ザールに物資が届かなくなった。大魔王の配下の雑魚魔物が、貢ぎをもらえなくなった。雑魚魔物が怒って、無計画に村を襲い始めた。
日時が、勇者には分からない。場所も、分からない。
彼は討伐に行けなくなった。
無計画な襲撃の現場に、王都から出陣しても、彼の馬が到着したときには、すでにガリア砦のリード副長と、各村の自警団の若者たちが、雑魚魔物を片付けていた。リード副長は俺の点呼簿の写しを頼りに、各村の自警団に戦術的な指示を降ろしていた。
「魔物の群れは、補給を断たれると、目的地がばらける」
「ばらけた群れは、村をひとつずつ襲う」
「だから、村ごとに自警団の配置と、武器の配置を変える」
俺の書いた、簡単な運用書だった。それをリード副長が現場で適用していた。雑魚魔物は、彼らに楽に片付けられていった。
勇者は、討伐の武勲をひとつも上げられなくなった。
夜会で彼は、貴族たちに苛立ちをぶつけ始めた。「なぜ私の補給隊はもたつくのか」「なぜ討伐の機会が回ってこないのか」。貴族たちは彼の怒りに、はじめは追従していたが、徐々に距離を置き始めた。第一王子アルカドの周辺ですら、彼を避ける貴族が出始めた。
ロウ・ベルケンの密使は、それらを毎日、修道院に運んだ。
俺はそれを点呼簿に書きつけた。
書きつけながら、ふと思った。
日本での栗山さんも、たぶん同じように、自分の足場が抜かれていることに気づかないまま、ある日、突然、立ち止まったのだろう、と。
俺は知らない間に、栗山さんの足場をここで、もう一度抜いていた。それは復讐ではなく、ただ補給路をまっすぐに戻しているだけだった。栗山さんの足場は、もともとまっすぐではないところに立っていたから、まっすぐに戻すと、彼の立ち位置が消える。それだけのことだった。
三週間目。
俺は修道院の机の上に、ガリア砦から届いた補給隊の最新の報告書を広げていた。
「シンジョウ殿、お顔の色が青いですよ」
ティアナが暖炉の前から、声をかけてきた。
「眠れていないんでしょう」
「いや、寝てます。三時間は」
「三時間では、ジュン様の頭がもちません」
「これくらい、日本でもよくありました」
俺は笑った。
ティアナが暖かいお茶を、俺の机に置いた。白い湯気が立ち上った。
俺はお茶をひと口、含んだ。舌の奥に、ほのかに甘いハーブの香りが広がった。
「ありがとうございます」
「お礼は、戻られたあとで」
彼女はふっと笑った。彼女の笑い方は、どこかレオハルトのそれに似ていた。戦友の笑い方だった。
その夜。
修道院に、ヴァロル・ハーズの密使が来た。
「シンジョウ殿、ガリア砦より急報です」
「はい」
「先週、勇者クリヤマがガリア砦に到着し、独自の補給隊の編成を命じました。しかし、出発の前夜、御者の半数が酒場で寝込んで、出動できず。残りの半数の馬車も、車輪が外れていて、動けず。砦は一度も、彼の補給隊を出していません」
俺はペンを止めた。
「ロウ殿の密偵団、優秀ですね」
「シンジョウ殿の台帳が、ピンポイントで撃つべき場所を教えてくれているからです」
密使は報告を続けた。
「勇者は激怒し、砦長ヴァロル・ハーズの責任を王宮に訴えると騒ぎました。砦長は平然と、『補給隊の車両整備は、王宮の管理下である。砦の責任ではない』と答えました」
「砦長、見事です」
「勇者は、王宮に戻りました」
「分かりました」
密使は扉を出ていった。
俺はペンを握り直した。次の補給路の編成を計算した。頭の中で、日本での毎朝のルート計算が戻ってきた。信号と、納品時間と、店舗の発注タイミングを、物資と、馬の脚と、街道の距離に置き換えるだけだった。
夜半。
ティアナが俺の扉をノックした。
「ジュン様、お疲れ様です」
「ティアナ様、まだ起きていらしたのですか」
「眠れない夜です」
彼女は杯を二つ、持っていた。杯の中には、温かい果実酒が、ぐつぐつと湯気を立てていた。
「少し、いただいていきます」
「どうぞ」
彼女は俺の隣の椅子に座った。暖炉の火が、彼女の頬を明るく照らした。
「ジュン様」
「はい」
「あなたは、勇者を憎んでいらっしゃいますか」
俺はしばらく、答えに迷った。
憎んでいるのかもしれない。けれど、憎しみでこれをやっているのかと聞かれると、違う気がした。
「憎んではいると、思います」
俺は低く言った。
「ただ、それだけでこれをやっているわけではないです」
「では、何で」
「日本にいた頃、俺は毎日、点呼簿を書いていました。誰にも読まれない、と思いながら書いていました」
「はい」
「でも、その点呼簿が、こちらの世界で人を救っています。たくさんの人を」
「はい」
「俺は、その続きを見たいんです」
「続き」
「俺の点呼簿の続きを、世界が生きていく、その続きを」
ティアナはゆっくり頷いた。
「分かります」
「日本では、俺の毎日は、栗山さんに利用されるか、所長に流されるかで終わっていました」
「はい」
「ここでは、そうなってほしくないんです」
「はい」
「だから、俺は彼を止めます。憎しみではなく、続きを守るために」
ティアナは杯を、俺の杯に軽く当てた。ちん、と澄んだ音がした。
「ジュン様、ありがとうございます」
「いえ、俺の方が」
「私の見抜く瞳は、あなたの続きのために使います」
彼女はまた、ふっと笑った。
その笑顔は、二月前に初めて出会った時の青ざめた頬の聖女ではなく、はっきりとした血の温度を持った、ひとりの戦友だった。




