第十章 中間点・偽りの勝利
冬が来た。
アイラスティアの冬は雪を伴わなかった。だが、空気は刃のように冷たかった。風は王都の城壁に当たって、低く唸った。
市場には、しかし、食料が溢れていた。
俺の引いた七本の補給路のうち、五本がすでに運用されていた。
冷蔵チェーンも、第一陣の三十台が街道を行き来していた。氷の魔石を組み込んだ二重壁の箱は、長距離輸送の途中の損耗をほぼなくしていた。
市場の屋台には、林檎が山積みされていた。鴉一羽分だった干し肉は、丸ごと一頭分の塩漬けの牛肉に変わっていた。パン屋の窓には、白いパンと黒いパンと、香ばしい匂いの温かい菓子パンが、ずらりと並んでいた。
子供たちは頬に、薄く肉が戻った。女たちは目に力が戻った。男たちは夜、明日の食事の心配をしなくなった。
冬至の日。
王都ヴェルダンで、戦勝祭が催された。
戦争には勝ってない。けれど、飢餓という見えない戦争には勝った。だから、戦勝祭、なのだという。
大広間に、貴族と文官と騎士団長と、辺境からの使者と、王宮の聖職者と、それから勇者一行が招待された。
俺はレオハルトの隣の席に座らされていた。右斜め前にティアナが、聖女の白い装束で座っていた。
大広間の正面、玉座の脇に、勇者クリヤマ・グレントが第一王子アルカドと並んで立っていた。
二人は何度か、こちらを見た。そして、笑った。
俺はその笑いを無視するように、グラスを口に運んだ。
王が立ち上がり、宣言した。
「我が国は、長き飢えの冬を、ついに越えた」
大広間に、低く歓声が上がった。
王は続けた。
「シンジョウ・ジュン卿の補給路改革。冷蔵チェーンの導入。点呼の儀の確立。これらの大功により、卿に、本日、新たな称号を授ける」
大広間の貴族たちがざわめいた。
王の声は響いた。
「我が国の王宮直属、補給路管理者。爵位、男爵」
俺は立ち上がって、深く頭を下げた。
「謹んでお受けいたします」
声が震えないよう、ぎりぎりで踏み止めた。
拍手が起こった。
しかし、その拍手の中に、明らかに冷ややかな視線が混じっていた。
第一王子と、勇者クリヤマと、その周辺の貴族たち。彼らは形だけの拍手をして、グラスを傾けるだけだった。
戦勝祭の後半。
俺は大広間の隅で、ティアナとぽつぽつ話していた。彼女は白い装束のままで、グラスを両手で持っていた。
「ジュン様」
「はい」
「あなたといると、毎日が新しいです」
彼女の言葉は唐突だった。だが、その声は淀みなかった。
「私は聖女として、ずっと神殿にいて、毎日、同じ祈りを繰り返してきました」
「はい」
「祈りは大事なものです。けれど、祈りは毎日、人を救うわけではありません」
「……」
「あなたは毎日、書類に文字を書くだけで、何百人もの人を救っていらっしゃる」
「いえ、それは皆さんで運営してくれてるから」
「あなたがいなければ、その仕組みは生まれていません」
ティアナはグラスを軽く回した。
「私は毎日、あなたが書類を書くところを見ているのが、好きです」
その言葉に、俺は頬が熱くなった。
「いえ、その、ただの点呼簿で」
「ええ、それがいっそう、不思議で美しいのです」
ティアナはこちらを見上げて、微笑んだ。その目に、明日への希望のようなものが、確かに灯っていた。
その時、俺の肩を誰かが叩いた。
振り向くと、勇者クリヤマ・グレントだった。
彼は酒をほどよくまわした顔で、
「シンジョウ卿、ちょっとお話、いいですか」
と言った。
ティアナの瞳が一瞬、固くなった。
俺は、
「はい」
と答えて、彼についていった。
クリヤマは、大広間の奥の人気のない回廊へ俺を連れて行った。燭台の灯りが、ぽつ、ぽつ、と回廊に落ちていた。
「冬を越えたな」
彼は軽く言った。
「はい」
「お前のおかげだ、と皆、言ってる」
「いえ、皆さんで」
「謙虚で何よりだ」
彼はふっと笑った。
俺は警戒した。彼の笑い方が、日本で栗山さんが俺を潰す前にやる笑い方だった。
「だがな、淳」
彼は声をぐっと低くした。
「お前のその補給路。ぜんぶ、これから、俺の名前で運用される」
「……はい」
「お前の手柄はもう、これ以上、増えない。ここから先、俺の名前が増えていく」
「……」
「お前は男爵になった。それで、満足しておけ」
「……はい」
「これは忠告だ」
彼はこちらに半歩、近づいた。
「お前がこれ以上、新しい仕事をしようとしないこと。お前がレオハルト殿下と距離を取ること。お前が聖女様に近づきすぎないこと」
「クリヤマ、さん」
「シンジョウ卿、と呼べ。仮にも、貴族同士だ」
彼はにやりと笑った。
「これを守らないと、お前、こっちでも痛い目に遭うぞ」
「……」
「変わらないよ、淳。日本でも、こっちでも、お前はお前だ」
彼はそう言って、回廊を戻っていった。ワインの匂いと、香水の匂いと、それから冷たい敵意の匂いを置き残して。
俺は回廊の燭台の下で、しばらく立っていた。
頭の中でふと、日本でのある朝の光景が浮かんだ。配送車に乗る前の、点呼の朝。休憩室のソファで栗山さんが寝ていた。俺は彼のぶんの点呼を代行していた。
あの朝の自分の手の動きを、俺ははっきり覚えていた。点呼簿に嘘の数字を書く、そのペンの感触。
そうか、と俺は思った。
俺は今、ここでも、また、栗山さんに点呼を代行させられようとしている。補給路という巨大な点呼簿に、彼の名前を書かされようとしている。
日本では、それはせいぜい月給三十万の世界の話だった。俺の書類仕事の上澄みだけ、彼がすくい取って、所長に出していた。それでも五年間、俺はそれを止められなかった。
ここでは規模が違う。
俺の書類仕事の上澄みではなく、俺が引いた補給路そのものが、彼の名前で運用される。米と塩漬け肉と氷の魔石が、彼の名前で村に配られる。
誰かが飢えで死ぬ前に、彼の名前で救われたことになる。誰かが飢えで死んだ時、それは俺の責任ではなく、彼の責任、ということになる。
俺の毎日の形が、彼の毎日の形に書き換えられる。
俺は回廊の窓から、外を見た。月が雲の隙間から、薄く見えた。寒い夜だった。
窓ガラスに、自分のぼんやりとした輪郭が映っていた。その輪郭は五年前に配送業界に入った頃の自分と、ほとんど変わらない、頼りない肩をしていた。
配送ドライバーの肩は、五年やっても、強くなるわけではない。荷物を毎日運んでいるから強くなる、というのは嘘だ。荷物は台車で運ぶ。手で抱えるのはせいぜい十キロまで。それ以上は腰を壊す。配送員の肩は丈夫である必要はない。書類を書くペンの握力さえあれば、いい。
俺はガラス越しの自分の肩に、軽く手を置いた。
頼りない肩だった。
それでも、この頼りない肩で、ここから先、俺は戦わなければならない。戦うというのは、剣でではない。ペンで、だ。毎日、書き続けるペンで、だ。
幸い、俺はそれだけは、五年間、誰よりも続けてきた。




