第一章 点呼、零ミリグラム、異常なし
午前四時の営業所は、冷蔵庫の奥みたいに冷えている。
俺はアルコール検知器を口に当てて、ふっ、と短く息を吐いた。
ピッ、と電子音が鳴って、画面に「〇・〇〇 mg/L」と表示される。
零ミリグラム。異常なし。
点呼簿を引き寄せて、ボールペンを握る。日付。氏名。検知器の数値。健康状態の項目に丸印。車両番号。睡眠時間。最後に署名欄。
いつもの動作を、いつもの順番でこなす。指先は寒さでかじかんでいたが、字は乱さない。
ふと、視線を上げる。
休憩室のソファで、栗山さんがいびきをかいて寝ていた。アロハシャツみたいに緩んだ作業着。脇に転がっているのは缶コーヒーの空き缶。何本目かは知らない。
俺はため息を呑み込んだ。
「栗山さーん。点呼の時間です」
軽く肩を揺すぶる。栗山さんは「あー」と言って薄目を開け、俺の手を払いのけた。
「淳、あれ……あれ、よろしく。いつものやつ」
「いや、それはちょっと」
「いいから。お前、字きれいだから」
彼はもうこちらを見ていない。寝返りを打って、こちらに背中を向けた。
俺は黙って、点呼簿を二枚目に開く。栗山さんの欄。アルコール検知器を彼の鼻先に近づけて、一度だけ吐息を捕らえた。〇・〇五。微妙だが、たぶんセーフ。たぶん。
いや、本当はやってはいけない。代行点呼は法令違反だ。
でも、俺がやらなければ、栗山さんは出勤扱いにならない。出勤扱いにならなければ、シフトに穴が開く。穴が開けば、コンビニの店長たちから怒鳴り込みが来る。
怒鳴り込みは、最終的に俺のところに飛んでくる。
手早く数値を書き込む。「異常なし」。署名は、栗山さんの名前を真似て書く。何百回もやっているから、もう本物より上手いかもしれない。
点呼簿を閉じた。表紙に黒のマジックで書かれた俺の名前が、蛍光灯の下で鈍く光る。
「新庄淳」
その下には、小さな字で「五年目」と書いてある。
俺はその字を、爪の先で軽くなぞった。
配送車のキーを握り、駐車場に出る。
息が白い。鼻の奥がツン、と痺れる。冬の匂い。
二トン保冷車。ナンバーは六七四九。タイヤを蹴って空気圧を確認。ライトの点灯確認。ワイパーの動作確認。荷台の温度を確認。冷蔵棚の表示は摂氏五度、冷凍棚はマイナス二十度。問題なし。
日常点検簿に、また丸印を並べる。
エンジンをかけると、車が小さく震えて目を覚ます。ぼそぼそとしたアイドリング音が、夜明け前の駐車場に薄く広がる。
ハンドルを握る。革の感触は冷えていて、最初の一回はキュッと指が引きつる。
今日のルートは、いつものコンビニ五店舗。
市内の北側を回る、慣れたルートだ。新庄スペシャルと栗山さんが冗談半分で呼ぶ、俺の組んだ最適化ルート。信号と、納品時間と、店舗の発注タイミングを全部頭に入れて、無駄なく回るように作った。
所要時間、平均三時間二十二分。同じ車両、同じ荷物量で、栗山さんが回ると四時間半かかる。
誰も褒めてくれない。記録には残らない。でも、毎朝、確実にコンビニの棚は埋まる。
それで、いいのだ。たぶん。
一店舗目。住宅街の角にある二十四時間営業の店舗。
台車を引いて、店裏の搬入口に近づく。台車の車輪が、薄く張った霜を踏んで、くしゃ、と小さく鳴る。
夜勤明けの店長が、欠伸をしながら裏戸を開けてくれた。
「おはようございます。お疲れさまです」
「ああ、新庄くん。今日も時間どおりだね」
「はい。納品します」
検品。サイン。空き台車の回収。挨拶。次の店へ。
二店舗目、三店舗目、四店舗目。
動作は同じ。でも店舗ごとに微妙に違う。冷蔵棚の隙間の取り方。賞味期限の並べ替え。店長の顔色。前の便で何が売り切れたか。
俺は気づいたことを、全部、点呼簿の最後の余白にメモしていく。
「三号店、ホットスナック什器、温度低い」
「五号店、裏口の電球、点滅」
誰に頼まれたわけでもない。ただ、気になったから書く。書かないと忘れる。忘れたら、たぶん次の便で誰かが困る。
五店舗目を出て、営業所に戻ったのは午前八時十五分。空はもう、薄く青い。
午前会議。
所長と、栗山さんと、俺。三人だけの小さな会議だ。
栗山さんはコーヒーを片手に、ふんぞり返って座っている。俺は端の席で、点呼簿を膝の上に置いていた。
「先月の配送効率、見ましたか所長」と栗山さんが声を張る。「俺の組んだルート、平均所要時間が前月比で十二パーセント短縮ですよ」
「ああ、見たよ。栗山くん、頑張ってるな」
所長が頷く。栗山さんが口の端を引き上げて笑う。
俺は俯いた。
そのルートを組んだのは俺だ。先月、住宅街の裏通りに信号機が増設されたから、迂回路を一本作り直した。資料には俺のメモも入っているはずだった。だが、栗山さんが提出した報告書には、彼の名前しか載っていなかった。
言いたいことはあった。
でも、五年勤めて、何度か言ったことがある。そのたびに、栗山さんの態度は悪化した。シフトの嫌がらせ。雑用の押し付け。陰口。
言って解決しないことを、何度も言うのは、たぶん、もう疲れた。
「新庄くんも、栗山くんを見習ってさ」
所長がこちらを見て言った。
「はい。すみません」
俺は頭を下げた。
栗山さんが、ふん、と鼻で笑った。
その笑い方は、五年間、何度見たかわからない。
帰宅して、ワンルームのアパートに着いたのは午後十時を回っていた。
俺は布団に倒れ込む前に、机の上の小さなノートを開く。
市販の安い大学ノート。表紙に、自分で書いたラベルが貼ってある。
「業務記録(私用)」
会社の点呼簿とは別に、自分用に取り続けているメモだ。気になったこと、改善案、トラブルの兆し。何の役に立つかわからない。誰にも見せていない。
俺はその日の出来事を、淡々と書き込んでいく。栗山さんの代行点呼、冷蔵什器の温度、裏口の電球。文字は小さく、行間は詰めて。
書き終えて、ペンを置いた。
天井の蛍光灯が、ジジ、と微かに鳴っている。
俺は息を吐いて、その音に耳を澄ませた。
ふと、思う。
この記録に、何の意味があるんだろう。
誰も読まない。誰も見ない。栗山さんに利用されるか、所長に流されるか。それで終わる。
俺の毎日って、何のためにあるんだろう。
翌朝、午前三時半。
いつもより三十分早く、営業所の電話が鳴った。
所長からだった。
「新庄くん、悪いんだけど、今日は国道ルート行ってくれ」
国道ルート。普段は栗山さんが回る、長距離の冷蔵チェーン便。
「栗山さん、どうかしたんですか」
「ちょっと体調崩したらしくてな。お前ならいけるだろう、淳。お前なら」
所長の口調は、断られないように作られていた。
俺は受話器を握り直して、
「わかりました」
とだけ答えた。
受話器を、置いた、その瞬間、ふと、頭の、どこかで、今日は、何か、いつもと、違う、と、囁く、声が、した。
ただの、ルート変更、ではない、何か。
所長の、声の、最後の、ひと音、その、気弱さ、で、なく、むしろ、断られないために、丁寧に、削いで、削いで、最後に、残した、頼みごと、の、芯、の、ような、もの、が、受話器の、向こうに、あった。
俺は、その、芯を、断れなかった。
断れるほどの、立場が、五年目の、俺には、なかった。
立場、というより、断り方を、覚える、機会が、五年間、一度も、与えられなかった、というだけ、かも、しれない。
俺は、点呼簿を、抱えて、駐車場に、出た。
窓の外で、雪が降り始めていた。
降り始めの、雪は、地面に、落ちる前に、風で、ふわりと、横に、流れていった。
俺は、しばらく、その、雪の、流れ方を、見ていた。




