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満ちる銀河のタイドライン

作者: 伊佐凪セヂ
掲載日:2026/04/24

 海がほどなく満潮を迎える時刻。一隻の漁船に私は揺られていた。

 見渡す限り白銀の海面が広がっている。視界を埋め尽くし、水平線の果てへと至る銀盤だ。「ガラスの海」とでも表現するべきかもしれない。


 そして、ところどころに点在するのは島の姿だ。穏やかな風が私の耳朶をくすぐるようにして吹き抜けてゆく。かつて瀬戸内と呼ばれた海域を、私は訪れていた。


 漁船は全自動操縦で、乗客は私一人だった。持ち物は旅行鞄一つのみ。中には書類の束が収められている。これから向かう先で使うことになるはずだった。


 船はほどなくして点在する島の一つに接岸する。といっても漁港があるわけではない。かつては石垣が積まれていたのであろう岸壁に横付けしただけのもの。波が穏やかな日でよかったと思う。荒れる波濤は、ちょっとした上陸さえ許さないこともままあるのだから。


 頭上には初夏の太陽が燦燦とした日光を注いでいる。蒼空に白い雲がたなびくさまは、まさしく絵に描いたような日本の夏空かもしれない。


 だが、聴こえてくるべき蝉の声はない。

 かつては飛び交っていたであろううみねこの声もない。

 ただ、打ち寄せる波音だけが、この小さな緑なす島を取り巻くだけだった。


 目的地はすぐ目の前だった。

 岸壁から続く石段の先に、その屋敷はあった。

 変わらないな、と思う。古びた表札には、かすれかかった文字で「本間」とだけ記されていた。


「御免ください――」


 声をかけるのは、職務上の決まりだ。訪問先が仮にがらんどうの留守であったとしても、それは守られねばならない掟である。ましてや、今回の訪問相手は豪邸の住人だ。礼節は重んじねばならない。


 果たして、訪れた屋敷は豪邸であった――と表現した方が適切なほどにくたびれたものだった。


 かつては見事な輝きを放っていたであろう白壁には、無数のツタが繁茂し、屋敷全体を覆うようにしている。長らく手入れもされていない庭先も然りだ。かろうじて覗いているのは二階の窓ぐらいだろうか。植物によって守られたその邸宅とは、まさしく文明社会から切り離された秘境の要塞であるようにも見えた。


「はいはい、どなたでしょう」


 ややあって玄関の扉が開かれる。現れたのは一人の老婦人だった。老齢の為か、すでに視力の大半を失っているらしく、そのまなこは閉じられたままだった。


「突然申し訳ありません。かねてより書簡でご案内をしていた件で参りました」


「ああ……」


 老婦人は柔和な表情で私を迎え入れる。外観と違い、驚くほど手入れの行き届いた空間が待ち受けていた。まめな掃除を心がけているのだろうか。埃一つ見当たらない。あるときを境に、屋敷自体が時を刻むのを止めてしまったかのような錯覚さえ覚えさせるものだった。


「どのようなご案内でしたかね。この通りすっかり目も悪くなって、頂いたお手紙を読むこともままならない有様ですのよ」


「そうでしたか」


「この島にはもうわたくし一人しか残っておりませんの……」


「理解しています。その件についてのご案内でして」


「――外惑星移住、でしょう?」


 何もかもお見通しだと言わんばかりの口調で、老婦人は微笑んだ。

 私の脳裏によみがえってくるのは遠い昔の記憶。そう、あの頃と何も変わらない。その眩しさに、私はしばし言葉を紡ぐことを忘れてしまう。記憶にあるその姿がまざまざと再現される。


 本間透子。

 それが彼女の名前だ。かつての同級生でもある。

 こうして顔を合わせるのは数十年ぶりになるだろう。そう、これは彼女との再会の場でもあったのだ。


「あらあら、わたくしったらせっかくのお客様なのに……お茶を淹れて差し上げましょうね。お菓子もね、いま先ほどクッキーが焼きあがったばかりですのよ。どうぞ、召し上がっていってくださいな」


 そう言うと、いそいそと支度を始める。

 すっかり弱まった視力にもかかわらず、その動きは実に正確なものだった。だから私は思い出す。彼女が……透子がかねてより不思議な力を持っていたという事実を。


「植物たちがね、教えてくれるんですのよ」


 在りし日の面影が一気に蘇ってくる。かつて私と共に通っていた中学校――その園芸部に彼女は所属していた。


 出会いのきっかけが何だったのか……。

 それは私にとっても遠い遠い日々のおぼろげな記憶だ。透子は、いわゆる「変わり者」という扱いの少女であって、試験を首席で入学したにもかかわらず、授業においては常に落第生だった。


 何を考えているのか全く分からない娘という、根も葉もない評判は瞬く間に広まり、それらはやがて彼女への執拗な嫌がらせへと姿を変えていった。


 お国柄かな、と思う。自分たち集団に馴染まない者、得体のしれない者、ちょっとでも飛びぬけて優秀なもの、あるいはその逆のもの――旧態依然とした校風であったがゆえに、彼女への虐めは見過ごされていた。いや、教職員すらも加わっていたのかもしれないとさえ、今ならば思う。


「……懐かしいわね。覚えていますよ、あのときのことは」


「えっ?」


 それは突然の告白だった。かいがいしくお茶の支度を進める背中が、私に語り掛けてくる。


「先生たちにすら虐められているわたくしを、貴方が助けてくれたのよね」


「それは……」


「隠さなくても大丈夫。この家に、貴方がやって来るであろうことは植物たちが前もって教えてくれていましたもの。今でも感謝しているのよ、わたくし」


「……お互い、年を取ったね」


 私はそう応じるので精いっぱいだった。



 記憶の扉は次々と開いてゆく。

 それらは決して知られてはならない真実も含まれていた。


 ある日の放課後――教室で、私は彼女が使っていた音楽用の縦笛をひそかに盗んだ。ほんの出来心による犯行ではなかった。私は彼女に恋をしていたのだ。それは今ならばはっきりと言える苦い思い出の一つだ。あのとき、心臓は破裂寸前だった。家に持ち帰った透子の笛を口に含んだとき、それは甘い味がした。私が背徳の味を知ったのは、そのときが最初で最後だった。後悔だけが残った。


 私の罪は露見しなかった。

 後日、無くなった縦笛を盗ったのは、虐め首謀者であるとある男子生徒の仕業ということが公表された。彼は学校をやめた。周囲は当然の報いだと手のひらを返した。透子へのいやがらせはそれで呆気なくも終息した。


 この事は誰にも明かしていない、私だけの秘密だった。そのつもりだった。


 だが――

 透子は全て知っていたのではないだろうかと、今でも私は恐れている。


 彼女が持ち得る植物との交感能力ならば、事件の真実を知ることは造作もないことのように思えてならなかったからだ。想像は憶測を呼び、そして妄執に達した。ただただ、私は彼女が恐ろしかった。恋をしながら彼女を避けた。

 私は、私自身の罪を償えぬまま、学校を卒業し――そして透子とはそれきりだった。



「……この世界はじきに沈むのでしょうね」


 現実へと引き戻される。

 私の目に映る透子は、確かにあの日のあでやかな姿のままであり、その黒真珠のような瞳が窓の外へとむけられていた。


 彼方に広がるのは銀色をした水平線だ。

 夜が訪れれば。満点の星々が水底に広がることだろう。

 世界は今、銀河に没しようとしている。


「この現象がいつから始まっていたのかは、もう誰にも分りません」


 私は努めて平生を装った。事務的な口調で淡々と告げてゆく。何故ならばこれこそが私に課せられた役目だからだ。


 前世紀の終わりに、それは突如として始まったとも記録されている。

《次元浄昇》という専門用語が取りざたされたのも、遥か昔のことだった。


 世界のどこにも、この現象から逃れられる場所は存在しなかった。

 ほどなくして地球からの脱出が始まったが、脱出用宇宙船の乗船権を手に入れられる人々は、指導的地位にあるような者たちばかりであり――絶望が等しく世界中を埋め尽くしていった。


 暴動が発生し、それはやがて紛争、戦争へと姿を変えた。

 そうしている間にも《次元浄昇》は加速度的に進行した。あらゆる世界が、生き物たちが銀河の底へと没していった。あとに残されたのは、次元の海とも称される銀盤が広がる世界だった。だから――この瀬戸内の海もまた、まもなく界面下に没する。それは決められた運命だった。


 私が行政の代理人として、生き残った人々のもとに地球外への脱出を案内する立場に至ったのは、これはただの偶然に過ぎない。所属機関であったはずの行政すら、今はもう形骸化してしまったのだから。よって今の私はただの旅人である。


「……災厄から逃れることは叶わない、と植物たちは告げていますわ」


 透子は、いつの間にかこちらへと向き直ってそう言った。静かな笑みを浮かべている。


「地球の外へ逃げたところで……銀河そのものが世界を飲み込んでゆくのでしょう。それでは何をしても無意味なのではなくって? かの『平家物語』は壇ノ浦のくだりにもありますよ。『水の底にも都があるでしょう』……と。昔の人の他界観念だとばかり思っていたけれど、案外本当のことなのかもしれませんわね。だから、わたくしは怖くないのです。……いいえ、本当は少しだけ怖いのかも。だって、そうでなければ今もこうして、未練がましく島の上で生き延びてなどいませんもの」


「でしたら、なおのこと脱出を……」


「いいえ」と透子はそれでも首を横に振る。「今日までこの島で生きながらえてきたのはね、きっと貴方と再び会うためだったんじゃないかと今は思うんですの。植物たちも、先ほどからすっかり静かになってしまいました。まるで自分たちのお役目が終わったのを悟ったかのようにね」


「透子……私は……!」


「やっとその名前で呼んでくださいましたね」


 そこにあるのは、あどけない少女の笑みそのものだった。在りし日の青春が蘇ってくる。


 私たちは互いに、どちらからともなく手を伸ばすと、そして固く抱き合った。だが、私にはもう彼女のぬくもりを感じることはできない。何故ならば――


「そう、貴方……もう、人の肉体を捨てていたのね」


「ああ、今の私は機械仕掛けで動くだけのメッセンジャーだ」


 それは、遠い年月を生き延びるために私自身で選んだ選択の結果だった。だから、透子の淹れてくれたお茶を楽しむことも、焼き菓子を味わうことも、すでに叶わない。だが、それでもいいと私は思っていた。


「身体は変わっても、あのときわたくしを庇ってくれた優しい腕であることに変わりはないですわ」


 鈍く光る金属の腕――優しく愛撫するような手つきで透子は私を抱きしめる。そして囁いた。


「――その時が来たようね」


「ああ」


 すでに視界は一面の銀河に埋め尽くされていた。

 足元からせりあがってくるのは白き星々の群れだ。その中へと私たちは還ろうとしている。苦痛はない。ただ、互いのぬくもりだけを感じながら、私たちは青白き光芒へと変わってゆく。

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