ミルク粥
5分程経った頃だろうか、ノックもなしに、部屋のドアがそっと開かれた。
あ、王子、と声をかけようとすると、しっ、とでも言うように人差し指を唇に当てる。
静かにドアを閉めると、王子がさっきまでデパコスが座っていた椅子に腰をかけた。
「あのオカン、やっと出て行ったみたいだな」
オカン?ああ、デパコスの事か。
「すんげえ過保護なのな。びっくりしたわ」
私達は小声で会話を続けた。
「うん、でも悪い人じゃないみたいだよ。婚約者の事、大事にしてたんだろうね」
そうかなあ、と王子が首を傾げた。
「オレも記憶が無かったからさ、あいつに執務のレクチャー受けてたけど、全然心配してないみたいだったし、見舞いに行かねえの?って聞いても『意識が戻れば連絡が来るでしょう』みたいな?だから今日はびっくりしたわ」
「ふーん、照れ屋さんなのかな、デパコスは」
「何、デパコスって」
そこからか!まあ、あの王子だもんね。
「あのね、デパコスってのはデパートでしか扱わないようなハイブランドの化粧品の事。それでさ、あの人、名前が『クラレンス・クリーク・ランカム』」
そこまで言って私は吹き出しそうになり、また、しっ、というリアクションを取られた。
「悪い。オレも笑いどころが全然分からないわ。それより、誰か来る前に軽く打ち合わせしとこうと思って。時間がないから手短に」
確かにそうだ。
「百歩譲って『王子』はまだ許容範囲だろうけど、かとりんは流石にマズいと思ってさ、こっちの名前で呼ぶ事にしたから」
うんうん、と私は頭にメモ書きをした。
「あと、記憶が無いとか、混乱している、ってのはまだしも、この世界の人間じゃないとか、異世界から来たとか言ってたら、いよいよおかしくなったと思われるかも」
そらそうだねえ、と私も相槌を打った。
「執務、って言ってたけどさ、字とかは大丈夫なの?会話は普通に出来たみたいだけど」
「そこな。不思議なんだけど、オレは日本語喋ってるつもりだし、日本語書いてるつもりなんだけど、相手から見るとこの国の言葉に聞こえて、この国の文字に見えるみたいなんだ」
「…………そら、便利だねえ」
あとは………と王子は思案げに宙を仰いだ。
「いきなり婚約者がいて、オマエも面食らっただろうけど、なんか困ったらいつでも言って。何しろ『王太子殿下』らしいから、大体の事なら通せると思う」
「うーん、今のところ大丈夫そう。いきなり婚約者の中身が私になっちゃって、ある意味気の毒な人だしね」
そこがなあ、なんか気持ち悪いんだよな、と王子は相変わらず納得していない様子だった。
「まあ、なるべく色々聞いて、1ヶ月内には元のご令嬢になりすませるように努力するよ」
「1ヶ月、って何で?」
と聞いた王子は、ああ、と視線を逸らせた。
「両親、いるんだね。会うのが楽しみだけど、ちょっと怖いかな」
「父親の記憶は殆どない、って言ってたっけ」
王子が傷ましそうに私を見た。
「うん、せっかくだから、あんまりがっかりさせたくないな、って」
王子が手を伸ばして、私の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「心配するな。そのままだって、オマエは素直で優しいいい子だよ」
王子、いいヤツ…………
泣かせてくれるぜ。
「じゃあ、そろそろ戻るわ。オカンが執務室戻ってオレがいない事に気づいたら、真っ先にここに来そうで怖い」
いや、それはないだろう、とは思ったけれど、お医者さんも来るらしいし余計な詮索をされても困る。
「何か連絡取り合う手段があれば良いんだけど………」
そう呟くと、王子はくしゃりと笑って、じゃあ早く元気になって仕事手伝ってよ。そうすれば、2人で話せる機会も増えるだろ、と言った。
「じゃあ、またな」
王子は来た時と同じようにそっとドアを開くと、ちらっと左右を見渡し、静かに出て行った。
やがてやって来たお医者様は、優しそうなおじいちゃん先生だった。
熱を計り、脈を取り、心音を聞いてにっこりと微笑んでくれた。
「特に問題はなさそうですね。でも、軽い栄養不足と脱水、貧血が見られます。食餌療法で、ゆっくり回復して行きましょうね」
食事!
「あ!あの!!今日からもう何か食べても大丈夫ですか!?」
思わず前のめりになる自分が恥ずかしい。
「ええ。差し当たって問題の無い献立は厨房に知らせておきます。それから、エインズワース公爵にも、私から報告をしておきますね」
エインズなんとかとは誰ぞ、と思ったが、おじいちゃん先生がフォローして下さった。
「記憶の混濁に関してはまだ何とも。1週間前に目覚められた王太子殿下も時々混乱されているご様子。ただ、毎日の政務は着実にこなされていらっしゃる。おふたりとも、今まで通りの日常を穏やかに過ごされる事で落ち着いて来る事を願っております。ただ、あまりにも不安な時がありましたら、またご相談下さい」
エインズワース公爵は、クラレンス様の事ですよ、と先生は仰った。
それから30分程経っただろうか。
待ちに待った食事を、前回とはまた違う綺麗なお姉さんが運んで来てくれた。
何だろう、甘い、とても良い香りがする。
「今日はごく軽い物から、というご指示がありましたので」
そう言って、ワゴンを押して近寄って下さる。
すると、足音がして、何故かデパコスと王子が入室して来た。
「………良かった。特に問題はないと医師から聞きました。少しずつ栄養をつけて行きましょうね」
「良かったな!今日から食えるんだ、アルテミシア」
「…………嬢」
むっつりとデパコスが呟いた。
「大体、何で殿下まで着いて来るんですか」
「え、だって、執務室にいたオマエに報告来たから一緒に聞いたし。アルテミシアには元気になって貰いたいし」
「…………だから、呼び捨てにしないで下さい」
え、そこ?
と王子が呟いた。
何でもいいよ!
呼び方なんて何でもいいから早く…………早く、食わせて…………
私の必死の形相に気付いたのか、デパコスがベッドサイドの椅子に座って、ワゴンを引き寄せた。
お姉さんが、「いえ、私が………」と言うけれど、片手を挙げて制する。
「…………ミルク粥ですか。最初は丁度良いかもしれませんね」
いいから早く食わせろ、と思っていた私は、その不穏な名前に顔を上げた。
「あの………ミルク粥と言うのは一体………」
デパコスが不思議そうな表情を浮かべた。
「ごく普通の病人食ですよ?ミルクで炊いたお粥に、ハチミツと若干の香辛料が入った」
「牛乳で煮込んで!」
私の声が震えた。
「ハチミツかけた」
王子の声が慄く。
「米!?」
最後は2人の声が完全にシンクロしていた。
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