剣先フィーヴァー
〈土用丑そのときどきの飯を食ふ 涙次〉
【ⅰ】
前回、書かうとして忘れた事- * 尾崎一蝶齋の道場に、こゝのところカンテラ、じろさんは度々遊びに行つてゐる。何故つて、日本武道裏街道とでも云へる逸話の寶庫を覗いてゐるかのやうな、尾崎の談話が面白かつたから。勿論、木刀での試合も繁々してはゐたが、そちらの方は、まさしく「試合」であり、數々の謂はゞ「死合」とでも云ふべき血戰を潜り拔けて來た二人からすれば、言葉は惡いが、尾崎の物語る語の重みには似つかはしくないとも思へた。
* 当該シリーズ第32話參照。
【ⅱ】
尾崎の話は例へばかうだつた。一蝶齋と云ふ彼の號は、代々引き継がれて來たものだと云ふ。「今、私で何代目なのかなあ。正直こんがらがつちやつて定かではないんだけど- まあ私の家は名門と云へるんだらうね。その初代が何で一蝶齋と名乘るやうになつたか」
「二人の武士がゐた。彼らは發見した。花の蜜を一心に吸つてゐる一匹の見事な揚羽蝶を。武士たちは賭けをするんだな。どちらが早く、蝶を飛び立たせる事が出來るか、と」
「片方の武士。そんなの容易い。ぎらり、大刀を拔き放ち、花を咢のところから剪り離してしまつた。だが、蝶はそれに氣付かず、蜜を吸ひ續けてゐる」
「もつと容易い法があるよ。もう片方の武士が云つた。『待つ事だ。天の摂理に從ふのだ』。やがて蜜を吸ひ切つた蝶は、ひらひらと舞ひ上がり、大空へと飛び立つて行つた」
【ⅲ】
「簡單極まりない事だが、この故事は、殺人剣の限界を示唆してゐる。生き死には天が定める事。蝶と花との生は天に任せる事」
「云ふ迄もなく後者の武士はうちのご先祖、初代・一蝶齋だ」
「で、前者の、このエピソオドでは天に逆らふ殺人剣の代表格とされてゐるのが、伊達九右衛門。後の* 伊達剣先。と云ふ事でカンテラさん、お主の造り主が參考にしたと云ふ左利きの剣豪だ」
信憑性は定かではない。だが、話の要諦は、「武」を究めた者にしか到達不可能である。然も、初代・一蝶齋に絡むのが伊達剣先である、と云ふところ、心憎いばかりの客への配慮だ。
* 前シリーズ第59話參照。
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〈挑發す犬齒の拔けた老いぼれ犬更に一撃言葉はパンチ 平手みき〉
【ⅳ】
こんな氣の利いた逸話を肴に、茶碗の冷酒を樂しむのは、武道狂とも云へるカンテラ・じろさんには、何よりの馳走だつた。勿論、その酒を甲斐甲斐しく酌いでくれるのは、こゝ數箇月間一蝶齋に忠實に師事してゐる、上総情である。
だがその上総が今日はゐない。「まあ、彼にもプライヴェートな時間つてものがあらあね」と、師匠は云つてゐるが... 突然、じろさんはスマホで呼び出された。テオだ。「大變だ! 上総さんが攫はれた!」‐「何だと!?」
一蝶齋、天を仰いだ。「【魔】、か」。
【ⅴ】
涙坐、「シュー・シャイン」の話を総合すると、かうだ。最近、魔界は「民主化」され、群雄割拠の狀態。魔界にはメカニック集團とも云へる者らがをり、以前は「主」がゐて、その命に從つてゐたものだが、今ではその集團が自律的に動いてゐる。で、そのメカニックたちが目指したのが、ロボット剣豪・伊達剣先の再生、及び伊達の脅迫に依るメディアの乘つ取り。上総が拉致されたのは、そんな動きの中での事。全く、自分の姿と寸分も變はらぬ者がそんな惡事を働いてゐる、となつては、カンテラ、酒が不味くなるどころの段ではない。
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〈逃げられぬバンガローより一呼吸 涙次〉
【ⅵ】
以前も* 鷹町健司なるヤクザな技術屋が、安保さんに對抗して、剣先の蘇生を企てた事ありましたよね。今回、剣先の名が挙がつたのは、偏にカンテラの名望(?)の髙さから來るもの(カンテラへの恐れと剣先の再生を望む聲とは、比例してゐた)。魔界は俄然、即席「剣先フィーヴァー」で沸き立つてゐる。だう出る、カンテラ・じろさん? 次回に續きます。ではでは。チャオ。
* 前シリーズ第80話參照。